『千日の瑠璃』147日目——私は気配だ。(丸山健二小説連載)
私は気配だ。
真っ昼間、まほろ町を形成する家々の玄関から、胸を張って堂々と押し入る死の気配だ。私は雪を反映した銀灰色の風に煽られながら、採光のわるい部屋に横たわる余命いくばくもない老女を訪れる。固陋が過ぎて新しいものを一切受け入れない彼女の人生は、すでに終っている。それから私は、間仕切りの衝立の向うでまるまると太った子を産み落としたばかりの女の枕元に立ち、事業の失敗が原因であらぬ思いに耽る、不動産屋を襲業してまもない男の肝を冷やし、激臭を放つ農薬の壜を手にしてためらう受験生の背後に迫り、あの戦で立てた武功が仇をなして夜毎苦しむ元軍人を唆す。人間なんてばかばかしくてやっていられないだろうが、と私はかれらに言う。
しかし、結局これといった成果はあがらない。そこで私はいつものように、頼みの綱ともいうべき少年世一のところへ出向く。澄明に過ぎる月の光をかいくぐり、丘の背を伝って、ひと息に駆け登る。雪によってむしろ暖められている一軒家の二階では、世一が皓々と輝く灯りの下で何かの幼虫のようにころがっている。だが、瑣事に頓着しないこの少年のどこにも付け入る隙はない。しかも、世一のオオルリがその玲瓏たるさえずりで以て私の接近を阻んでいる。青い鳥は言う。こんな子を脅して一体どこが面白い、と。ほかをあたってくれ、と。私は余日また訪ねることにして、ひとまずうたかた湖へと引きあげる。
(2・24・金)
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