“写真家人生”が終わるかもしれない。でも「福島第一」を撮らなかったら死ぬ時にきっと後悔する――写真家・西澤丞の仕事論(3)

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“写真家人生”が終わるかもしれない。でも「福島第一」を撮らなかったら死ぬ時にきっと後悔する――写真家・西澤丞の仕事論(3)

“立入禁止の向こう側”に入り、日本を支えている重要なヒト・モノ・コトを伝えることをライフワークにしている写真家・西澤丞さんの仕事論に迫る連載インタビュー(→)。第3回は昨年上梓し、大きな反響を巻き起こした写真集『福島第一 廃炉の記録』の制作秘話について語っていただいた。

プロフィール

西澤丞(にしざわ・じょう)

1967年愛知県生まれ。愛知教育大学美術科卒業後、自動車メーカーのデザイン室、撮影プロダクション勤務を経て2000年、フリーの写真家として独立。「写真を通じて日本の現場を応援する」というコンセプトのもと、科学や工業に関する写真を撮影し、自身の著作物や雑誌などで発表している。日本における工業写真の第一人者。2018年3月、福島原発を撮影した写真集『福島第一 廃炉の記録』(みすず書房)を出版。現在も福島第一原発に通い、撮影を続けている。

公式Webサイト http://joe-nishizawa.jp/index.html

最初は自分が撮影する気はなかった「福島第一」

──昨年は、東日本大震災で事故を起こした福島第一原子力発電所の廃炉作業の様子を撮影した写真集『福島第一 廃炉の記録』を出版しましたね。この写真集を出版した経緯を教えてください。

2014年7月から現在も、東京電力(以下、東電)の協力のもと福島第一原子力発電所(以下、福島第一)の廃炉作業を撮影していますが、最初は自分が撮影するつもりも写真集として発表するつもり全くなかったんです。

そもそものきっかけは、東日本大震災で原発事故が起きた時に、この現場は絶対に次世代に記録を残しておかなければならないと思ったことです。それで、福島第一の事故が起きた1ヶ月後に、東電の知り合いに「次世代に廃炉作業の記録を残しておくために、記録撮影をしておかなければだめです」とメールで伝えました。実は事故が起きる前、2005年に、自分が使っている電気がどこから来ているのか興味があって、福島第二原子力発電所の撮影をしていたので、広報室に窓口となってくださる方がいたんです。

──なぜ自分が撮ろうと思わなかったんですか?

僕は報道写真を撮っているわけでもなければ、フォトジャーナリストでもないので、自分よりそういった撮影に適した写真家なりカメラマンが撮るんだろうと思っていたからです。でも、いつまで経っても現場の人が撮ったような不鮮明な写真や、遠くから撮ったような写真しか発表されなかった。

だけど、そんな写真しか出てこないと、僕たち一般人は福島第一の中はどうなっているんだろうと、得体の知れない不安や恐怖がどんどん膨らんで疑心暗鬼になってしまいますよね。でも実際の現場がどうなっているのかを正しく伝えることができれば、根拠のない不安や風評被害がゼロにはならないまでも減らすことはできる。だから僕は福島第一の廃炉に関して何らかの意見を伝えることを目的にしたのではなく、現場に行くことができない人々に対して判断材料を提供したいと思ったわけです。

それと、福島第一の事故はどのような形になるにせよ解決しなければなりません。廃炉作業が30年も40年もかかるような工事だと、我々の世代だけで終わらないので、次世代の人に引き継いでもらわなければならない。そのための記録をしっかり渡さなければならないと思った。だから、人々の不安を解消する意味でも、記録を残す意味でも、きちんと現場を撮影しなければならない。でも、誰もやらない。ならば自分がやるしかない。そう思って、僕が撮影する前提で東電に企画書を提出しようと考えたんです。

写真家人生が終わるかもしれない…

──ということはやりたいという気持ちよりもやらなきゃいけないという使命感に突き動かされたんですね。

誰もやらないなら、たまたま解決すべき問題に気がついた自分がやるしかないんだよ。そしてたまたま僕は写真を撮るというスキルをもっている。だったらやるしかないよね。やるべきことがあってスキルがあるのに、やらなかったら死ぬ時に後悔する。どれだけ儲かるかなんて関係ない。もちろん食べていかなきゃいないから最低限の稼ぎは必要だよ。でも、そんなことよりも、死ぬ時にあの時やっときゃよかったなと後悔する方が断然嫌だった。

でも企画書を書く段階からものすごく悩みました。この福島第一の撮影は、うっかり手を出してしまえば写真家人生が終わってしまうかもしれないテーマだと思ったからです。

──写真家人生が終わると思うほどのリスクとは?

原子力発電って特に事故後はいろんなところで賛成派と反対派で激しい議論が繰り広げられて、国会前などで激しいデモも起こったりして、デリケートなテーマになったじゃないですか。そんな時に福島第一の廃炉作業の写真なんかを撮ってたら、原発に賛成なのか反対なのか、何の目的で撮影するのかということを問い詰められるし、最悪、東電の回し者だと非難される危険性もあったからです。今のネット社会、一旦変なレッテルを貼られると、たとえそれがデマでも写真家生命を失うことにもなりかねません。福島第一の廃炉作業を撮るということは火中の栗を拾うようなものでした。それを回避するために、なぜ、何のために福島第一の廃炉作業を撮るのか、誰に聞かれても胸を張って理路整然と答えられるように、ものすごく考えて整理しました。

そしてもう1つ、写真の中立性をいかに確保するかもすごく考えました。それが実現できれば変な批判やクレームは来ないだろうと。

撮影時最もこだわったこと

──でも中立性といっても、自分で撮る以上は必ず主観は入りますよね。

そう、誰が撮影したとしても結局その人の主観は絶対に入るんだよ。だから厳密な中立性というものは存在しない。でも、だからこそ自分が現場で見たり感じたりしたことを素直にそのまま伝えようと思った。これはこの現場に限ったことではなくて、基本的な撮影の方針なんだけどね。

例えば、福島第一の廃炉の現場に関しては、これまで不安を煽るような写真がものすごく多く見受けられた。ここを撮る多くの人がマイナス面ばかりを大きく訴えようとしたから。例えばすごく暗いトーンで撮ったり、わざと粒子が荒れたような写真にしたりね。だからそういう恣意的な加工はやっちゃダメだと決めていた。あとは、現場のよい箇所と悪い箇所、作業が進んでいる箇所も進んでいない箇所も両方、同じように撮らなければならないと決めていました。それは両方の面を見てもらうことで、現場の様子がきちんと伝わるんじゃないかと思ったからです。

──とはいえ普通は写真家生命を失ってしまうかもしれないリスクを負ってまで原発の廃炉の現場なんか行かないですよね。

そこはさっき言った「気づいてしまったからにはやるしかない。やらなかったら死ぬ時に後悔する。それは嫌だ」という思いが勝っちゃったんですよ。

それで事故から2年後の2013年、これまで話したようなことを盛り込んで企画書を作って東電に赴いて、直接担当者に「福島第一の廃炉作業現場を僕に撮らせてください」と話したんです。

──担当者の反応は?

担当者は理解してくれましたが、許可はなかなか降りなかった。結局、許可が降りるまで1年くらいかかりました。この待つ1年間はストレスでしたね。僕、とにかく待つのが嫌いなんですよ。うまくいくかなあとかいろんな不安がよぎるから。そうすると夜眠れなくなっちゃって酒量が増えちゃった(笑)。

撮影許可が下りなかった2つの理由

──1年間も撮影許可が下りなかった理由は?

これは想像ですが、おそらく2つあって、まず1つが、事故現場を第三者に撮らせるのはいかがなものかという点。2つ目が、他にも多くのメディアやカメラマンから現場を撮影させてほしいという要望が来ているのに、なぜ西澤だけに許可を出すのかという点。僕だけに撮らせると他の人を断る時に納得できる理由を説明しなければいけないから。この2点を解決するために、社内で調整してたんじゃないかと思います。

──その2点はどうやって説得したんですか?

その答えは東電がはっきり言ってくれない場合が多いので、これ以降はあくまでも僕の推測です。その前提で答えると、まず「第三者に撮らせるのはどうなのか」という点については、「内部の人間じゃなくて第三者が撮った方が、発表した写真に信頼性を付与できます」と説明しました。「なぜ西澤だけに撮らせるのか」という点に関しては、「この現場を撮影するのに適任なのは、これまで数々の日本の現場を撮ってその意義を伝えてきた僕しかいないでしょう」ということを伝えました。やっぱりこういう時にものを言うのはそれまでの実績、普段の行いなんですよね。「僕の他にこういう現場の写真集を出している写真家がいるの?」ということを胸を張って言える。これは強いですよね。しかも震災のだいぶ前から電力に興味があって福島第二原子力発電所なんかを撮っていたという点でも、事故が起きたから撮りたいという人とはやっぱりかなり違う。しかも東電側も僕の取材を受けたことがあるから僕がどういう人間か知ってるし。

さらに、これも何かの縁なんだけど、実は震災の半年前にも、電力供給というテーマで写真集を作ろうと思って福島第二を撮影しているんですよ。その時にお世話になった所長さんが第一の廃炉作業の責任者になっていたんです。これも多少はいい方に影響したんじゃないかと思います。

▲2005年に福島第二原子力発電所を撮影したことも廃炉撮影許可につながった(撮影:西澤さん 撮影協力:東京電力ホールディングス株式会社)

──それも普段の行いですよね。

こういう話をするとみんな偶然だと言うけれど、僕にしてみれば偶然なんかない。全部必然。自らアクションを起こしたことで実現しているから。

こんな感じで説得したら東電も納得してくれて、企画提出から1年後、東電が僕に全面協力して仕事を発注する形で、撮影許可が下りたわけです。初めて廃炉の現場に足を踏み入れたのは2014年7月のことでした。

──現場に入った時の第一印象は?

意外と片付いているなという印象でした。やっぱり自分の目で見ないと本当のことはわからないと改めて思いましたね。

▲福島第一に最初に現場に入った日に撮影した写真(撮影:西澤さん 写真提供:東京電力ホールディングス株式会社)

最前線で作業する人の目線で撮りたかった

──撮る時はどういう点を大事にしたのですか?

遠くから望遠レンズで構造物だけ撮ったような写真では、傍観者みたいになってしまう。それでは撮る意味がない。僕の写真を見た人がまるで自分が現場に行って目撃しているように感じてもらいたかったから、最前線で作業する人たちの目線で廃炉現場を撮ろうと思っていました。現場の作業員さんたちが頑張っている姿を伝えたいというのも目的の1つにあったので、作業員さんの顔や表情や手の動きなどがわかるくらい近くまで行って撮りたかった。そうして初めて、こんなに頑張ってるんだというのが伝わるんじゃないかなと。

▲西澤さんが廃炉現場で撮影した写真。作業員目線での臨場感が伝わってくる(撮影:西澤さん 写真提供:東京電力ホールディングス株式会社)

だけど、これまでそうじゃない写真しか出てこなかったのには理由があるんです。報道カメラマンは「一時立ち入り」という立場で現場に入っているので、一日に浴びていい放射線量の限界値が作業員のものよりかなり低い。だから近づけないんです。最初は僕も一時立ち入りの人たちと同じ立場で現場に入っていたのですが、さっき話した理由でどうしても作業員さんと同じ立場で撮影したかったので、原子炉の近くに行かせてほしいと東電と交渉しました。そしたら、作業員さんが受けてる安全教育を受けるしかないと。ならばそれを受けさせてくださいとお願いしたら許可が出て、試験を受けて、同じ立場で入れるようになったんです。だからこれまで出てこなかった、誰も撮れなかった廃炉作業現場の写真が撮れるのは、他のカメラマンが僕がしたような交渉をしないからなんですよね。

──なるほど。とはいえ、放射線が強い現場に行くことに危険は感じませんでしたか?

それは事前に安全教育も受けていたし、現場の担当者立ち会いの元、安全管理もきちんとしていたので感じませんでしたね。僕からしたら、雪山に登ったり、ライオンを追いかけたりという写真家の方がよっぽど危ないと思うけどね(笑)。

それよりも心配していたのは、はたしてきちんとした写真が撮れるのかどうかということ。まともな写真が出てきていないということは、撮影に関してもそれなりの理由があるってことだから。その予想は見事に的中。最初の頃は1カ月に1度、構内に入っていたんですが、撮影は困難を極めました。

まともに撮影ができない…

──具体的には?

当時は、防護服を着て、顔全体を覆うマスクを付けていたのですが、眼とカメラのファインダーの距離がかなり離れてしまって、一部しか覗けなくなってしまうんです。それと、手もまず木綿の手袋をしてさらにゴムの手袋を2枚重ねてはめなきゃいけない。その上カメラもビニールで包まなきゃいけないのでつるつる滑ってしまう。特にダイヤルがすごく回しにくいんだよ。僕はきちんとした写真を撮りにきているのに、こんな状況でまともな撮影ができるのかがすごく不安でした。

▲廃炉の現場では、自らも顔全体を覆うマスクをした上に、機材もビニールで包まなければならないという、過酷な条件下での撮影を強いられた(撮影:西澤さん)

──その問題はどうやって克服したんですか? 慣れるもんなんですか?

やっぱり最初はまともに撮れなかったよ。三脚を立てる時はまだいいんだけど、手持ちで人物を撮る時は、構図を決めてからカメラを構えた状態で顔をずらしていちいち四隅を確認しなきゃいけない。だから変なものが写ったこともたくさんありました。でも回数を重ねるごとに少しずつコツをつかんで何とか撮れるようになったって感じかな。

作業員に怒鳴られたことも

──ほかに現場で苦労したことは?

あとは、作業員さんを撮る時、「撮影させてください」とひと言声をかけるのですが、それでも撮影初期の頃はカメラを向けると「なに撮ってんだ!」と怒られたこともありました。その理由は、多分、それまでの取材した人が現場のマイナスイメージを強調していたから、今回もカメラをもった悪いやつが来たと警戒されていたんじゃないかな。でも何度も通って撮影するうちにだんだんと打ち解けて、1年が経つ頃には笑顔でめちゃめちゃ協力してくれるようになりました。

▲撮影開始当初はカメラを向けると怒っていた作業員も1年経つ頃には協力的に(撮影:西澤さん 写真提供:東京電力ホールディングス株式会社)

──それはなぜですか?

ある時、東電の広報の人が僕の撮った写真でポスターを作って、現場にいっぱい貼ってくれたの。そしたらそれ以降、作業員さんたちの態度が徐々に変わっていった。僕が変な色眼鏡ではなく、ありのままの作業風景を撮っていること、そして彼らの頑張りを伝えたいという思いをわかってくれたんだろうね。

──作業員さんと直接話すこともしたんですか?

いや、それはしなかった。ただ写真を見てわかってくれたんだと思う。でも現場を案内してくれる担当者の人には趣旨や目的をこんこんと説明するわけ。それが伝わると協力してくれるようになる。その積み重ねしかない。今でもどこに行っても2時間くらいは平気で説明しています(笑)。実際の撮影では、撮影させてくださいと一声かけた後、いつもどおり作業してもらうようにしました。最初はカメラを意識して固くなるけど、だんだん作業に集中するので、そうなってから撮るようにしています。そうすると自然ないい写真が撮れるんだよ。

それと、原子力発電所は核物質を扱っているので、テロリストを防ぐための設備がある。当然ながらそういうものは絶対撮っちゃダメなんだけど、たくさんあるので写り込まないように不自然なアングルで撮るしかなかった。撮っちゃいけないものを回避して写真として成立させるかが一番難しかった。

──撮影で印象に残っていることは?

原子炉建屋のすぐ近くにある、タービンがある建屋の屋上で撮影できたことかな。放射線が強くて20分くらいしかいられなかったんだけど、現場の人がここまで行かせてくれたということで、僕の意図をきちんと理解してくれているなと感じてすごくうれしかったよね。そのおかげで僕にしか撮れないカットが撮れたしね。

──意図が伝わってるのと、東電の現場の人との信頼関係がちゃんとできてるってことでもありますよね。

そうだね。そういう意味でもうれしいよね。

──最初は写真集として発表するつもりもなかったということでしたが、写真集になった経緯は?

まず、撮っていくうちに、実際の現場の状況と人々がもつイメージとのずれが徐々に大きくなっていることや、事故が風化しつつあることを感じるようになったこと。ちょうどそんな時に、知り合いの編集者から「西澤さん、この廃炉の写真、本にして出さないの? 出すつもりがあるんなら出版企画書作って会社の会議に出していい?」と言われたんです。もちろん僕としては本になるならより多くの人に伝えられるから、「ぜひお願いします」と快諾。事故から7年経つ機会に写真集として世に出そうと決めたわけです。

写真を巡る東電との攻防

──写真集としてまとめる上で苦労した点は?

一番苦労したのは、先ほど話した中立性を重んじるという点です。例えば作業員さんが「汚染」と書かれたヘルメットをかぶって作業している写真。東電から、この汚染の文字を修正で消すか、写真自体を削除してほしいと言われました。「でもそんなことをしてしまうと記録撮影の価値自体がなくなってしまうのでそれはやらない方がいい」と説明して納得してもらいました。また、2号機の屋上から3号機を見下ろして撮影した写真もいい顔はされませんでした。片付いていない現場が写っていたからです。「でも片付いていない状況の写真を今撮っていなければ、将来片付いた時との差がわからなくなってしまいます」と説明して、わかってもらいました。

▲東電側が難色を示した「汚染」と書かれたヘルメットの写真も、西澤さんの説得で最終的には掲載に至った(撮影:西澤さん 写真提供:東京電力ホールディングス株式会社)

そういうのがたくさんあったんですが、一番説得に苦労したのが表紙の写真。「汚い感じに写ってるからもっと片付いているきれいな場所の写真を表紙に使ってほしい」と言うので、「表紙は本の顔で、売れ行きを左右する一番重要なところ。きれいな状況の写真を見たってどこだかわからないし、売り場で目にした人に手にとってもらえない。そうなったら正しい説明の機会がもらえないわけだから、まず興味をもって手に取ってもらうことが先決。説明は本の中できちんとするのでこの写真を使わせてください」と説得し、OKをもらいました。

──撮影の段階でNGが出て、さらに編集の段階でもNGが出たとは…ものすごく大変だったんですね。

やっぱり特に現場の人はきれいな場所の写真しか出したくないと思うんだよね。その気持はわかるんだけど、その都度「今の現場のありのままの状況をきちんと撮影して出さないと、世間の人はまっとうな記録写真集だって思ってくれませんよ」といろんな人にこんこんと説明したんです。本を編集する時も、きれいな場所も雑然としている場所も両方載せるという方針を貫いたわけです。

▲破壊されたまま、まだ片付いていない場所も掲載することにこだわった(撮影:西澤さん 写真提供:東京電力ホールディングス株式会社)

写真家こそ言葉で説明すべき

──相手を納得させるためにはどういうことが必要なんですか?

僕と直接やり取りする窓口の広報の人がNGって言ってるのは、必ずしも本人がそう思ってるわけではなくて、その上司の意思というケースが往々にしてある。だから、その窓口の人が上司に僕の意図を正しく説明しやすいようにする必要がある。「何となくかっこいいからこの写真にします」じゃ絶対ダメ、通らない。だから窓口の人に「なぜこの写真が最適なのか。なぜこの写真じゃなきゃダメなのか」を文章で筋道を立てて論理的に説明しました。それで最終的にOKが出たんだと思います。

写真家の中には、「伝えたいことを言葉にできないから写真を撮ってるんだよ」って言う人もいるけれど、そうじゃないんだよね。自分が言葉にできないことは読者に伝わらないんだよ。自分が言葉にできるから映像化できて、映像化したもので読者は理解できるわけだから。まず撮ってる本人が何を伝えたいのかをきちんと把握できない限りは、ぼやけたものがさらにぼやけるだけだから絶対に人には伝わらない。

それは写真というよりデザイン的な思考なんだよね。なぜこれを撮るのか、なぜこの写真が必要なのかっていうデザイン的な思考ができているから説明ができる。今はカメラやレンズの性能がすごくよくなってるから、撮ること自体は誰でも撮れるんだよ。だけど、シャッターボタンを押すまでの過程にデザイン的な思考がないとダメってことなんだよ。

──それは一般的な会社で自分のやりたい企画を通したいときも同じですよね。

そうなんですよ。逆に言えば、なんで言葉で伝えられないかというと自分の中でやりたいことがボケてるから、自分自身がきちんと理解できていないから他人に正しく伝えられない。だから納得させられない。つまり事前によく考えて自分の中で実現したいことをクリアにしておくことが重要なんだよ。

──ちなみに東電に説明したけど最終的にOKが出なかった写真もあったんですか?

それはない。全部説得してOKをもらいました。

──すごいですね。説得上手!

でもね、こんな感じで喋ってると簡単に説得できたように思うかもしれないけど、この作業はものすごくしんどかったんだよ!(笑)相手は組織なんで、こっちからは内部事情が全く見えない。誰が何を思ってNGって言っているのか。見えないものを相手にするのって怖いんですよ。特に、どの写真をどこに入れて写真集を構成するかという編集の時なんかはものすごいストレスでお腹は下すし夜眠れなくなるしで大変だった。だから毎晩酒を飲む量も増えちゃった。飲まないと不安で眠れないから。

──構成でそんなにストレスが大きかったのはなぜなんですか?

この写真集は廃炉の過程を記録した本だから、3年分の写真を時系列で組むのがベストだと思った。でも、撮影日順に並べて、かつ、本の構成としてスムーズに流れるようにするのは、とても大変なんです。だからこっちは薄氷を踏むようなギリギリのところで構成して、その結果、奇跡的にこれしかありえないという完璧な構成ができた。そのかわり、1枚でも写真が抜けると全体が成立しなくなるんだよ。

そこへ、東電がこの写真はダメだって言ってくる。ダメって言われたのを、ハイそうですかと受けていたら本として成立しなくなっちゃう。だからどうやって説得するかを考える。これがものすごいストレスだった。ダメって言う人間をOKにひっくり返すのってものすごいエネルギーが必要なんですよ。だから先方の最終的な返事を待ってる間、「どうかな、わかってくれるかな」と考えると夜眠れなくなっちゃって酒量が増えちゃったの!(笑)

──説得は簡単なように見えて実はものすごく大変だったんですね。

確かに当時はすごくつらかったけど、誰かを説得しなきゃいけない場面ってよくあることだから、それも勉強だよね。それに、クリアできたらトークショーとか講演の時に話せるネタになるからいいんだよね。だからつらい渦中も、これは後でおいしいネタになるからむしろいいことなんだと思うようにしてる。ドMかよって自分でも思うけどね(笑)。

──写真集を拝見しましたが、写真の説明文もかなり充実していますよね。全部西澤さんが取材して書いているんですよね。

もちろんです。説明文を書くのも大変でした。特に今回は場所が場所だけにデリケートだったので苦労しました。書くにあたっては、正確性を重んじました。現場に行った者にしかわからないこと、現場で感じたことなども書き込みました。読者に、僕が見た現場の生の風景を正しく伝えたいと考えていたので。

例えば、僕が最初に現場に入った2014年頃は、昼食はサンドイッチとジュースが配られるだけでした。それがだんだん弁当になり、2016年くらいからは食堂で温かいごはんが食べられるようになった。僕も撮影者とはいえ、現場に入っている以上、作業員さんと同じ扱いなので、寒い日なんかはこれが本当にありがたかった。このようなことは写真だけでは伝わらないから文章にして伝えるように努力したわけです。

こんな感じで紆余曲折がありつつも、撮影の企画書を提出してから4年後の2018年3月、『福島第一 廃炉の記録』が完成したわけです。2014年7月から2017年9月までに廃炉の現場に入った回数は計28回。撮影枚数は約1万2000枚。そのうち写真集に使ったのは約150枚でした。

▲様々な困難を乗り越え、2018年3月に出版された『福島第一 廃炉の記録』(みすず書房)

ついに完成、大きな反響

──とにかく密度が濃い写真集ですよね。写真だけを見る、解説文を読む、両方で全体の流れを理解する、というふうにいろんな楽しみ方ができました。

僕の写真集は解説があるので楽しいってよく言われます。写真を見た人が、あたかも現場に行ったかのような印象を持ってほしいと願いながら作りました。

──ページをめくりながら本当にそう思いました。

だったら正しく僕の意図が伝わっているということなのでうれしいですね(笑)。

──出版後の反響は?

おかげさまで読者からのはがきや、FacebookなどのSNSなどで感想をたくさんいただいています。特に印象に残っているのが、講演の時に聞きに来てくれた福島出身の人から「初めて中の様子がわかって安心した」とか「この写真集を他の人にも見せたい」と言われたこと。すごくうれしくて、苦労してこの写真集を作ってよかったと思いましたね。

──最初に危惧していた、変なクレームや批判、誹謗中傷も来ていないのですか?

それは担当編集者も心配していたんだけど、幸いにして今のところは来ていません。それはやっぱり中立性にこだわって、撮影時も編集時も極力ありのままの現場を伝えようとしたからじゃないかな。

──現在も廃炉作業の現場には通っているのですか?

はい。今も2カ月に1度くらいのペースで廃炉の現場に入ってます。廃炉にかかるとされる期間は30年から40年。僕の意思だけではどうにもならないけど、東電が撮っていいよと言ってくれている限り、そして僕の体が動く限りはライフワークとして撮り続けたいと思っています。

 

次回は仕事の喜び、やりがい、写真家としての矜持などを語っていただきます。こう、ご期待。 取材・文:山下久猛 撮影:守谷美峰

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