「インフラとしての近代はネットが可能にした」 大塚英志×宮台真司 対談全文(後)
「自分の言葉を持っていて、それを発信して、なおかつ議論ができるパブリックな場が保証されていること」。これは、評論家の大塚英志氏が挙げる「近代的個人の前提」だ。しかし、この前提は必ずしも自明なものではない。まして近代への努力を怠った日本にとっては――。
2012年1月30日のニコ生トークセッション「愚民社会」では、大塚氏と社会学者の宮台真司氏が対談。両者はともに、日本の近代の不十分さを指摘する。日本は、近代化の産みの苦しみの中で何かを得、何かを失った。一体それは何なのか。そして、インターネットの普及は、日本に近代をもたらしたのだろうか。それとも、ただ「愚民社会」を作り出す装置にすぎないのか。
以下、トークセッションを全文書き起こすかたちで紹介する。
・[ニコニコ生放送] 全文書き起こし部分から視聴から視聴 – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv78999016?po=news&ref=news#0:35:09
・「日本は民主主義社会ではない」 大塚英志×宮台真司 対談全文(前)
http://news.nicovideo.jp/watch/nw190914
■消えていく”何か”とは
宮台: まぁ、街とか「パトリ」を愛する気持ちみたいなことについては、僕も震災の後にいろいろなところでしゃべったり、書いたりする機会があったんだけれども。例えば、僕が関わった『サウダージ』とか『国道20号線』という映画を描いた富田克也監督は、地方がある種の入れ替え可能な場所になっていく中での古いものの残照を描く。あるいは、その中で新しく出てきたものを描くっていうことを、ずっとやっておられるわけだけれども。彼が描いたものは、実は多くの人が知っていることなんですね。
僕は80年代半ばから11年間ぐらいテレクラとか出会い系とか、売買春のフィールドワークをしていて日本全国を周っていたので、そのプロセスで「日本の地域社会はどう変わっていったのか」が手に取るように分かるんです。例えば、テレクラって最初の出会い系だけど、いわゆる厳密な意味での匿名メディアではなく、匿名性と非匿名性の間みたいなところがあったんです。だから、テレクラがあれだけ流行ったんです。
初期のテレクラっていうのは、地元の男たちの溜り場だったし、地元にはテレクラ同好会があったし、同好会で集まると「いやぁ、この間は角の豆腐屋の女将とヤっちゃてさぁ」みたいな話、皆が知っているローカルなネタで盛り上がるみたいなところがあったんで、テレクラが全国に広がっていったことを僕はよく分かっているんですけれども。そういうテレクラを支えていた非匿名性が逆に消えてしまったことが、最初の出会い系であるテレクラの魅力を奪っていったものだし、他の出会い系がテレクラとは違うモノになっていくことの一つの原因だったんだけれど。まぁ、今日は出会い系の話じゃないからね(笑)。
街の話ってことについて言うと、当時も取材を通じて行っていたんだけど、例えば老人会がなくなると、最後に70年代から80年代初めにかけて青年団がなくなるんです。取材した多くの若い20代、30代の奴が「青年団がなくなることがなければ、恐らくテレクラみたいなことは起こらない」と。その程度の空洞化やある種の匿名性の増大がなければ、テレクラは起こらないと。しかし、そういうふうに喋る年代は、まだ青年団とか老人会の記憶を持っているんですよ。こればっかりは非常に過渡的な現象だなって、当時も僕はものすごい強く意識していて。これはまさに戦間期がそうであったように、また大正ロマンや昭和モダンの時代がそうであったように、つまり(江戸川)乱歩がまさに描いたように、これはどんどん消えていく”何か”なんですよね。
そういう気持ちが当時はありましたけれども、とにかく今、街がどこが問題なのかと言うと、多くの人間たちがより豊かで、便利で、アメニティがある場所に暮らしたいと思ってるんですね。そのときに、より所得が高い、よりアメニティが高い場所であれば「引っ越しましょう」と多くの人間が考えるところに問題があるんですね。どういうことかと言うと、何で「自分たちを、あるいは自分たちの街をより便利で、アメニティのあふれる街にしよう」と思わないで移動しようと思うのかというところに、いろいろな日本の問題が隠されている。もちろん、パトリつまり、入れ替え不可能な情緒的な愛着を感じるような要素が存在しないという意味でもあるし。
あるいは人々がもともと地域で培う人間関係に相当するものが存在しないので、社会学ではよく「空間」と「場所」を分けますが、「空間」が「場所」になっておらず、どこも機能的な「空間」に過ぎないというふうな意識から抜け切れないということがあったりとか。そうしたことっていうのは、学問の世界ではずいぶん以前から議論されてきているんだけれども。残念ながら、そういういうことを知っている建築家の方々がほとんどいない。その建築家の方々と、社会学あるいは都市社会学の方々との交流もほとんど存在しない状況で、わけの分からないモニュメントや建物がどんどん建っていくと。
■”場所”が消えていく
大塚: まぁ、僕も神戸の大学にいるんだけど。学園都市にあってね。初めて自分が行く大学に降り立ったときに、すごい「既視感」とか「デジャブ」があったんですね。「絶対、ここの風景見たことある」と。校内には入ったら、絶対見たことがあるんですよね。初めて来たのに。当たり前なんですよね。ウチの大学の学生寮を作った建築家がここでも設計してて。「なんちゅう運命、因果だ」と思ったんだけれども。でも、そういうことですよね。結局、建物を作る連中っていうのは、まあ宮台さんが仰る場所性みたいなことなんて全然気にしないしね。でもオーダーする側も気にしないんですよね。
だから、田舎の大学にいると、田舎の商工会議所なんかと付き合って、なんだかんだ言って村興し・地域興しに付き合うわけですよ。そうすると、結局、彼らが言うのは「萌えキャラ作れ」と。今度は商店街の人に聞くと「吉祥寺みたいな街にしたい」とかね。もう結局はそのレベルなんですよ。また神戸市が悪口だけど、何やったかって言うとバーニーズ・ニューヨーク(米の百貨店)持ってきて、「これでまた客が来る」とかね。知らないでしょ、東京に住んでる人は。バーニーズ・ニューヨークが伊勢丹の裏側にちんまりとあって、誰も行かないなんて。でも、あれ連れてきたら旧居留地に人が集まるって思い込んでて、でかでかとニュースになるとかね。そういうふうに、「鉄人(28号)」持ってくるとかね。それこそ場所性という概念さえなくて、それで人呼ぼうとするとか
だから、本当に神戸の悪口ばっかりになっちゃうけど、同じようなことを東北が繰り返していくんだったらば、それは多分徹底的なんだろうなってね。一応あそこは、それこそ遠野があったとこだし、柳田國男の民俗学の、ある部分が始まったとこでもあるしね。でも、最後に残っていた日本の場所性みたいなものを象徴する場所が消えていくっていうのは。なかなか東北って、あの震災っていうのは僕にとっては感慨深いなって。
もう話はぐちゃぐちゃになるけど、何年か前に、椎葉村っていう九州の山奥の村が、台風か何かで壊滅したんですよ。これが、柳田國男が『後狩詞記』というのを書いたところで、そういった民俗学の故郷みたいなものが壊滅していくの見ながら、なんとなくさっきの場所性の問題じゃないけれども。まぁそんなふうに椎葉村がなくなったってこと自体も、多分そのことの意味ってなんとなく誰もね。あそこで日本の場所性みたいな概念を柳田國男は発見したわけですよ。だけど、それがなくなったことを誰も気にしていないんだろうと思うと、「何が故郷だ」と「何が愛郷心だ」とか「何が日本だ」とか思いますよね。
■「陶冶から淘汰のメカニズムへ」
宮台: 社会学では、時間的にかなり続く、変えにくい行為態度のことを「エートス」と呼ぶ。日本人のエートスというのは、中国人のエートスやアメリカ人のエートスが変わらないように、そう簡単には変わらないんです。なので、以前僕が大塚さんを批判するときに使っていたロジックですけど、エートスを変えようっていうのは非常に難しいので、やっても構わないけど、それは長期的に構えるべきで、短期的・中期的にはまた別の戦略が必要だなって思うんですね。
僕がそういうときに考えるのは、「べき論」を使って「陶冶(とうや)」するのではなくて、システムを使って「淘汰(とうた)」する、「陶冶よりも淘汰」ということをやはり考えるんですね。だから例えば、任せてブーたれるのをやめて引き受けて考えるべきだとか、あるいは合理性を尊重するべきであって空気に縛られるべきでないというような言い方は、一応しますけれども。それは言い方そのもので、ほとんど効力を考えていなくて、引き受けて考えない人たち、つまり、任せてブーたれるだけの人間たちや空気に縛られるだけの人間たちがいるような社会的なユニットが、どんどん淘汰されるような仕組みがあれば、簡単なことだと思うんですね。
世界的にも。つまり、もし僕が日本的なるものへの愛着を断ち切ったところで言えば、日本という社会的なユニットが全体として、今僕が申し上げたような意味で淘汰されていくのであれば、世界にとっては幸いなるかなというふうに言えるかもしれないというところがあるんですね。ただ僕は日本人だし、日本に対する愛着もあるので、日本の存続を行為・行動的な立場から言えば、むしろ今日本人全体をどうのこうのと考えるよりも、まずこの「陶冶よりも淘汰」のシステムを作りたいと思いますよね。
そのうちは政治家の淘汰であり、官僚の淘汰であるわけですけれども、やっぱりその淘汰のメカニズムを作らなきゃいけないんだけど。これは例えば、鍵のかかった箱の中の鍵問題でね。じゃあその仕組みを誰が作るのかが問題になるんだけど、これずっと日本で、陰に日なたに問題になり続けてきた密教的な問題というか、要は僕の言葉でいうネタがベタになりやすい問題ですよね。
例えば、なぜ国粋主義的なるものが明治20年代、とりわけ後半以降に高まったのかと言うと、これはむしろ近代的な人間たちが、天皇主義的なるものを近代化のための道具に使おうとしたからですよね。とりわけ山県有朋なんかは一番分かりやすい典型だけれども、西南戦争の教訓から、やはりカリスマは非常に重要で、単なる政党制の厳選であるだけではなくて、そのカリスマによって命がけで戦うような、つまり西郷軍のことですよね。その存在を作り出すためには、単なる親政政治的なるものに見えるだけじゃなくて、天皇にカリスマを与える必要があるというふうに考えたわけですよね。つまり天皇主義を設計した人間たちは、天皇主義者ではないわけだけれども、実際にその後国粋主義者がどんどん出てきて、いわば啓蒙派狩りとか近代派狩りを始める状況になる。こうした状況は、日本ではだいたい20年ごとに繰り返されてきていて、あえて統合主義的なシンボルを作り出した非統合主義者が、しかしその後作り出された者によって滅ぼされていくみたいなことが起こっているんですよね。
■日本に”近代的個人”は存在するか
大塚: 僕は宮台さんの言うエートスみたいなことって、逆にあんまり信じなくて。民俗学でエートスとかエタノスなんて言い出したのは、ナチスドイツ下のウィーンから戻ってきた岡正雄あたりが言い出して、それを戦後の民俗学者が使い出しただけで。もともとが近代以前の(日本の)社会は、小さな村社会とかせいぜい今で言ったら「お国自慢」の「国」というレベルですよね。
関西で言ったら、姫路と神戸と、それから大阪でも南の方と北の方と、地域ごとに関西弁が微妙に違うらしいんだけども。関東の人間には分からないけども、その微妙な言葉のニュアンスの違いぐらいが、国の概念ですよね。その中で、一つのフォークロアとか文化の体系みたいなものがあって、それは強引に何か日本の一つのエタノスみたいなものがあるんだって言い張っちゃったりが、多分、戦後のフォークロアの問題なんだけれども。
ただ問題なのは、そうやって前近代的な枠組みから近代にいくときの、移行期の多分細部設計とか移行のあたりのとこにきっといろんな問題点があったんだろうなって。そこの辺りのことは、もう世の中のことがどうでもいいと思ってるから、逆に「これから少し考えとこうかな、のんびりと」と思ってはいるんだけれども。だから例えば近代的個人が日本で未成立だったって(宮台さんは)言うわけですよね。言い出したのはパーシヴァル・ローウェルって人が「進化論的に日本人は劣っているから自我が未成熟だ」というふうに言った辺りに始まっちゃうんだけれども。
ただ、実際には日本のフォークロア的な民族的な習慣を見ていったらば、個人っていう概念がないわけではないし、共同体的なシステムや社会的なシステムみたいなものがないわけではないんだけれども、それがなぜ近代に移行し損ねたのかみたいな。そこの辺りの問題を一つ見直しておいたほうがいいのかなって気がするわけですよね。
■”わかっちゃいるけどやめられない”エリートたち
宮台: そのどこを見直すべきなのかというポイントについて、ちょっと喋りたいと思うんですけれども。その日本的エリートの戦後的な形態の、その特徴は「わかっちゃいるけどやめられない」ところにあると思うんです。で、それがまず一つは、僕のコミュニケーションの範囲で言うと、原子力村の中の人たちが「原子力に関して言いたい」という思いがそうですよね。それは、今やそれが非防備だということが分かったとしても、今さらやめられないということが、戦前とほとんど同じ、戦中と同じということですよね。
この間、『マル激トーク・オン・ディマンド』(ビデオニュース・ドットコム)という僕が関わっている番組で、高橋洋一(経済学者)さんを何度目かお呼びした。彼は「大蔵省、現在の財務省が財政再建路線をとっているという皆さんの想定が、実は盲点になっている」と。「財務省は、そうしたことを組織目標にしたことはまったくない」と。「財務省の組織目標はいつも増税である」と。正確に言うと、増税を通じた利権の拡大であるということなんですね。
増税を通じた利権の拡大をするためには、例えば、ヨーロッパのような年3、4%の成長率を確保することによる財政再建という、まったくオーソドックスなやり方で財政が再建されると、かえって不都合なんですね。ですから、むしろ日銀のような愚昧な政策をむしろ放置することに加担をし、増税をさせると。あるいは、これは「知っていることだ」って彼も言いますけども、財務省の役人は税と社会保障の一体改革って、これ大笑いで、社会保障費の危機・年金の危機があるならば、社会保障に関わる、例えば保険料とか年金料とかを対処すべきなのであって、もともと逆進性の疑いがあるような消費税を導入するのは間違いだってことは、これは国際常識であるはずで。
あるいは社会保障にはそもそも所得再配分という意味があるなら、所得税はもともと、あるいは給付付き累進性という制度も一部の先進国でありますけれども、所得税を使って社会保障費、要するに年金・積立金とかでやらないのであれば、所得税でやるのが普通だ。これはもちろん財務省は皆分かっている。けれども面白いですよ。「いや、わかっているけど、やめられないんだ」って言うんですね。
同じようなことは、孫崎亨(元外交官)さんがやっぱり仰っています。尖閣諸島の問題は、中国が言っているように、もともと日本にボールがあるということなんです。どういうことかと言うと、「田中・周恩来協定」と、その7、8年後に行われた「大平・鄧小平協定」、これは「鄧小平宣言」という形で表になっていますけれども、要は「主権棚上げ」と「日本の実効支配・施政権を認めること」と「共同開発という図式でやっていきましょう」ということなんです。それを前提にして、でき上がったのが「日中漁業協定」という枠組みで、この枠組みにしたがえば、まずその日本の実効支配する領域に中国の漁船が入った場合には、停船命令ではなくてまず退去命令を出すと。退去命令を出しても操業を続ける場合には、停船命令を出すと。しかしその場合に、逮捕・起訴の図式は作らずに、拿捕・強制送還の図式を使うことが、ずっと踏み行われてきたはずであると
ところが、「ビデオを見ても分かるように」と孫崎さんは仰るんだけれども、「まず停船命令を出してしまっている」と。強制退去命令に関するビデオは存在しないと。恐らく最初から停船命令を出したのだろう。そうするとこれは、日本の側から説明しなくてはいけないバイオレーション・違背ですよ。それだけじゃなくて、拿捕・強制送還図式ではなくて逮捕・起訴図式を使った。これも、従来と違うやり方を日本のほうからやっていて、日本のほうが実は説明するべき問題なんですね。
孫崎さんの分析によると、「恐らくこれは日本の当時の国交相の前原さんなどが、アメリカにおうかがいを立てて、アメリカにある戦略があって、中国と日本の間を引き離して、当時普天間問題等で日米関係がギクシャクしていたのを疑似的に修復するっていう観点があったのでしょうか」というふうに仰ってるけれども。要は、そのアメリカに言われる通り、日本がやってしまった結果、大笑いの時代になってしまった。これも、孫崎さんによると、「外務省の役人の多くは知っていることだ」と言うんですね。知っていることだ。
しかし、やめられないんですよ。これは、合理性が分からないとかっていうことではなくて、先程も申し上げたように、合理性や知識が、尊重されないんですよね。それは例えば御用学者って皆さんが仰るときに、最近の日本的専門家に対するイメージにも共通する”何か”なんですよね。その心理に無条件に帰依するのではなくて、条件付きでしか帰依しない。その条件は多くの場合、空気であったりとか自分の所属であったりとか、あるいは自分がやっているゲームのプラットフォームを温存することが可能な限りっていうことであったりとかっていう。どうもそういうことであるらしいのですね。これは、しかし僕に言わせると、あまりにも繰り返されるので、もしエートスとまで言わないまでも、これは明らかに何か行動習慣が欠けているというふうに言うほかない。あるいは、行動習慣を保つシステムが存在しないというふうに言うほかなくて。それを変えなくては、総理が変わろうが誰がすげ替ろうが、日本はやっぱりどうにもならないと思いますね。
■村的共同体でネットワークが完結した日本
大塚: だから例えば、その村的な地域的な共同体の中で、ネットワークが完結していて、これはあの『中国化する日本』を書いた與那覇潤氏の受け売りではあるんだけども、その支援的な社会を超えたような、ある共同的な枠組みみたいなものを、なんか社会の中に作りえなかったみたいな。だから、別に宣伝するわけじゃないけど、太田出版の雑誌で與那覇氏と喋ったときに、アメリカの秘密結社の話をしたんですね。
秘密結社って言うとオカルトになっちゃうけどそうじゃなくて、要するにフリーメイソンにしても何にしても、アメリカでは近代的な市民社会ができあがる前段というか過渡期のときに、要するに結社がたくさんできますよね。結社は、保険組合のいわば前身だっていったり、ライオンズクラブの前身だったり、アメリカのクラブハウスみたいな利権主義の前身だったりするわけだけども。やっぱり近代からこっち側しかなくて、人工的に地域社会を作ってくアメリカにおいては、そういった結社みたいなものを通じた職能集団とか、あるいは利益集団みたいなものを通じて個人が繋がり合っていくみたいな。例えばそういうふうな枠組みみたいなものを作ったわけですよね。
柳田國男の「産業組合論」などを読んでいくと、多分そんな感じがするんですよね。それから、彼が考えていた、民俗学者たちのネットワークそのものが、学問的な組織だって思うから、柳田國男が城を奪ったとなるけど。多分、彼もそういった村的な共同体を超えたようなネットワークみたいなものを、民俗学の組織みたいなもので、実験的に作ろうとしていた気がするんですよね。
そういう地縁的な共同体を超えたような、ある職業とか、そういったもので結びついたような、別のネットワークみたいなものが存在しない環境の中で、例えばいきなり労働組合ができちゃうでしょう。アメリカの場合は、結社みたいなものがあって、結社が労働組合に移行していったりするわけじゃないですか。そういった、結社的な基盤がないのが日本社会の一つの問題点だったのかなと。
宮台: それはまったく仰る通りだと思いました。
■巨大なものへの依存
大塚: 中国だって、太平天国の乱にしたって何にしたって、だいたい革命もどきのコストって結社の人たちですよね。結社があるから共産党もああいうふうにうまくいったんだろうなとか思っちゃう。
宮台: そうなんですよね。太平天国もそうだけど、ある種疑似的なキリスト教運動だけれども、それで国を作ってしまおうとするんですよね。国ができるわけですよね。それが典型的だけれども、例えば江戸時代、(日本には)170いくつの藩があって、それなりの地域の自治があったってトンチンカンなことをいう歴史学者がいるんだけども。そうではなくて、これがたしかに、さまざまな共同作業に対する自治はあったけれども、この自治は武士によるガバナンス・統治に依存しているんですよね。その武士の統治は、特に徳川の3代を通じて、周到に作り上げたある種のガバナンスのストラテジーに基づく各藩の統治があって、それに依存して農村がある。
同じで、日本の労働組合も、経済界、そのほか巨大なものへの依存があって初めて存在する何かなんですよ。それが日本の企業別労働組合っていうもののまず特徴なんですね。なので、アソシエーショニズム、アソシエーションを作って自分たちの一つの社会にしようというような発想っていうのは、日本にもともとない。
アメリカの場合には、ご存じのように、アングリカン・チャーチから迫害を逃れたピルグリム・ファーザーズたちが宗教的新天地を作るっていう意味で、宗教的な自治をしようとしてウィリアム・ペンのペンシルバニアであるとか、あるいはユタ州のモルモン教とか、そういう宗教的な自治地区っていうのができていくわけですよね。
日本にそうした運動ってまったくなかったわけじゃないけれども、非常に薄くて。まぁ、あとで少し時間があれば詳しく言ってもいいけど、至るところに自治に見えるものがあっても、すべて依存なんですね。大学の自治会みたいなものと同じものを自治と呼んできた愚昧さがあるんです。
さて、我々が愚昧だとして、我々が。2番目の質問をさせていただきます。わたしが質問していいですか?皆さんに。「日本人は愚民だと思われますか?日本人は愚民でしょうか?」。(コメントを見ながら)おお、半数が日本は愚民だと思う。じゃあ、次のご質問をよろしいでしょうか。「あなたご自身は愚民の一人だと思いますか?」
■日本人は愚民か
大塚: 意地の悪い質問を(笑)。
宮台: (愚民だとする回答が多くて)これは、わたしの社会調査の経験から言うと稀有なことです。
大塚: そうなんだ。
: そうなんです。
大塚: 社会学者的に誘導してこうなったんじゃないんだ?
宮台: 2000年の、NHKの放送研究所で日本人の性行動と性意識という調査の設計を僕したんですけど、そのときに「売買春の良し悪し」について尋ねるんです。「売買春はいいと思いますか?」という質問と「あなた自身はどう思いますか?」という質問を聞くと必ず分かれるんですよ。「売買春はいいと思いますか?」という質問をすると、これはよく知られてるんだけど、日本人の多くは自分としての自分じゃなくて、なんとなく社会はこう思ってるんじゃないの、みたいなことを答えてしまいがちで。
「あなたご自身は?」って聞くと、それとは違う答えをしてしまうということがよくあるんだけど、今の場合はまったく同じでしたよね。「日本人は愚民か?」と「あなた自身は愚民か?」って話をすると、質問に対して同じ答えを、同じ比率を答えてらっしゃいましたよね。これは非常に重要なことで、「周りの日本人は愚民だ」という空気になるから「愚民だ」と言っているわけではなくて、私たちの今の話に説得されたのかどうかは分かりませんけれども、たしかに私たちを含めて「愚民だなぁ」と思っている。
つまり「自分たちはある種の行動習慣がないなぁ」というふうに思っているということで、世間的に思われているものを自動的に答えているということではないということですよね。その分ほら、皆さん愚民ではありませんね。
大塚: 自分で「土人」とか言っといて、なんだって話なんだけどね。『愚民社会』って書名聞いたときに、ほら一時期新書で「バカ」って付けると売れたじゃないですか。だいたいそういう読者って「自分はバカじゃない」という前提で「バカ」ってついた本を読むじゃないですか。だから、自分で「土人」とか言っといて人の話だけど。さっきの編集に聞いたら、「宮台とか大塚に上から目線で”愚民”と言われたくない」って苦情を持って来ているらしいんですけど。
宮台: (笑)
大塚: でもね、「そういうリアクションなのかな」っていうふうに思っていたら、なんかこんなふうに、まともに答えられてしまうと、なんかどうしようっていうかね(笑)。少し希望を持てと言うのかとかいう気がしてきちゃうんだけども。でも、もしかしたら、さっきの成り行きで話した神戸の子たちが、すごく良い意味で内省的になってるってこととも関わってくるのかも知れないのかなって気もちょっとします。だから、どうなんだろ。
僕はもうすっかり投げやりになってるけども、逆に僕って世の中の空気に乗れない人間なんで、僕がこんだけ投げやりになっているってことは、もしかしたら少し良い方向に揺り戻しが来ているのかなっていう、なんか身も蓋も無い言い方ですけども、そんな気がしなくもないなって。
宮台さんはすごく内省的で、まともになってて、僕はこの間の対談でも宮台さん、相当に皮肉を言ったじゃないですか。だけども、これお世辞でも何でもなくって、宮台真司のまともさ・ナイーブさってものを、僕はずっと信用してきたわけであって。それを宮台さんは人前で見せることは無かったくせに、ああいうふうに、ある種堂々とした宮台真司を見た時に、多分混ぜっ返したくなって、愚民と言ってどういう反応をするのかみたいな、そういう意地悪をしたいというのもあったんだけども。そんでもまあ、割とブレないで、あれ以降ずっとまとも。そういうのを見ていると、少し違う方向に行く可能性もあるのかなと思いながら、「さて、でもやっぱりなぁ」とかね。そこの辺りが僕の中では・・・。
■「大衆に訴えるスタンスがリアルでなくなる」
宮台: そこは、「やっぱりなぁ」っていうふうに諦める気持ちと。例えば、大塚さん今、実践をやってらっしゃるじゃないですか。国民全体を巻き込むっていうことではなくて、その創作実践を通じて、プロ集団を創ったり、送り出そうとしておられますよね。僕はこの2000年紀に入ってから、特に9.11以降ですけども、カルチャーセンターで聞く方々の雰囲気が随分変わった。
僕のゼミは7、8割外部者ですけど、そうしたゼミに来る人たちの雰囲気も非常に変わって、まず大塚さんの仰る通り、非常に内省的になっていて、「最先端の思考を教えてください」っていう人はほとんど居らず、古典について理解したいという人が大半なんですね。今のカルチャーセンターって、古典に関する講座だらけになっているんです。それが一つあり、なおかつ僕だけじゃなくて、僕も10年前くらいから私塾を始めましたけども、私塾を作っていらっしゃる方が非常に多いんですね。これはいわゆるインターネット化を前提にして、もうマスメディアには無理だから、本屋が無理だから。あ、出版社がいらっしゃるところでアレですけど(笑)。
要するに、自分でメルマガ出そうとかいう前から生じてる動きで。要は、いわゆる大衆、あるいはマスに対して訴えるスタンスが、2000年紀に入って非常にリアルではなくなってきていて、もう日本とか東京って感覚が分からないが、自分が手の届く範囲については、日本がどうなろうが、東京がどうなろうが、一定のホメオスタシスを実現し続けていこうっていう意思がやはり出てきているように僕は思うんですね。
僕自身にも、そういうメンタリティって非常にあり、表面的な政治的な発言は別にして、日本全体をどうのこうの「べき論」によって動かそうとかっていう構想には、まったく現実性を感じないし。今のところ、「陶冶から淘汰へ」っていうやり方にしても、そういう言い方だけで反発されるっていうことが大半であるので、まあこれも今すぐ現実化できるってことがありえないとすれば、やはり自分の手が届く範囲、自分の私塾、あるいは最大限で言うと、僕も今関わっている世田谷区の行政(など)ですよね。そうしたもの以上のものについては、とりあえず関心を持たないっていうふうな態度を・・・。いやもちろん、知識としては参照しようとはしてますが、関心がないんですね。ですから日本の将来についても今のところは関心がない。それは関心を持っても仕方がないのでということで、そこは大塚さんと同じように僕も諦めているということですけども。全部諦めたわけではなくて、さっき言った「アソシエーショニズム」の基本は、全体に依存しないということなんですよ。
日本の労働組合をはじめとするアソシエーション的なものとの違いは、全体に依存しているんです。その想像化された全体、日本であったりとか、日本人的なるものであったりとか。それに依存をしているんですね。これが違うということが大事で、そういう意味で言えば、全体についての諦めと、自分たちの手が届く範囲における結束と、ホメオスタシスってことについて、関心を持つことで言えば、これはアソシエーショニズムに少し近づいたとも言えるんですよね。
■「現場の中にあった教育は間違ってなかった」
大塚: 『愚民社会』の中でも最後の方に言っているけど、「諦めた」ってうそぶいている割には、一方で諦めが悪くて。結局、論壇が嫌になって文壇屋になって、ふらっと神戸の先生になった時に、ずっとそこで拘ったのはカリキュラムを作るってことです。つまり、目の前に出来の悪い学生たちがいて、意味分かんないこと言っていて。その子たちと関わっていく中で、何か僕は高邁な思想を教えられるわけではないけども、ただモノの教え方みたいな、その枠組みみたいなものを、彼らと関わっていくと作っていけるなと。
カリキュラムって一定の汎用性があるわけですよね。柳田國男の民俗学っていうのも、コミュニケーションとか言葉の作り方とか、社会の認識の仕方に関するカリキュラムを作っていくというのが彼の仕事だったわけですよね。でもその時に、具体的に向かい合っていくのは、目の前の一人ひとりの個別の小さな社会の人間達であるみたいな。そこ辺りの、思想ではなくてカリキュラム自体を作っていく実践は、多分あっちこっちに実際にあれば、少し物事は変わっていくだろうし。
戦後の教育はすごい評判悪いけども、僕はそんなに戦後の教育が悪いと思っていない年代に育った人間なんですよね。つまり、ある時期の教師たちは、多分カリキュラム作りに熱心だった時代があるんですよ。日教組大会なんか行くと、左翼の話ばっかしているんじゃなくて、昔はちゃんと”私の教育実践”みたいな感じで、「こういうカリキュラム作りました」みたいな発表の試合みたいなことをやっていくのが、かつての一時期の日教組大会の姿であって。それが結局は、いわば既得権を守る労働者集団になっちゃって、誰ももう教育実践についてなんか喋んなくなっちゃったみたいな。
そこがおかしな話であって、例えば、橋下・大阪市長が大阪でどういう教育改革をするか分からないけども、問題なのは、そうやってカリキュラムを作っていき、そのカリキュラムみたいなのを共有し合っていくような教育のあり方みたいなものが、もう一回作り上げられていけば、多分一番下の世代からまだ作り直していける余裕があるんじゃないかなって気がするんですよね。僕が橋下にイラッと来るのは、教育の問題を、君が代や日の丸に対して起立させれば、それで教育改革が終わったというふうに、大半の有権者が思ってしまって。そうではなくて、具体的な一つ一つの授業のやり方や教え方を、教育の現場で作っていかなければいけない。そこが問題なんですよね。
また、こんなこと言うと誤解されるかもしれないけど、例えば、僕の高校の時の倫理社会の先生って、1年間かけて『共産党宣言』を読むわけですよ。すごいんですよね。だけども、別に共産主義や社会主義について教えるわけではなくて、そこで彼が教えるのは社会学的な書物の読み方なんですよね。そうすると、そこで初めて社会学的な本って「ああ、こうやって読むんだ」ってことが分かれば、あとは勝手に倫社の教科書に載っている人たちの思想の本は、それぞれの関心で読んでいけるわけじゃないですか。だからそれも一つのカリキュラムだったわけですよね。
あと1年間を通して、生物の先生は食虫植物について話し続けていて。多分それは、エコロジーについて彼は話していたんですよ、今思うと。ただ、それで多分、一つの認識の仕方を教わって、最後の1週間で「受験に生物の細胞分裂が出るから、それだけやるね」って教科書を取り出すんだけども。なんかそうやって、物事の根本の思考を教えるみたいな教育を普通の都立高で行っていたんですよね。都教祖とか日教組とか強い時代ですから、高校に入ってからすぐ1週間ストとか。そういう時代ですよ、バチバチの。
でも現場の中にあった教育って、そんなに間違ってなかったなって気がするし。高校の先生と付き合っていると、面白い教育っていうか、面白いカリキュラム作りをしている先生が沢山いるんです。でもそういう人たちは組合にも入っていないし、割とマイペースで一人でやっていっているみたいな。そこがすごくもったいないなぁと思うんだけれども。
そういう意味で教育みたいなものに対して、僕は全然、実は絶望していないし。だから、橋下にしても石原慎太郎にしても、教育問題やろうとするけどもね、その教育問題ってのが何か議論がすり替わっていて。一つのものに対して頭を下げさせて、それが公共性だっていう教育じゃなくて、いわば一つの実践みたいなものが普遍的に共有されていくようなカリキュラムを作っていけるような教師を作れるような教育改革だったならば、やれるもんなら橋下でも石原でもやってみりゃいいじゃんって思うんだけれども。果たしてどうなんだろうっていうところなんですよね。
■形式主義が蔓延る教育現場
宮台: 僕は、6歳から12歳まで関西で育ったんですよ。京都なんですけどね。当時は共産市政・共産府政だったので、僕自身も大塚さんと同じような反戦教育を徹底して組合教員から受けてきたって経験がありますが。ニつのことを言いたいんですよ。一つは橋下さんに直接絡む問題なんだけど、関西って今でも公共機関を利用したり、図書館に行ったりすると、公務員の態度がずいぶん横柄なんですよ、東京に比べると。
大塚: それはそうですね。大学の職員だって横柄だもん。
宮台: そう。一つ申し上げたいのは、東京って僕らが大学生だった頃、大学の職員も当時の国鉄の職員も図書館の職員もすごい横柄だったんですよ。東京は今それでは通用しないっていうことになって、そういう雰囲気のところは随分なくなりましたけども。関西はまだそれが残っているんですよね。これは非常に重要なことで、「組合利権・何とか利権が、説明責任を果たさないで残っている」っていうふうに多くの人が思っていて。しかも組合の中の同調圧力が非常に強くて、目安箱を設置すると、いろんなホイッスル・ウィスパーというか内部告発がありまくるっていう状態。
教育について言うと、以前は右肩上がりであるがゆえに、いろいろな活動の自由がそれなりに存在した組合や団体の縛りが非常に強くなっていて。それは特に大阪が非常に顕著なので、例えば世田谷区で僕が主張しているような参加と自治が、何とか利権っていうのを一個一個ぶっ壊していかないと、どうにもならないぐらい強い所だって意識は、僕にもあるので。
例えば世田谷区の保坂展人区長と同じようなことを、大阪の各地域で実現できるとは僕はまったく思わない。そういう面で橋下さんは仕方ないのかなと思うのが一つある。あと、僕らについて言うと、今の組合の話と似ていて、やっぱり右肩下がりですよね。生き残りを賭けなければいけないって話になっていて、東大の最近の9月入学問題もそうだけれども。要は「アメリカ化しよう」「シラバスをちゃんと作って、15回分の講義について計画をちゃんとやりなさい」とか「自己評価レポートを毎回出しなさい」とか。
何だか知らないけど、クソみたいな、教育の実質に関係ないような決まりごとがいっぱい続いて、事務仕事が何倍にも増えて、その中で形さえ踏まえてれば、それでOKなのかみたいなね。本当にくだらない、内実を問わない形式主義みたいなのが蔓延っていると思うんですよ。僕ら窮屈になっちゃっていて。昔だったら、僕らにとっての良い先生は、自然休講30分の後にノソノソ出てくる先生は普通だったし、二日酔いでアルコールの臭いがするのも普通でしたけど。小室直樹先生とかですけども。私としては全然問題なかったですよ、実りがあったので。しかし、今では絶対そんなの許されない。今から10年前ぐらいから、どこでも起こった現象。僕が授業に10分遅れて行くと「授業料返してください」とか言うアホな学生が居るんですよ。
大塚: (笑)
宮台: あるいは「君は、レジュメの作り方が全然なってないじゃないか。出直してこい」って言うと、事務から電話があって「宮台先生、人格を攻撃されたってクレームが来てます」とかね。クソみたいな感じになっているんですよ。「これじゃあ、僕は大学では教育ができない」って思っている人が実は多いので、大学の教員が次々と私塾を作っていく現象があるっていうふうに思います。僕自身は明らかにそうで、大学の現在の制度のシステムの中で、大学の正規の学生だけをメンバーとして、かつてのゼミや講義の水準を維持するのは、非常に難しい・・・不可能です。
いろんな仕掛けを、工夫してやらなければならず。僕の今いる大学は、そういう工夫を許してくれるから、何とかそこに僕はいますけども。それを許さない大学も多いですからね。それを許されない大学にいらっしゃる先生方が私塾をやるのは当たり前。あるいは大学を辞めるのも、それを合理的だと思わざるを得ないくらいなんです。
ユーザー質問をとれって話が着ているので、とっていいよろしいですか。
大塚: どうぞどうぞ(笑)。
■「どこの社会にも”愚民”はいるが・・・」
宮台: じゃあ、ユーザー質問のお時間だそうです。
司会者: お話ありがとうございます。たくさんユーザー質問が着ているのでご紹介させて下さい。まず一つ目は、東京都・30代の男性からです。「二人は日本が終わったという話をされていますが、世界のどこかに近代的、あるいは、愚民ではない社会はありますか?」
宮台: アメリカを見てくださいよ。インターネット化の広がりが元で、アメリカのいわゆる中西部・南部の、昔、中西部の労働組合なんかが共和党の支持母体だったんだけど、南部の高卒の白人が支持母体としてインターネットでせせり出してきた途端に、ポピュリズムが駆動して、ブッシュ政権が誕生したってことからも分かるように、愚民がたくさんいるんです、どこの社会でもね。
ただ問題は、そのことを前提として社会が進路を誤らないような仕組みをうまく作っているかどうかが大事で、そういう意味で言えば、例えばリクルーティングのシステム、あるいは人材の抜擢のシステム、「地方から中央へ」というシステムを、日本以外の先進国どこでも持っているけど、日本だけが持っていませんよね。持っていないことへの理由をちゃんと説明できるならば良いけども、日本は説明できていませんよね。
同じで、中国だって、例えば私の先生だった小室直樹先生は90年代半ばまで「中国は近代化できない」っていうふうに言っていた。でも、中国は程なくアメリカのGDPを確実に抜くことが分かっていますよね。その後は、「インドに抜かれるのか」「その時期はいつなのか」てことが専門家の間で話題になっているわけですけども。この中国の明らかな近代化の成功があるんですね。もちろん、格差の拡大とか少子化に対する懸念とかってあるんだけれども、95年段階から言えば、15年後の現在、当時想像もしなかったような近代化、あるいは市場主義化の成功を収めているわけですね。その背後に中国人のエートスが変化することがあったのかっていうと、僕はそういうことはなかったと思います。中国人のエートスはそのままにしながら、中国を近代化する工夫がなされた。
私の12年先輩の橋爪大三郎さんと昨日話したんだけど。橋爪さんは3つファクターを挙げられておりました。たまたま中国は、香港・台湾という、そもそも西洋的なコミュニケーションの中で生き延びてきたエリアを持っているので、それをインターフェイスとして西洋社会と付き合うやり方を編み出した。あともう一つ、大量の留学生を送り出して、その3分の1ないしは4分の1が中国に帰ってくる。そのほかは頭脳流出もかなりあるんですけど。しかし、そうした留学組の人間たちを、組織の重要な場所に据えることによって、やはり彼らをインターフェイスまたはメディエーターとして、媒介者として使うということをやる。
あともう一つ、日本の長期政権である自民党を研究することによって、中国共産党を日本における自民党と同じような機能的なポジションに整理していこうという動きもあり、簡単に言えば、インターフェイスとして機能するということですよね。僕がずっと柳田國男なんかを参照しながらずっと申し上げてきたことは、やはり日本人全体を近代化するとか、エートスを変えるということではなくて、彼らは彼らのままでよくて、しかし彼らの中から出てきたエリートが彼らを引き受け、彼らにリターンを返すために命を懸けるというシステムを作れるかどうかで。そういうシステムを今、アメリカと中国の話をしましたけど、それなりに成功してきたということが言えます。
もちろん、それだけで危機を乗り越えられるというわけではありませんけども、日本的な危機はありません。つまりどこに大ボスいるかも分からない。大ボスだと思って捕まえてみれば、「私には権限がなかった」「今さらやめられないと思った」「空気に抗えなかった」というクソみたいなことを言う奴しかない。今も変わらない日本の状況ですよね。
あるいは企業の幹部というと、トップはだいたい無能な奴ですね。大体2番目、3番目4、番目、5番目辺りが合議でものを決めていて。責任追求されると、合議体に空気がどうもあったらしく、「私にはいかんともしがたいと思った」とか言うわけですよ。オリンパスとかと同じですけどね。こういうクソみたいな状態。こういうクソみたいな状態ゆえに、もたらされる危機。これをを普通に招来し続ける社会。日本以外の先進国にはまずない。今の中国にもまずない。
■日本は始まってない!?
大塚: 今、「日本が終わってる」っていうふうに言われましたけど、もしかして終わっているとして、始まり損ねているところの方がずっと問題であって。つまり、こんだけ近代をやり損ねて、ずっとずるずる来ちゃって、未だに始める気がないみたいな。でもじゃあ、だったら北朝鮮みたいに独裁国家でも作ればいいし、あるいは宮台さんの仰ったように中国共産党がやっていったような、また別の近代化もあったんでしょう。
だけれども始めることができないし、「一体自分たちがどこに向かっているか」っていうビジョンを作れないわけですよね。だから昔、柄谷行人さんと話した時に「いわば近代ってのはいわば努力目標なんだ」って言い方をしたんですけれども、努力目標としての近代すら掲げることができないまま来てしまって、「どこに向かっていくのか分からない、そこが問題なのだ」ってですね。だから、始まってないわけですよね。
宮台さんが仰るように、アメリカの民主主義システムだって、むちゃくちゃ問題あるわけですよ。だけれども、例えば大統領選挙の時にニュースを見ていれば分かるわけですよね。美容院か何かで座ったら、前に私はヒラリーとか私は何とかって言うふうに、支持する候補のサインが掲げてあって、そんでもって髪の毛を切りながら美容師さんとお客が議論をするわけじゃないですか。ということの積み重ねで、選挙システムが動いていくんだよっていう部分だけは、何となくあっちの国にはあるんだと思う。
日本の場合ではもうそこで空気の読み合いや、「今年は何とかさんだから」と何も言わないで決まっていくみたいな。そこの一点をとっても、まだあっちの国の方が相当問題あるし、だいたいアメリカなんて大嫌いだけど、でも民主主義システムに関しては一つそれが「努力目標なんだ」っていう自覚はかなり末端まであるわけですよね。
民主主義が嫌いだったら嫌いで、「どういうふうな自分の頭で思考する目標を作っていけるのか」。そこのビジョンみたいなものがないままにきたんだから、始まってないんですよ。終わったんじゃなくて。そこが一番問題だと思います。
宮台: まったく仰るとおりで、日本的なエリートが育たない一つの理由は、責任概念が存在しないからで、責任をとらせないからですよね。ちらっと(コメントを)見たら、頭の悪い人は「アメリカでも粉飾決算があるじゃないか」と書いていたけれども、アメリカの場合はものすごい厳格な刑事罰が経営陣に処せられるんですね。かつてのS&L(貯蓄貸付組合)危機もそうです。この間のウォール街の危機の時には、それを政府が救済したときに、刑事罰の適用が十分でなかったっていうことも大きくあり、運動の大きな理由になっているんですけど。
オリンパスの粉飾決算の問題で、日本人は憤って、オキュパイやってますか?誰か刑事罰で厳しく処せられていますか?だから、こういうことが問題なんですよ。つまり責任を取らせるシステムがなければ、エリートは責任を取ろうとしない。責任を取ろうとしないことは、つまりサンクション(制裁)がないので真剣に物事を考えないわけですよ。
つまり分かりやすく言えば、火中の栗を拾った時の果実も大きくなければ、今度は失敗をしたヘマをした時の処罰もサンクションも大きくないので、かなり適当にやっていいればいいんですよ。こういうインセンティブ、モチベーションのシステムのある中、分かりやすく言えば真剣に物事を考えて、自分の頭を使って命懸けで行動するような人間なんて生まれてくるはずがないのね。そういう人間がでてくるのは、せいぜい中間管理職で終わるわけです。彼らはそうしないと上に上がれないからですよ。上に上がる、セルフプロモーションっていうことが一つの動機になって頑張りが出ますけど。上の方にいけばいくほど、「俺はもうその辺でいいかになる」と。あとはただ保身。この保身は責任概念の関係がないので、この連中は責任を取らずに、保身に走るようになれば・・・。
だいたい日本のトップは、政治でもどこでもそうなってますけど、事実上合理的な組織的決定ができないってふうになっちゃっているわけです。この問題・システムが変わらないと、多分日本はどうにもならないわけですね。
■インターネットは「愚民化」に影響するか
司会者: 次の質問を紹介致します。福岡県20代の女性からです。「ネットは、呪いの言葉で溢れているという評論もあったように、2ちゃんねるやmixiを始め、ネットが愚民化を助長しているように思います。その一方で、民意を組み上げる『一般意志2.0』だという評価もあったようですが、インターネットは反愚民化に役立つと思いますか?お二人のネットの可能性についての意見が知りたいです」
大塚: 近代的な個人の前提は、自分の言葉を持っていて、それを発信して、なおかつ議論ができるパブリックな場が保証されているってことだったわけですね。だけれども実際にはメディアにモノを書ける人間はついこの間まで限定されていたわけです、だから、そういう意味で近代的な個人を作る前提みたいな事は理念としてはあったんだけど、ツールとしてのインフラは整ってこなかったわけです。でも今は本当に何かを言おうと思えば、各自が自分で言葉を発信できるし、それこそニコニコチャンネルで勝手に何かを言うことも可能だし・・・。というふうに言葉を発信するツールも、議論をしていくツールも出来上がって、いわば”インフラとしての近代”はネットが可能にしたんだと思います。
ただ、もう一つそこで重要になってくるのは、それが柳田國男の問題なんだけど、「言葉をどういうふうに作っていくのか」。その言葉は観察し記録する言葉であって、それから議論しコミュニケーションし、最終的にそこにある合意という公共性を作っていく言葉。そういったものを作っていくための、いわば言葉の技術や言語的なスキルの問題。そちらの方がインターネットはまだ提供できてないんだろうなという気がして。ネットに出来上がっている世論みたいなことを、いわば一つの空気として、それが「民意なんだ」と。それは多分違う形の何かなんでしょうね。民主主義ではなくてね。それを新しい民主主義と呼んで、その空気にしたがって生きていくだったならば、魚の群れとしてこの国が生きていくっていう選択で、それはまたやっていったら、中国とは違う何かなるのかもしれないけど。僕はそういうのは嫌だなと思いますけどね。
宮台: 僕は、インターネットについては、一律に可能性があるともないとも言えない立場ですね。まあ原発の事故以降のコミュニケーションをつぶさに観察するに、マスメディアがあまりにも出鱈目であったために、あるいは政府や東電があまりにも出鱈目であったために、多くの人はインターネットを通じて適切な情報を得ようとしたんですね。その時に、いろんな情報を自分で模索して、自分で信頼できる奴にコネクトしながら「実際の所はどうなんだろう」と一生懸命に、あれかこれかではない本当の所を模索しようとする人間が一方にいたかと思えば、いわゆる脱原発カルトになっていく人たちもいたり。あるいは脱原発カルト批判カルトになっていく人もいたりするわけですよね。
こうなると、もうそれは見るからに北田暁大(社会学者)さんの言う「繋がりの社会性」と言うか。簡単に言えば、議論の中身ではなくて陣営帰属がまず決まって、そのあとの誹謗中傷合戦という田舎の田吾作の作法にインしてしまっているので、話にならないということですよね。脱原発問題についてもそういうふうな、ある種の振幅・レンジの幅が見られるわけですよね。似たようなことは、いろんなところにあるわけですけど。
例えば以前、文京区・音羽の幼児殺害事件が起こった時に、僕はそのあとインターネットに多くの人たちは匿名の危険・匿名性の危険を見出すけれども、そうではなく、実は「疑心暗鬼の危険の方が大きいんだ」とずっと申し上げてきたんですね。つまりオフラインと言うか、面と向かってのコミュニケーションとは別に「裏で悪口流しているじゃないか」とか「裏であるいは自分だけ連絡を回さないでハブにしようとしているのでは」という疑心暗鬼が、まず子供たちに広がった。あっという間に親に広がった。今から10年ぐらい、あるいはそれ以上前の段階なんですね。
そういう意味で言えば、例えば僕に言わせると、オフラインにおける信頼醸成のノウハウが分からない人間たちが、インターネットにハマってしまうがために、疑心暗鬼になってしまうんですね。
その意味で言えば、インターネットがどうのこうのよりも、我々のコミュニケーションの作法の稚拙化が背景にあって、インターネットによる疑心暗鬼化で、ますますインターネットを頼るみたいなことになっていくっていうね。本当に愚昧な悪循環が起きているような気がしますよね。そういう意味では、インターネットのアーキテクチャや機能に問題を帰属させるような態度そのものが、頭の悪さ、あるいは日本的な頭の悪さの現れだというふうに思いますよね。
■「世代論に還元してもしょうがない」
司会: それでは次の質問です。千葉県20代の女性からです。「お二人人は教育に関わっていますが、世代間で違いを感じますか?若者のほうが魚の群れが多いと感じますか?」
宮台: どうですか?
大塚: こういうことを言うと、すごく傲慢だと思われるかもしれないけど。先生になってみて、わりと教育の教育可能性みたいな。つまり18歳で大学に入ってきますよね。でも宮台さんのいる大学と違って、うちなんて田舎の4流の美大ですから、本当に高校の延長みたいな感じなんですよね。もう大学教授なんて、ただの担任の先生ですよね。
でも、その分だけ4年間見ていると、「あ、ちゃんと変えられるんだな」というふうに思うときもある。同時にちょっと目を離したり、ろくでもない教員なんかに担当されると、あっという間にだめになるみたいなこともリアルに起きます。
宮台: (笑)
大塚: だから、世代の問題ではない気がします。むしろ教える側の問題で、こんなふうに劇的に変わるし、こんなふうに劇的にだめになるんだみたいな。その繰り返しみたいな感じですよね。だから世代によって変わっていくみたいな。例えば100年のスパンでは、もしかしたら少し何か変わるのかもしれないけど。それこそ柳田が「魚の群れだ」とキレたのは昭和の初頭の話ですからね。ずっと魚の群れなわけですから。今の子たちが急に魚の群れなったわけではないよね。
だから、そういうふうに今の子たちがどう変わっていくっていうのはないですね。さっき言ったように、(東日本大)震災のせいかどうか知らないけど、震災を経たある瞬間に、17歳の子たちの内面がある方向で綺麗に変わったみたいな。そのふうに変わっていくんですよ、多分。人の心は良くも悪くも簡単に。だから、そういう意味で、世代論みたいなものに還元してもしょうがないんじゃないのかなと気が、当たり前だけどしますよね。
■日本の教育の問題点
宮台: 今の大塚さんの意見に全面的に賛成なので、少し補足をさせていただく形にしますね。
僕自身の経験から言っても、今の若い学生さんたちは、上世代が言う意味では経験値が低いところがあるので、実は経験をいくらでも書き込めるっていう面があります。なので、経験ベースでの様々な仕掛けを作っていくと、特にコミュニケーションの下手だって自覚しているような男の子達も、だいたい1年ぐらいあれば見違えるようになります。この場合には、週1回のゼミと年3回のゼミ合宿があるっていうふうなシステムなんですけれどもね。例えば、「自分は何となく無理です」と言ってる男の子も、1年あれば、まったく違った自意識の状態に持っていくことは本当に簡単なことです。
ですから、そういう意味で言えば、僕らも昔そうだったように、やはり人から教わる。人は親だったり、兄弟だったり、先輩・同僚・後輩。そういうホモソーシャリティだったりいろいろあるんでしょうけど、やはり教わり、あるいは彼らに後ろ盾になってもらいながら、実践をすることを通じて変わるわけですからね。同じ事をやれば、本当に簡単に見かけも行為態度も一変するぐらいのことはあると思います。
簡単にいえば、大塚さんや僕が、自分たちのローカルな範囲で、そうした実践によって行為態度を変えることはいくらでもできるだろうなと思いますね。しかし、それとは別に僕らの若いころとの違いは、あるいは日本以外の先進国との違いはと言ってもいいんですけど、日本ほど全体が見渡しにくいと思っている若い人たちもいない。
藤原和博さんという杉並区和田中の民間校長で有名になった人と一緒に、ちょっと前に『人生の教科書[よのなか]』という擬似教科書を出している。この擬似教科書の見本はスウェーデンでの社会教科書なんですね。スウェーデンだけじゃなくて、各国の社会科の教科書を見てみると、やはり素晴らしいと思うのは、例えば社会保障制度について、積立型と賦課型の違いとまったくなくて、まず「家族とは何か」「地域社会とは何か」「教会とは何か」「企業とは何か」あるいは「ボランティア団体NGOとは何か」あるいは「カルトとは何か」っていうふうに、社会の曲がり角を全体として説明して、最後に「だから行政はこのような役割を担っているのであり、皆さんは行政に対してこういう関わりをしなければ社会は回らない」と。だいたいそういう作りなんです。
日本のように社会制度を説明して、社会を説明したかのように、教育したつもりになっている国は日本以外には今ないです。韓国も少し前までそうでしたけど、韓国は今まったく変わった教育のシステムになってますよね。なので、多くの日本以外の国では「日本の国は今こうなっている」とか、「グローバル化によって今世界はこうなっている」ということを前提としたコミュニケーションができるんですよ。
でも日本人は、そういう意味でちゃんとした教育を受けてないので、全体性についてのイメージを持つことがしにくくなっている。特に若い世代ではそうなんですね。上の世代ではまだそういうことができた経験的記憶があるんですけど。そうすると、今全体について言及するタイプのコミュニケーションをすると、「何かうざいこと言ってる奴がいるよ」「何かわからないことを言っているからお前ダメ」みたいな感じで。あるいは「こいつは痛い」とか「うざい」とか評価を受けやすいんですよね。
それが分かっているから、ほかの国であれば、あるいは日本でも少し前であれば当たり前に存在した、国家や世界についての話や宗教についての話、倫理についての話がまったくできなくなっているんですね。これはメンタリティの変化に見えるけど、僕に言わせると、「何がリスクなのか」ってことに関する見込み、簡単に言うと期待値が変わってしまったんですね。だから、これも僕はさっき申し上げたのですけど、教育の変更とか、様々なメディアの変更によって、チェンジ・シフトによって可能な部分がかなりあるだろうと思っています。
■「圧倒的な教師がいない」
大塚: 宮台さんの教科書を見たときに思い出したのは、柳田國男が社会科の教科書を戦後に作ろうとするわけですね。そのときに彼は要するに、今とここから始めて、例えば子供たちが最初にコミットする社会が学校なわけですよね。家から学校、それでどんどん変わっていって最終的に世界に行く。
あと時間の認識も空間から始めるわけですよね。街中を見ていくと古い建物と新しい建物がある。当たり前なんだけど、景観の中にいわば重層的に時間が埋まっていて、そのことを発見していき、そして段々と時間軸を作っていくみたいな。そういうふうに世界認識の仕方みたいなことを、多分彼は社会科の教科書で教えたかったわけです。
ただ、そういうふうな社会科の教科書自体が戦後の日本では、単に受験に使えないという理由で、柳田國男の教科書は敗北するんですけどね。そういう形で世界認識の方法みたいなことを、学校・教育が教えられなかった。多分、そこと関わってくるような問題だし。いずれにせよ、さっきも言ったけど、カリキュラムの作り方によって、どうとでも変えていけるなと思います。
あともう一つ、若い人が不幸なのは、宮台さんはともかく僕が大学の先生をやっている段階で、どうしようもないわけですよね。冗談ではなくて、やっぱり自分の先生、例えば千葉徳爾という化物みたい民俗学者いたが、彼が持っていた圧倒的な教養の幅を見ると、一生追いつけないと思うわけですよ。
彼の博士論文は(1メートルくらいの高さを手で示しながら)これぐらいの高さなんですよ。続編を書いていって、多分本人以外誰も読んでないみたいな。だけども、それは千葉徳爾の研究のほんの一部でみたいな。しかも千葉徳爾が敵わなかった先生に柳田國男がいてみたいな。そんなふうに宮台さんも、大学の中にいた圧倒的な先生に恵まれた。多分、僕や宮台先生が幸福だったのは、そういうものにギリギリ触れた最後の世代だったじゃないですか。
宮台: うん。
大塚: 恐らくもう若い人達は、そういう先生のいたこともピント来ないし、その凄さみたいなことも分からないみたいな。その代わりに僕なんかが先生をやらないといけないことが、うちの学校の子供達にとってかわいそうだなと冗談ではなく、思いますね。圧倒的な教師がいないんだよなってね。
■”時間感覚”を養うということ
宮台: なるほど。(今の話を)ちょっと補足してから次の質問でいいですか?
日本は、その意味で言うと、やっぱり非常に教育に負荷がかかっているので、教育における経験が非常に重要になっていると思うんですよね。ところが、僕が中国やヨーロッパを見ていて思うのは、やはり宗教のほかにも、大塚さんが仰った時間の感覚について、様々な陶冶の機会があるんですね。
例えば、『創世記』の最後の方に、ヤコブとヨセフのエピソードがあって、これはキリスト教では非常に重要なエピソードなんですよね。詳しい話はしませんが、そのヤコブという弟の台詞で「神は悪を善に変える」という言葉があるんですね。これは現ローマ教皇のベネディクト16世ことヨセフ・ラッツインガーが非常に重要視している言葉なんです。なぜかと言うと、キリスト教は繰り返し公会議を通じて、「悪い時代を支配する悪い神と、良い時代を支配する良い神がある」という考えを否定してきた。何ゆえかと言うとね、これは時間感覚の根源に関わる問題だから。
例えば、ナチスがあって今のドイツがあるんですね。あるいはブッシュ、ウォーカー・ブッシュ(大統領)がいて、オバマ(大統領)がいるんですね。あるいは日本の戦前があって、あるいは戦中の行為があって戦後民主主義の日本があるんですね。過去と現在を切り離してしまえば、残念ながら、まあちょっとヘンゲル的な問題意識で言えば、過去が現在にどう生きているかまったく分からなくなってしまうんですね。
ですから、『旧約(聖書)』の時代を支配したヤハウェというギリシャのゼウスに似たような恐怖と不安の神に対して、『新約(聖書)』の神であるイエス、すなわち愛の神が出ていたという議論は絶対に受け入れることができない。キリスト教がグノーシズム(知性主義)をどうして受け入れないのかと言うと「ヤハウェはエデンの園の悪らつな番人だ」という議論、これは「悪の時代を支配する悪の神」という議論につながる議論であって、こういう議論を多くのヨーロッパのインテリたちは、宗教のコミュニケーションを通じて、自分が信者であろうがなかろうが触れてきているんですよね。
中国だったら、例えば歴史がそうなんですね。『三国志』なんか典型ですけれども、「善人ほど早死にする」という台詞がありますよね。あるいは「人間万事塞翁馬」って言葉がありますけれど、何がいいか悪いかなんてその時にはわからないんです。例えば、僕たちにとっては目の前に展開する戦争の悲劇や震災の悲劇があります。しかし、10、50年した時に「あれがあるから今があるんだ」と言える時が必ずありうる。つまり、悪が善を変える、神が悪を善に変える。その場合、特にキリスト教であれば人を通じて必ず変えるんですね。だから、悪の神が人を通じて悪を善に変える。その営みに関わろうというような時間感覚が出てきたりする。
でも日本の場合、学校の外で「時間感覚についての適正な理解はこうだ」と教わるような機会ってまったくないんですね。今は、ですよ。昔は僕、違ったと思う。昔はなぜ素晴らしい先生がたくさんいたのか。素晴らしい民俗学者がたくさんいたのか。それは明らかです。昔は学校の外には時間感覚について学ぶ機会がいくらでもあった。それは農村調査、あるいは僕自身がやった都市の調査もそうです。そのリサーチを通じて、やっぱり時間感覚を学ぶんですよ。そうしたことが今はないですね。
大塚: そう。だからあえてフィールドワークって、僕たちが千葉徳爾に教わったことは、彼は学生を一人ひょいと連れて、ふらっと彼は調査旅行とかに出かけるわけですよ。新入生は千葉の後をついてカバンを持って、優秀な学生は遠くまでフィールドワークに行くし、僕みたいなダメな奴は近隣の村で済まされるんだけど。するとそこで彼は何をやるかって言ったら、屋根を指して「村の農家のあの屋根は、なぜあのような形をしているのか」とか「この道はなぜ3本筋になっているか」って聞くわけですよ。
当然答えられませんよね。そうすると千葉は答えるわけなんですよ。「こうだ」って。その繰り返し繰り返し繰り返しですね。その具体的な風景みたいなものの中に、歴史や文化が記録されていて、「なぜお前はそれが読み取れないのか」って叱られるわけなんですね。そんなもん分かるわけないんですね。でも、そうやって読まなければいけないんだとか、あと答えはわからなくても千葉の指すポイントが分かってくるわけなんですよ。むやみに指しているわけじゃなくて、ある歴史とか文化の結節点というか、特異点みたいなものがあって、それを千葉が指さすんですよ。そこがなんとなく分かったときに少しだけ、ものが考えられるようになった気がするんですよね。
それが、柳田の本読んだら、柳田がそれを自分の弟子達にやっていたんですね。それがさっき言った柳田の教科書に反映しているだろうけども。例えば知識の体系だけじゃなくて、そういう「ものの教え方」ですよね。それはもう僕は真似しても上手くできないんだけれども、そういうことができた教師たちがかつていたし、そういう教師なんかを柳田が作りたかったんだろうなって気がしますよね。
■「時間感覚を養う経験を社会が与えていない」
宮台: 柳田で思いますよね。あの戦間期の今和次郎という考現学の創始者。
大塚: はいはい。ええ。
宮台: やっぱり同じことを、現代観察についてやろうとしていたんですよ。
大塚: そうですね。同じですね。
宮台: 表層的な戯れにすぎない都市生活に見えるけれど、実際に見てみると、すべてに理由があるんですよね。あるいは我々の、従来から反復してきた行動パターンの残響が必ず見えるんですよね。
それを明らかにするのが考現学だとするとね。今、特に2000年期に入ってから出てきている、名前は挙げませんけれど若者論の多くは、今和次郎的考現学がベースにある民族学的な素養からすると、単なる雑誌の「最近の若者のコミュニケーションとはこうだ」という議論と同じで、実際はどうゆう全体的な構造があるがゆえに、こうゆう部分的な構造があり、それゆえにそれ前提としてそうゆうコミュニケーションをせざるを得ないのかという回路がまったく描かれていないんですね。
だから僕は今の30代が書いた若者論の多くは、そのほとんどは「すべてクソ」だと考えていますよね。でもそれは彼らが悪いんじゃなくて、そういう時間感覚を養うような経験的な基礎を、この社会の方が与えてくれていない。言い換えれば、表相と深相をなんとか見分けて、区分けて、腑分けして、自分自身の血肉としていくような、そういう経験を与えてくれるようチャンスが、今この世界にはないんですね。それはないと言ってもしょうがないんだけれども、それがない状況にあなた方は生きていて、例えば50年前や40年前はそうではなかった。だとすれば、「何が代替的な機能的な等価物になりうるのか」という発想の仕方が僕は大事だと思います。
■「絶望から出発することが大事」
司会者: はい、ありがとうございます。それでは最後の質問です。神奈川県の30代の男性からです。「お話楽しく拝見しました。丸山眞男の言葉に『大日本帝国の実在よりは、戦後民主主義の虚妄に賭ける』というものがありましたが、お二人の話を聞くと、共同体自治やカリキュラムという目線で近代化を進めるべきということなのでしょうか?今日のお話だとなんだか諦めたという感じも受けるのですが、諦めるべきでしょうか?それとも頑張るべきなのでしょうか?具体的にどのような努力が必要なのでしょうか?」
大塚: そんなもん自分で考えりゃいいじゃん(笑)。
宮台: 僕は、以前『絶望から出発しよう』って本を書きましたけれど、やっぱり絶望から出発することが大事ですよね。勘違いから出発するのだけ回避しなければいけないし、過剰な期待を持つがゆえに打ちひしがれるというありがちな失敗からも自由であるべきだと思いますよね。
なので、何が現実なのかよく見て、自分ができる範囲を自分でコントロールしていくことによって、自分や自分の仲間たち、家族たち、恋人を幸せにするということでよいような気がするんですよね。そういうことが部分部分に広がって、現実的に観察可能になればロールモデルとして学ばれることがあるかも知れませんし、ないかも知れませんけれども。僕にとってはそういう広がりがあろうがなかろうが、それは僕の関心の的ではあまりないですね。
大塚: 『愚民社会』のあとがきでも最後、捨て台詞的に書いたけどもね。久しぶりに世の中について喋る本を、ついうっかり出しちゃったんだけども、元々そういうことを言うのが嫌になったのは、話した後で「私は何をすればいいんですか?」って絶対聞かれるわけですよ。
宮台: うん。
大塚: でも、それが嫌だったんですね。
宮台: (笑)
大塚: 嫌だって言うか、つまり「自分で考えろよ」って言ってるのに、「それでは私はどうすればいいんですか?」って質問が返ってくる。そうじゃないわけですよね。
まず今の方に申し上げたいのは、失礼かもしれないけれども、そういう質問をまず自分の中で飲み込んで。もし話すとすれば、この番組を見てくださったのはありがたいんだけれども、あなたの周りに誰かそういう話をする人間はいるはずだし、見つけられるはずだし、見つからなかったら、それこそ繋がることだけはネットっていうメディアではできるんだから、そこで話し始めていけばいいんじゃないのかなって、すごく一般論だけれども思います。そういったことで、あなた自身が絶望するのかしないのかってことを、自分で考えていっていただきたいと思います。僕の答えは、そういうことになっちゃうのかな。
宮台: いいお話です。
大塚: ありがとうございます。
宮台: 大塚さんの仰った通り、僕も思います。
司会者: はい。というわけで、あの、1時間延長しまして。
宮台: え。
大塚: うわー。
司会者: 1時間弱ですね、延長してお送りしてまいりました。長い間宮台さん、大塚さんお話ありがとうございました。最後までお付き合いいただきましたユーザーの皆さんもありがとうございました。
ニコニコ放送ではこの後も多くの言論、報道番組をお送りしています。このあと夜10時からは、ニコ生奇祭取材隊「蘇民祭 in岩手・黒石寺」を録画放送でお送りします。
大塚: この後にそれか(笑)。
司会者: それでは皆さん最後までご覧いただきありがとうございました。さよなら。
(了)
◇関連サイト
・[ニコニコ生放送] 全文書き起こし部分から視聴から視聴 – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv78999016?po=news&ref=news#0:35:09
・「日本は民主主義社会ではない」 大塚英志×宮台真司 対談全文(前)
http://news.nicovideo.jp/watch/nw190914
(書き起こし・ハギワラマサヒト、吉川慧、武田敦子、藤平昌寿、登尾建哉、小浦知佳 編集・山下真史)
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ウェブサイト: http://news.nicovideo.jp/
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