不思議の彼方へ行っているのか、一周まわって戻ってきた日常なのか

不思議の彼方へ行っているのか、一周まわって戻ってきた日常なのか

 高山羽根子はヘンな作家だ。「異色短篇」「奇妙な味」をさんざん読みちらかしてきたぼくの感覚だと、その地点からさらに先へ先へと進み一周まわって日常に戻ってきたみたいな気がする。だが、そんなことを言ったら、作者から「うふふっ、でもワタシは最初からここ(日常)にイマシタよ」と笑われそうだ。その笑顔はステキなのだが、なんだかちょっと怖い。本書は、そのステキで怪しい高山羽根子の第一短篇集で、5篇を収録している。

 第1回創元SF短編賞で佳作となった表題作は、その題名どおりキツネつきのうどんの話だが、うどんといっても食べるうどんではなく犬の名前だし、キツネつきといっても油揚が乗っているのではなく霊が降りたというか錯乱しているというか、そういう状態のことである。錯乱状態の犬なんていうとクージョみたいだが、そんな物騒な展開ではなく、たんにうちにはちょっと変わった犬がいますって程度だ。

 そもそも、当のうどんが登場するのは最初の拾われる場面だけで、あとは飼い主の三人姉妹(和江・美佐・洋子)の会話のなかにだけあらわれる。姉妹はだんだん成長してそれぞれ平凡な日常を生き、そのおりおりで人や動物と関わる。とくに劇的な出会いがあるわけではない。たとえば、洋子がペットショップへ行ったら同級生がいて、その彼が団地のベランダで買っているニワトリの話をする。ニワトリがしばしば手すり越しに飛んで脱走するが、自分で階段を昇って帰ってくるし、遠くに飛びすぎた場合は団地のひとが知らせてくれるので問題はない。

 そんなふうに、挿話ごとに動物(宇宙犬、老犬、沢蟹、フクロウ、などなど)が話題にあがり、そのついでにうどんの消息が語られる。それぞれ人間と動物のふれあい(通じるようで通じているかどうかよくわからない関係)が描かれて面白いが、とりたてて珍しいできごとがあるわけではない。ただ、それをつなげて読んでいくと、身近に動物がいる日常がちょっと不思議に思えてくる。いきものと暮らす、それは趣味ともちがうし、なにかの代替でもなく目的があるわけでもない。本能的な行為だが、生理的欲求や社会的欲求では(おそらく)ない。考えてみると不思議なことだけど、三人姉妹はわざわざ考えたりせず普通に「うどんが……」と話すだけだ。

 この本のコシマキには〔犬そっくりの奇妙な生き物を拾った三人姉妹〕とあって、すっかり犬だと思って読んでいたぼくは意表を突かれた(作中の三人姉妹も犬として扱っている)。しかし、待てよ。これは作品のたたずまいを端的にあらわした名コピーじゃないか? 全篇にやわやわ流れる掬いきれない不思議さを、どうにか一点に収束させてみると、そこに〔犬そっくりの奇妙な生き物〕がいるのかも。

「それってSFなの?」と首をかしげるむきもあるかもしれないが、クライマックスに至って宇宙的視野がいきなり開ける。それはタネあかしやオチではなく、シオドア・スタージョンの名作「孤独の円盤」に似たヴィジョンだ。

 ほかの収録作にも、設定やストーリイだけを説明しただけでは面白さがうまく伝わらない、高山羽根子ワールドが広がっている。ぼくが一番面白かったのは、書き下ろしの「おやすみラジオ」だ。

 絵手紙教室の講師をやっている比奈子は、たまたま見つけたブログに興味を持つ。少年の日記だが、もしかするとそう装った創作かもしれない。そこには、少年とその仲間が見つけた奇妙な箱のことが書かれていた。徐々に大きくなる謎めいた箱を少年たちはラジオと呼び、誰にも内緒で分解しようとするがねじ穴にドライバーが合わない。比奈子はこのブログの内容から少年たちが近くに住んでいると気づき、彼らの足跡を追いはじめる。その過程で出会ったのが、おなじくネット経由でラジオの謎に興味を抱いたキシダという青年だった。キシダによれば、ラジオの手がかりは少年のブログだけではなく、さまざまに散らばっている。たとえば、会員制の仮想世界では、神出鬼没のアイドル「ラジオちゃん」が話題になっていた。噂はオンラインだけではなく、チェーンメールや都市伝説にまで及んでいるかもしれず、しかも「ラジオ」という言葉だけが伝播して、実体がまるでわからない。

 キシダの推測によれば、隔絶した独立国のネットサーバに集積された治外法権の情報が関わっている。しかし、そのサーバの存在も都市伝説だ。すでに閉鎖されたサーバからヤバいネタが流出しているなんてことがあるのか。その一方で、比奈子が追いつづけているブログでは、少年の仲間のひとりが忽然と姿を消す。〔ヒメ[消えた少女]が、ぼくたちにどこへ行ったかも知らせないで/どこかに行くはずなんてない〕との書きこみに、緊迫感が漂う。いったいラジオをめぐって何が起きているのか?

 通常のサスペンス小説だったら、最後で謎がスッキリ明かされる。トマス・ピンチョンが書くなら一意的な解がないままに放りだすだろうし、ブルース・スターリングだったらそれまでになかった社会機構の胚胎を描くかもしれない。だが、この作品はそのどれでもない。正直言って、ぼくはこの結末をどう受けとめようか悩んでいる。いきなりギアをいれて彼方へ行ってしまっているようでもあり、一周まわってここ(日常)に戻ってきたようでもあり。

 そもそも、ここってどこだろう? 高山羽根子を読むとそんな気分になる。

(牧眞司)

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