名もなき名建築が主役。歩いて楽しむアートフェス「マツモト建築芸術祭」 長野県松本市
2022年1月29日~2月20日、長野県松本市で「マツモト建築芸術祭」が開催されました。市内20カ所の”名建築”を会場に、17名のアーティストによる作品を展示するというもの。各地でさまざまな芸術祭が開催される中でも、「建築」にフォーカスした芸術祭は珍しいものです。建築旅がライフワークの筆者がイベントの様子をレポートします。
日本初の建築芸術祭で楽しむ、有名無名の名建築
江戸時代、城下町として発展した長野県松本市。全国で12箇所しかない、江戸時代以前からの天守が現存する国宝・松本城を筆頭に、江戸時代以来の町割(城郭を中心に据えた区画整備)、戦前の建築物など歴史の名残が色濃く感じられる松本は、街歩きが楽しい人気の観光スポットです。建築を目的にあちこちを旅してきた筆者としては、建築が観光資源になっている地域には、新しく建てられる建築物もまた、優れたものが生まれやすい土壌があると感じます。その最たるものが建築家・伊東豊雄氏の設計で2004年にオープンした「まつもと市民芸術館」。松本城の石垣を意識して外壁のパターンを、伊東氏らしさ全開の軽やかで柔らかなデザインに昇華させたこの建物は、現代日本建築随一の名作として世界的にも広く知られています。
国宝・松本城。無駄な要素が削ぎ落とされた実戦的な城郭建築。黒と白のコントラストが美しい(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
江戸~大正期以来の蔵を改修した商店が建ち並ぶ「蔵通り」こと中町通り。城下町として栄えていたころから、商人の町だった(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
まつもと市民芸術館。石垣をイメージしたパターンが有機的で軽やかに連続する様子には、竣工から20年近く経った今でも新鮮な印象を受ける(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
2Fロビー。壁面に穿たれた大小さまざまなガラス窓が輝き、ハレの空間を演出している(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
また明治期の開国後、西洋の建築デザインを取り込もうと全国で流行した「擬洋風建築」と呼ばれる様式の代表格として、あらゆる日本建築史の教科書に登場する旧開智学校もまた必見の建築物です。
建築・デザイン関係者ならずとも一度は訪れたい松本で開催された「マツモト建築芸術祭」
芸術祭をたっぷり楽しんだ筆者が、総合ディレクターを務めたグラフィックデザイナーのおおうちおさむさんにイベントに込めた想いを伺いました。
生活の中に入り込むアートが、建物を美しく輝かせる
国宝・旧開智学校には現代美術家・中島崇氏の作品が展示された。多数の細い糸が建物の前面に張り渡され、鑑賞者が建物に近づけない現状が強調されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
「アートがあることで建物が美しく感じられる、そんな関係をつくりたかったんだよね。僕は美術館に展示するために作品をつくっているアーティストはほとんどいないと思っていて。人々の暮らしの中にあって、その人の生活や空間を素敵に魅せるのがアートの本来の役割なんじゃないかな。松本は民藝の聖地でもあって、生活の中に美を見出す民藝の思想と、僕の思うアートの価値が完全につながっていて。日本各地でいろんな芸術祭が開かれているけど、松本だからこそやる意味があることはなんだろうって考えた時に、松本にしかない建築に、そこに展示するからこそ輝く作品・作家を選んでいこうと思った。松本には戦前から大切に使われてきた建築や、いろんな人の手にわたって使われ方も変わりながら引き継がれてきた建築がたくさんある。そういうストーリーをもった生活の中にアートが入り込んでいくのを想像したらすごくワクワクしたんだよね」
池上邸 土藏に展示された、磯谷博史氏の写真作品。線の細い照明は、作家の要望を受けおおうちさんがデザインしたもの(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
今回、芸術祭の会場として選ばれたのは松本城を中心に約800m圏内にある、有名無名の建築物で、おおうちさんの言うように、ほとんどは、筆者も知らないものでした。「名建築」の基準が独自に設定されていて、会場を訪れてみれば、どれも個性豊かで味わいのある建物ばかり。アート作品の解説以上に建物のストーリーが詳しく説明されていることも、この芸術祭の特徴です。
国登録有形文化財のかわかみ建築設計室。取り壊しの相談を受けた設計事務所が、壊すのは忍びないと自ら事務所として借り、後に所有することになった(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
もともと病院として設計された名残が、エントランスの受付スペースに。現在は事務所の作業スペースとして使われており、芸術祭の最中も事務所スタッフの方が忙しく作業していた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
1階の旧応接室に展示されたロッテ・ライオン氏の作品。幾何学的な作品が、建築を構成する要素と呼応するよう(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
2階はなんと和室になっている。この芸術祭を通じて、外部からは想像も付かない内部空間を体験することが幾度もあった(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
ここでしか見られない、建築とアートのマッチング
「僕も何回も松本には来ていたんだけど、そんなに建築に詳しいわけじゃなくて。もともと市役所に勤めていた米山さんっていう、とんでもない建築マニア、それこそ松本にある建築で知らないものはないみたいな人がいて。その人に、今回のビジョンを話したら次の日に膨大なリストをつくって持ってきてくれたんだよね。そこから気になったものをピックアップして話を聞いたり、実際に見に行った。その中で、あぁ、この建築にはこんな作品が置かれると良いだろうなぁ、ってインスピレーションが湧いた建築を選んでいって、最終的に60箇所くらいの候補のなかから絞り込んで20会場に落ち着いたんだ」
擬洋風の看板建築、下町会館。一般的な看板建築では建物のメインの立面のみデコレーションすることが多いなか、四周余念なくデザインされている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
ここに展示されたのは土屋信子氏の作品。普段は共有のオフィスとして公開され、誰でも申し込めば使うことができる(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
今回の目玉のひとつ、国登録有形文化財の割烹 松本館。昭和十年ごろの建設時に太田南海が腕を振るった精巧な装飾があふれる空間に、小畑多丘氏の彫刻が展示された(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
松本館の外観からは、とても内部が想像できない。地元民でさえ、芸術祭を通して初めてその魅力に触れた人も多いことだろう(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
「たとえばまつもと市民芸術館は、伊東さんが石垣をイメージしてデザインした壁の隙間から差し込んでくる光に(井村)一登さんの作品を合わせたいなっていう、すごく単純な発想。たくさんの人が行き来するあの階段に置いてあったら、見ようによっては空間ごと彼の作品に見えてくるんじゃないかとか、想像が広がっていくよね。どの建築にどの作家の作品を展示してもらうか、っていうのは全部僕が決めていて、建築の空間と普段どんな使われ方をしているかってとこからイメージしていった」
まつもと市民芸術館、エントランスから2Fへ上がる大階段。左手の台に展示されているのが井村一登氏の作品(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
「旧念来寺の鐘楼は、お墓が並ぶところに建っていて、隣がショッピングモールになってるでしょ。人の日常的でささいな営みと、死後の世界とが共存しているなかに、他愛ないやり取りを作品化した山内(祥太)さんの映像が入り込んでいったら面白いなと思って。映像の世界観も新しくて、忘れていた記憶を引っ掻き回されるような不思議なアンリアルが、あの場所だからこそ生まれてる。アートを美術館から人の生活の中に引きずり出してあげることで、建築もアートも今までと違って見えてくる。誰にでも分かりやすい作品は選んでないから、見た人は本当に良いと思えるか、自分の眼で判断しなきゃいけない。ステートメントなんか読まなくても魅力が伝わる作品を選んでるつもりだけど、わからないな、つまんないなって人も当然出てくる。そうすることでこびりついた価値観を引き剥がしてフラットにものを見る力が養われていくことも期待してる。市は松本をアートの街に、っていう構想をもってるんだけど、本気でやるならそれくらいオリジナルなことをやらなきゃいけないと思ってて。既存の評価軸とか、過去の成功事例に乗らずに自分たちでなにが本当に価値があるのか、判断してくのはものすごくハードルが高いことで、すごくチャレンジングなことだけど、この芸術祭はその一端になったんじゃないかな」
墓地の真ん中に建つ旧念来寺鐘楼。左手側奥にショッピングモールがある(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
なにも変えなくても、違う体験になる
ひとつひとつ建築を読み解いて、この空間にどんな作品を展示するとその場所が輝くのか。実際に足を運んで建物を選んでいくおおうちさんの熱意は相当なものです。その熱意が建物のオーナーさんにも伝わったようで。
「普通こうやって建築を活用するイベントだと、なかなか使用許可が下りないケースが多いんだけど、今回ネガティブな理由で使えなかった建物はひとつもなかった。やっぱり松本の人たちも、古い建物を守っていきたいという想いがある一方で、なかなか良い使い方ができていないってジレンマがあったんじゃないかな。新しい使い方を拓く可能性に賭けてくれたんじゃないかなって思ってる。あとはやっぱり齊藤社長の存在。彼の松本に対する貢献って本当に大きくて、松本をアートで盛り上げていきたいっていう想いが今回の芸術祭に関わった人たちの姿勢に影響を与えてる。集まってくれたボランティアの人たちも、運営に携わった実行委員会の人たちも本当に熱意があって、だからこそ良いイベントになったと思うね」
齊藤社長とは、芸術祭の実行委員長で扉ホールディングス株式会社 代表取締役の齊藤忠政氏のこと。扉ホールディングスは、創業90年の歴史をもつ老舗旅館「扉温泉 明神館」や今回の会場にもなった、古民家を改修した高級レストラン「レストラン ヒカリヤ」など、松本の観光業をまさに建築体験を通じて盛り上げてきた立役者です。かく言うおおうちさん自身も、齊藤社長の熱意に動かされてきたひとり。
会場の一つで、写真家・石川直樹氏の作品が展示されたレストラン ヒカリヤ。国登録有形文化財に登録されている明治時代の建築。奥に建つ蔵が会場となった(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
ヒカリヤの展示会場へは母屋の隣に建つ建物を抜けて向かう。作品へ至るアプローチも芸術祭を楽しむ仕掛けになっている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
普段はフレンチレストランとして使われているヒカリヤ。最低限の手入れによって、文化財が美しく活用されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
「もう十何年も前、それこそ僕がヒカリヤのアートディレクションをやらせてもらって齊藤社長と知り合ったころから、ずっと、松本に残る古い建築をどうにかして残していきたいって話は聞かされてたんだよね。だけど、保存して置いておくだけじゃどんどん朽ちていって命が失われていくから、使い続けることを考えた方が良いって話をずっとしてた。やっぱり時代時代の使われ方に応じてこそ、生きた建築って言えると思う。芸術祭ではいわゆる保存とはアプローチが違うけど、新しい使い方を気づかせてあげられたんじゃないかな。旧宮島肉店なんか、ボロボロのまま長いこと放置されてたのを片付けるところから始まったんだけど、芸術祭が始まってから何件もあそこを使いたいって相談が来てる。実は僕も、今後の芸術祭準備のための拠点として使おうと思っているんだけどね(笑)」
旧宮島肉店外観。コンパクトながら均整の取れたプロポーションが特徴的。それにしてもよく見つけてきたなと思わされる、素朴な建物だ(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
今回、旧宮島肉店に作品を展示するにあたり、壁紙を剥がすなど大胆に手を入れた。老朽化が進む建物を事務所として使うためには、それなりの改修が必要になる(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
「今回、建築やアーティストとじっくり向き合ったからこその成功だったと思ってるから、この規模感は守っていきたい。なにも変えなくても、使う会場や展示する作家が変わるだけで全然違うイベントになるからね。これだけコンパクトだからこそ、街歩きもしながら1日で全部の会場を回れて、楽しみやすい芸術祭になってるし。少し数を減らして、1棟まるごと使った展示も考えてみたいかな」
鬼頭健吾氏の作品が外壁窓、中庭へ抜ける通路の天井と中庭に展示された、NTT東日本松本大名町ビル(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
中庭にはカラフルなアクリル板でかたちづくられた舟型の作品が。単体で展示されるのと、ビル全体を使った展示のひとつとして見るのとではまた印象が変わってきそうだ(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
「次は蔵通りに会場を必ず設けたい。実はもう次回に使いたい建物は決まってて、ひとつは看板建築の古い薬局で、もうひとつは旧開智学校を手掛けた大工が建てた蔵。あとはどうにかして松本城を会場にできないかなっていうのは考えてる。この時期いろんなイベントが重なってて、今回は断念したんだけど。旧開智学校も耐震工事を終えたらお披露目をしたいね。規模は守りつつ、単発のイベントでサテライト会場として中心部から少し離れた場所を使ってみる、みたいなやり方にもチャレンジしたいな」
いまも薬局として使われているミドリ薬局。装飾から立体感が感じられる看板建築だ(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
立石清重が晩年に手掛けた蔵。立石は旧開智学校の設計・施工にも携わった、明治期の松本で活躍した大工として知られる(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
会場を変え、作家を変え、継続していく建築芸術祭。実現すれば、そのたびに建築やアートの新しい楽しみ方が見つかるに違いありません。
人と建築の関係に転換を迫る、アートの力
筆者が今回の芸術祭を通して感じたことは、建築の見方をほんの少し変えてみることで、こんなにも豊かな世界が広がっているのかということでした。会場に指定されていなければ、決して中に入ることも注目することもなかっただろう建物に、芸術祭をきっかけに出会うことができたことは、参加者皆の財産になっていることだと思います。実際に中に入ってみると、外観からはまったく想像がつかない魅力にあふれた建築をいくつも訪れることとなりました。それもそのはずで、おおうちさんがアートは人の生活のためにあるものと言うように、建築もまた人々の生活のためにあるものです。生活とともにある建築の姿を知って初めて、その建築の魅力も知ることができるのだと思います。
総合ディレクターのおおうちおさむ氏。隣の井村一登氏の作品は、おおうち氏所蔵のものから出品した(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)
中に足を踏み入れて、普段どのような使われ方をしているのか想像してみる、あるいはそこに置かれたアートと対峙することで、自分だったらこの建築にどんな価値を見出すことができるか考えてみる。そのような建築との向き合い方がデザインされていました。
そのような視点で日々の生活で触れる建築を見てみることで、いままで見過ごしていた可能性や価値を発見することができるかもしれません。松本ではいまもたくさんのお店が古い建物をリノベーションし、営業していますが、これからよりオリジナルな使われ方が模索されていくのではないかと期待が膨らむきっかけとなりました。さらに、そこにしかない建築に、その空間に合った作品を展示するマツモト建築芸術祭の枠組みは、全国どんな場所であっても実践可能だと、おおうちさんは語っていました。松本ではじまった建築活用の新しい取り組みが、全国さまざまな名建築を舞台に広がっていくことを夢見させてくれる、幸せな芸術祭でした。
●取材協力
m.truth 株式会社
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