『千日の瑠璃』257日目——私は足の裏だ。(丸山健二小説連載)
私は足の裏だ。
運動公園の気持ちのいい芝生を踏んでひた走りに走る、死ぬことを忘れたとしか思えない老人の足の裏だ。私はこれまでに恐水病の犬の尾を踏んだことがあり、大地震で惨害を被った地面を踏んだことがある。また、苦熱と飢餓にばたばたと倒れた戦友たちの背中を踏んだことがあり、銃剣で刺し殺されてまもない民間人の臓物を踏んだことがある。
あるいは、澎湃として湧き起こった権力に屈しない反対論を踏みつけたことがあり、反逆者の汚名を着せられた堂々たる体軀の男の濃い影を踏んだことがある。そうかと思うと、怠業戦術の失敗で共闘の足並みが乱れた組合のビラを踏んだことがあり、陰に陽に力になってくれた友からの真情のこもった手紙を踏みつけたことがあり、処女地に鍬を入れるために北の大地を踏んだことがあり、夜な夜な怪火が飛び交うという噂を確かめようとひと晩中湿地帯を踏んだことがある。
そして私は、痛感する時弊と、少しも変らぬ人々の性根を踏みつづけ、やがて情実に囚われた判断や結論をあっさりと踏みつけることを覚え、廃れゆく風習や、根絶できない悪習や、過ぎ去りし良き日を踏んでさりげなく通り過ぎることができるまでに至ったりだ。
私は今、半世紀前と同じ力強さで地面を蹴り、水食作用の激しいこの惑星を踏み固め、向うから小走りにやってくる、病魔を克服できそうにもない少年世一の憂いを踏んで行く。
(6・14・水)
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