『千日の瑠璃』133日目——私は箒だ。(丸山健二小説連載)
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私は箒だ。
かなり精力的にまほろ町を回ったにもかかわらず、最後に売れ残ってしまった箒だ。気楽に生きようとする男は、私に言った。「一本だけ担いでうろつくのも何だか照れ臭いな」と言って、結氷したうたかた湖の辺りでひと休みした。彼は、人を騙した疚しさをバネにして、ある種の快感と共に次なる土地へ流れて行くような、そんな男ではなかった。これまで各地を渡り歩いたのに少しも世擦れしていない彼の眼は、岸辺で餌をついばむ白鳥たちをまったく警戒させなかった。
熱い缶コーヒーを飲み干そうと上体をぐっと反らした彼は、真正面の片丘と、その丘のてっぺんにある一軒家に気がついた。ただ気づいただけではなく、そこには何かがある、ほかの家には絶対に無い何かがきっとあると直覚し、行ってみようと思い立った。そして彼は凍てついた坂道を苦労して登り、近くで見ると普通でしかない家の戸口に立った。
彼は呼びかけた。玄関に鍵は掛けられていなかった。しかし生憎留守で、鳥しか返事をしてくれなかった。それでもなぜか彼は、期待以上のいい気分に浸ることができたのだ。彼は私に「お礼におまえをここへ置いてゆくからな」 と言った。願ってもないことだった。彼は雪に足をとられながら丘を下って行った。知らない町しか行かない彼が、ここへふたたび戻ってくることはまずあり得なかった。
夜、家族は皆、不思議そうに私を眺めた。
(2・10・金)
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