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科学者はみのもんたに勝てるのだろうか?

科学者はみのもんたに勝てるのだろうか?

今回は近藤滋さんのホームページ『こんどうしげるの生命科学の明日はどっちだ!?』からご寄稿いただきました。

科学者はみのもんたに勝てるのだろうか?

免疫学者、みのもんたに完敗

かなり以前、筆者が京都大学医学部で講師をしていた時の話である。所属していた研究室は、免疫遺伝子の研究では世界的にも有名であり、従って、当時の筆者は免疫学に関しては、(個人的にはたいした業績があるわけでは無いが)一応プロなのであった。
ある日、東京の母から電話がかかってきた。しきりにトマトをたくさん食べろと勧めるのである。その理由は「免疫に良いから」だそうである。
なんだぁ、その「免疫に良い」ってのは?
いくらなんでもアバウトすぎて、何を意味してるのかもわからんぞ?
だいたい、免疫学のプロに素人が免疫について指図するとは上等である。
「いったい、誰がそんな頓珍漢な事を言ってたんだ?」
と聞くと、
「みのもんた、がTVで言ってたのよ」
と返事が返ってきた。はぁ~~。みのもんた・・・・・・。
「あのさぁ、俺一応免疫学者なんだぜ。解ってる?」
「でも、そういってたんだもの、ちゃんとトマト食べなさいよ」
「・・・・・・」
とまあ、生命科学者の権威は、みのもんた氏には到底太刀打ちできない、と言う事が明らかになった瞬間でありました。
実際、世間でのみのもんたの権威?はすごい。
彼が、「奥さん、トマトは免疫にいいんですよ」というと、トマトがバカ売れ。「納豆はお肌にいいんです」というと、スーパーから納豆が消え、「きゅうりは若返り効果があるんだって」とうなずけば、市場できゅうりが暴騰する。絶大な信用である。

しかし、次から次へと、@@@に良いという食品が出てくるということは、「効果はほとんどない」ことの間接的な証明でもある。みのもんたが「@@に良い」と断言した食品その他は、この20年で数百に上ることは確かだが、みのもんた本人だって、覚えちゃいないだろう。そもそも根拠が極めて怪しい。きゅうり食って長生きできて、トマト食ってがんにならないのであれば、医者なんかいらないのだ。

正確さの保証はどこに?

では、なぜ視聴者はみのもんたの言うことを信用するのか?

みのもんたは医者でもなく科学者でもない。彼がそう話すだけでは、視聴者は納得しないはずである。だから、たいていの場合、みのもんたの隣には「~~大学教授」とか、「~~研究所研究員」がいて、話題の信ぴょう性に箔を付ける。視聴者は思う。なるほど、ちゃんとみのさんは正しい科学の裏付けを持って話しているのだ。
こうした事が繰り返されると、だんだん、科学の権威がコメンテーターからみのもんたに乗り移っていく。みのさんの調べた事なんだから、間違いない。信用できる。少なくとも、うちのバカ息子がやっているめんえきの研究よりもずっと正しいに違いない。そうだ電話しておこう。。。。となるのである。

科学的な事実の客観性への信仰

この、専門家のコメントで科学としての信ぴょう性を代表させるという方法は、TV以外にもあらゆる場所で使われている。
新聞に「@@@@を解明した」という科学関係の記事が載ることが多いが、それには他の専門家のコメントが添えられることが多い。信ぴょう性は、お手軽に専門家のコメントで代表させるのだ。
それに、もし報道した事実が「間違い」であったとしても、報道機関が責任を取る必要がない。だって、専門家がそういったんだもの、自分たちはそれを報道しただけ、と言い訳できるのである。実に賢い方法である。

しかし、本当にこのやり方でよいのだろうか?
考えてみれば、科学的な事実とはいえ、専門家の間で意見の異なる場合も多いし、そもそも、インチキくさいコメンテーターだって結構いる。
内容によっては、たった一人の専門家のコメントで済ますのは危険なこともあるだろう。
だが、少なくとも一般社会には「科学の客観性」に対する信頼があり、それが、「たった一人の科学者の判断が全てを代表できる」というフィクションを成立させる。小学校から大学を通じて教えられることは、科学的な事実の普遍性と確実性である。
文系の科目の問題には答えはいくつでもある、かもしれない。しかし、理系の科目(特に数学)には、絶対的な答えが存在し、それのみが正しい。そういう知識体系を理解し、身につけているのが科学者なのであり、従って一人の科学者の判断は常に科学者集団の中では共通のはずだ。従って一人のコメントでOKということになってしまうのである。

だが、現実はそう理想通りにはいかない。TVで、血液がドロドロになるとか、デトックスとかの妄言を聞かされると、何かやり方を改めないといけないんじゃないか?とか思う。でも、みのもんたに忠告することもできないし、「まあ、自分はプロだから騙されることもないし関係ないや・・」とか思っていつも見過ごしていた。ところがである。よく考えてみると、この問題、研究者にとっての極めて重要な問題と良く似ていることに気がついてしまったのだ。

科学ジャーナルとTV局は結構似ている

科学者にとってのメディアは、もちろん専門の科学ジャーナルだ。
個々の論文を科学ジャーナルに掲載するか否かはピアレビューにより判定される。論文を受け取った雑誌編集部は、その分野の専門家2~3名に、その論文の質・インパクトの評価を依頼し、その結果をもって掲載を決める、というやり方である。少人数専門家の評価で、論文の価値を判断できるという考え方の前提には、やはり科学的な判断には客観性がある、という暗黙の前提が存在している。なんだかTV局と似ているではないか。判断を少数の専門家に任せて、ジャーナル自体は責任を持たないところも同じだ。

さらに、一部の「人気のある」ジャーナル(Nature, Science, Cellなど)に、「権威」が発生するのも全く同じである。高インパクトファクターの雑誌に掲載されれば、その研究は瞬時に世界中の人の目に留まる。新聞雑誌で報道され、注目は浴びるし、研究費やポストも取れてうはうはである。研究の目的が、「純粋な科学的な真実の発見」でなく、「CNSの論文をゲットする」になってしまっている人だって沢山いるだろう。Natureはこの分野の論文を掲載する可能性が高いから、こういう研究をしよう、とか考える人もいるかもしれない。(う~ん、書いていて自分で耳が痛い・・・)必然的に「権威」が発生し、論文を吟味することなく「Natureに載ったからすごい」と思ってしまうのである。

という訳で、メディアと一般人の関係と、科学者とジャーナルの関係はそっくりなのだ。「Natureは科学界のみのもんた」なのである。Natureを信仰している限り、みのもんたに勝つことはできない。

論文評価のもう一つの方法

現在のピアレビュー制度に問題はたくさんある。
論文の評価をする専門家が、本当に正しい評価を下せるのかは、結構疑わしい。研究の競争相手であるかもしれないし、頭の固い人は新しいアイデアを評価する能力にかける可能性も大きい。メンデルの法則も当時は誰も理解しなかったし、チューリングの理論もまた然りである。だが、ほかの方法がなかったので、この制度が続いてきたわけである。

しかし、最近論文のレビューに関して新しい方法を採用する雑誌が出てきている。PLOS ONEや、Nature.comが運営する「Scientific Reports」などだ。これ等のジャーナルでは、一応ピアレビューは行うが、それは実験の手法とそこから導かれる結論の妥当性に関するものであり、得られた結論の価値・意義等は、出版後の読者に任せる、というスタンスである。この方法を可能にしたのは、誰でも論文にアクセスでき、更にコメントをつけられるというインターネットの特性である。
この方法のメリットは2つある。
審査の主体がバイアスのかかった少数の専門家でなく、研究者全体に変わることで、論文の採否に関する不合理を排除できること。
さらに、論文に対する評価が、署名付きのコメントの集積になることで、掲載されたジャーナルの権威とは切り離されることだ。このやり方がうまく機能すれば、みのもんたに一泡吹かせられるかもしれない。

一方で、この方法の成否は、研究者社会のモラルやリテラシーに依存してしまうと言う問題がある。査読の甘い論文が世に出ると、社会を混乱させる可能性もある。これは結構心配だ。どうだろうか、研究者、及び一般の社会はこの方法が機能するに足るだけ成熟しているだろうか?昨今の捏造問題とかを考えると、暗い気持ちになってしまいそうであるが、実は最近、予想外にネットの社会は健全であることを示す事件が最近あった。

ネットピープルによる査読の健全性は?

最近のことなので覚えている人も多いと思うが、琉球大学のグループが、福島のヤマトシジミには、放射線の影響による変異が高頻度で観察される、という衝撃的な報告をScientific report誌で行い、それを共同通信、時事通信が配信し、即座に「ヒバクチョウ」というタイトルの扇情的なツイートが多数駆け巡った。
しかし、論文を読んでみると、実験計画の時点で問題が多く、放射能が原因であるという結論を導くのはかなり厳しい。予想(期待)通り、論文自体の結論に対する疑義を表明するHPも多数立ち上がった。
どうなるかと興味を持ってみていたが、説得力は、論文の内容に疑問を呈するサイドにあったため、どうやらこのニュースは、それほど大きくならずに終わったようだ。
個々の研究者は、自由に研究発表をする機会を得、しかし、それをネットに住む住人(この場合はほとんどが研究者であった)が正しく判断する。なんだか理想的である。はからずも、ネット社会は健全であることを証明したのである。
また、この件が大騒ぎにならなかったのには、大新聞が報じなかったことも大きい。筆者が直接科学部の記者に聞いた話では、その記者は沖縄まで言って、論文の著者に直接話を聞いたのだが、サンプルの数が少ないなど、疑わしい点があったので、(記事にしろという上司のプレッッシャーに逆らい)あえて記事にはしなかったとか。

こうした、自制力があるうちは、まだまだ科学リテラシーの健全性は捨てたものではないと感じる。PlosOne方式は、もしかすると、20年後のスタンダードになるかもしれない。ちょっと期待したくなる。
一方、反対に役にたたなかったのが、日頃マスコミに出てくる自称「科学者」の人たちだった。彼らが本当に「科学者精神」を保っているならば、このような問題に対しては真っ先に反応し、「科学的な判断」を示してくれれば良かった、というか、そうでなければ「科学者」を語る価値はない。しかし、残念ながら彼らはそういうことには興味が無いらしい。芸術とか、経済のことはやたら話したがるのになあ。

以上、論文の査読のあり方に関して思う事を書いてみた。
まあ、どんなスタイルが一番良いのかは解らないが、マジョリティがちゃんとした判断力を持っていれば、そんなにひどい事にはならないのではないかとちょっと楽観している。もちろん、そのためには、科学者一人一人が正しく社会に向けて発言することで、信頼を得ることも重要だ。みのさん一人に科学の権威を代表していただくのは、そろそろ終わりにしたいのである。

※本記事は『細胞工学』2012年10月号(学研メディカル秀潤社)に掲載した内容を一部改変したものです。

執筆: この記事は近藤滋さんのホームページ『こんどうしげるの生命科学の明日はどっちだ!?』からご寄稿いただきました。

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