必死の軌道修正スリラー『カナリアはさえずる』

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必死の軌道修正スリラー『カナリアはさえずる』

 つまりスリラーとは、必死でやる軌道修正のことなのである。

 おひさしぶり、ドゥエイン・スウィアジンスキーの新作『カナリアはさえずる』を読みながら、そんな思いを新たにした。

 よいスリラーとは主人公の(ということは感情移入する読者の、ということでもある)思い通りには絶対に物事が進まない物語のことなのであり、なんとかして予定された着地点に到達しなければ、という憔悴が心を駆り立て、疾走感を生み出す。本来の予定Sとはまったく違う方向に進むベクトルAが生じたら、それを打ち消すためのベクトルBが必要になる。AとBの和がSと等しくなるまで物語は軌道修正を強いられるのだ。ただし、貪欲な作者は一の矢だけでは済ませず、さらに異なるベクトルを投入しようとするだろう。

 より図式的に言えば、平行四辺形abcdを思い浮かべるといい。対角線acが本来の道筋なのだが、作者はabcもしくはadcという遠回りを読者に示す。その道筋ab+bcは、凡庸な書き手ほどacに近くなり、優秀な書き手であればあるほどかけ離れていく。

 ドゥエイン・スウィアジンスキーは、この人真っ直ぐが投げられないのではないか、と思うほど、手から離れたボールがあさっての方向に逸れる作家である。その危険度は、送球が一塁手ではなく走者を目指して飛んでいく、星一徹の魔送球並みだ。つまり、実にスリラー向きの作家なのだ。

『カナリアはさえずる』は、一つの愚かな行いから始まる物語だ。成績優秀な大学生のサリー・ホランドは、ある夜に開かれたパーティーでDという先輩から頼まれごとをする。その結果、フィラデルフィア市警麻薬捜査課の刑事、ベンジャミン・F・ウィルディに現行犯逮捕されてしまうのである。Dは、大学生でありながら麻薬の密売に手を染めていたのだ。彼を車で送ることで、その取り引きに巻き込まれてしまったのである。

 サリーが単に利用されただけだと見抜いているベンジャミンは、彼女が車で送った人物の名前を明かしたら放免しよう、と約束する。サリーはその言葉に従わず、別の選択肢はないかと考えてしまう。物語を決定づける「愚かな行い」とはそれだ。彼女は、ほぼ面識もないに等しいDをかばってしまうのである。その結果として嘘をつくことになるが、偽りで固めた石垣の上には脆い城郭しか築けないのはご存じの通り。たちまち露呈する綻びを繕うために、彼女は二の手、三の手を繰り出さなければならなくなる。そもそも最初の一手(ベクトルAだ)を誤らなければ、家で安らかに眠れていたはずなのに。

 まさに軌道修正スリラーのお手本ともいえる作品で、どこへ話が進んでいくのか予断を許さないところがおもしろい。スウィアジンスキーの工夫はサリーを他力本願のか弱いヒロインにせず、海千山千のベンジャミンを手玉に取る機略と胆力の持ち主として描いた点にある。彼女は賢いのだ。最初に間違った選択をしたこと以外は。このキャラクターゆえ、物語には主人公が困難を乗り切っていく冒険小説の要素が加わっている。間違った道を行っていることは重々承知で、読者はサリーを応援したくなってしまうのだ。

 また、サリーが軌道修正をするだけでは物語が完結しないように、外的要因も盛り込んでいる。彼女が秘密情報提供者(CI)にされたその頃、フィラデルフィアには密告者を次々に殺していく謎の影が現れていたのだ。サリーはもちろん、彼女をCIに仕立てたベンジャミンも与り知らないところで別の事件が起きていたのである。その事実は登場人物よりも先に読者に知らされる。危険に近づいていることも知らずに主人公が無茶な振る舞いをしているのを見守らなければならず、肝が冷えるのだ。叙述が多視点で進んでいくので、見えなくてもいいところまで見えてしまってはらはらすることにもなる。

 スウィアジンスキーの小説はこれまでに二作翻訳されている。2008年に邦訳が出た『メアリー‐ケイト』と、その翌年の『解雇手当』だ(いずれもハヤカワ・ミステリ文庫)。『メアリー‐ケイト』は、ジャック・アイズリーという男が空港のバーで隣り合わせた女性から「あなたのドリンクに毒を盛ったわ」と告げられる場面から始まる話で、展開が異常に早く、二の矢、三の矢どころか連弩の如く雨あられと嫌な攻撃が降ってくる。要約が困難なほどに内容の詰まったタイムリミット・スリラーだった。

『解雇手当』は少し毛色が違っていて、密室空間における生き残りが第一の主題になっている。マーフィー・ノックス・アンド・アソシエイツの全社員がある日会議室に集められ、社長から迷惑極まりない二者選択をつきつけられる。今すぐ毒を飲んで死ぬか、自分に射殺されるか、どちらかを選べというのだ。もちろん両方嫌だから各自なんとか生き延びようとするが、というお話。両作とも読み進めていくと意表をつく設定にぶつかる箇所があり、その飛び抜けた感じに当時は驚いたものである。

 スウィアジンスキーは編集者出身の作家で、ノンフィクションを数冊書いたのちに小説を発表し始めた。アンソニー賞やシェイマス賞などのペイパーバック部門を受賞した経験があり、本書も2016年のアメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀長篇賞の最終候補になっている(受賞はローリー・ロイ『地中の記憶』ハヤカワ・ミステリ)。ノンフィクションも実は一冊だけ翻訳がある。内藤誼人訳でソフトバンク・パブリッシングから刊行されている『ヌスムビジネス スパイの手口に学ぶ情報「奪守」術』がそれだ。H・キース・メルトン、クレッグ・ピリジャン、デュアン・スワジンスキの共著という形になっているが、最後の一人がスウィアジンスキーなのだ。

 また、スウィアジンスキーは小説家と並行してコミック原作の仕事もしており、マーベル社の〈デッドプール〉や2010年代からIDW社が刊行している〈ゴジラ〉シリーズなどの有名作品も手掛けている。コミックと大衆小説、二つの文化が交わるところに棲息している書き手であり、読者が喜ぶ勘所というものを知り尽くしているのである。未訳作品の中にはもっと日本読者向きのものが眠っているかも。あるいはコミカライズしてみてもいいんじゃないのかな。どこか出版社が手を挙げてみてはどうか。

(杉江松恋)

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