「これまでのキャリアを活かす仕事が見当たらない…」38歳で東京を離れた私の“ゼロからの働き方”とは?
多くの企業、人、情報が集まる東京。便利だけど、せわしなく、「いつかは東京を離れて暮らしたい。でも東京を離れたら仕事はどうしたら…」。そんなことを頭の片隅で考え続けている人もいるでしょう。
今回は、38歳で東京暮らしを手放して新潟県十日町市でゼロから仕事を作り上げていった髙木千歩さんに、移住先でどのように仕事を始めたのか、そのプロセスについてお話を聞いてきました。妻有(つまり)ビール株式会社 髙木千歩(たかぎ・ちほ)さん
新潟県十日町市生まれ。都内で暮らしていた2011年の東日本大震災で帰宅難民となり、都市の脆弱さを痛感したことをきっかけに両親の祖父母宅がある十日町市への移住を決意。同年10月に「地域おこし協力隊」に委嘱され「孫ターン」。2014年以降、クラフトビールを提供するレストランALE beer & pizza(エール・ビア・アンド・ピッツァ)を仲間4人と立ち上げ、その後十日町市では初めてのブリュワリー、「妻有(つまり)ビール株式会社」を設立。
東京のキャリアウーマン、新潟県十日町市へ
―十日町市に移られるまでは東京でお仕事をされていたのですね。
はい。ITシステムとコールセンターサービスを提供する企業で一番長く勤務していました。この会社ではプロジェクト立ち上げや管理、スタッフ採用からトレーニングまでやるマネージャーとして働き、仕事は充実していました。当時、東京を離れることは考えてもいませんでした。
―転機があったんですね。
ええ。2011年の東日本大震災です。オフィスにいるときに震災が起きて余震が続き、帰宅をあきらめていましたが、夜中に電車が動いたのでなんとかマンションまで帰れました。私の住むエリアでは停電も断水もなかったのに、スーパーではトイレットペーパーやレトルト食品、ペットボトルの水が売り切れていて、愕然としました。
「ライフラインが停止したら、いったいどうなってしまうんだろう。こうなってしまうとお金は役に立たないんじゃないか…」この時、都市の生活基盤の脆弱さに強い危機感を覚えました。
もっとショッキングだったのは、その翌日に起こった長野北部地震でした。両親の祖父母や親戚がいる新潟県十日町市が被災地になったからです。
私の父は転勤族で、私は小さいころから各地を転々としていていましたが、両親の故郷である十日町市が唯一帰る場所と思えるところでした。子どもの頃は、夏休みには田んぼや畑で農作業をし、冬休みはかまくらや雪合戦。社会人になってからも、春は山菜採り、夏は十日町おおまつり、冬はスノーボードと、時間を作って遊びに行っていたほど。
そんな大好きな場所が被災地になっているというのに、ニュースでは十日町市の様子はほぼ報道されませんでした。祖父母と電話もつながらない。電車も止まっていて行くこともできない。状況がわからないまま何もできませんでした。
この時、祖父母のことを考えながら思い出したのは、東日本大震災の7年前に起きた新潟県中越地震のことでした。当時も十日町市が被災し電話もつながらず、私たち家族は祖父母や親戚を心配してシクシク泣いていました。ようやく電話が通じたときの叔父の第一声は
「じいちゃんが張り切って、仕切っているよ!」だったんです。
話を聞くと、祖父母や叔父たちは山のわき水や豊富に備蓄していた野菜や米、まきを使って料理を作り、地域の人たちと助け合っていたそう。その時、私は「なんて生きていく力が強い人たちなんだ!」と感じたんです。
震災で都心の混乱が続く中、その時の記憶がよみがえり、今回もきっとみんなは大丈夫だろうと思いながらも、何もできない自分にもどかしさを感じました。
―十日町市で暮らす祖父母や親戚のたくましさと、東京の脆弱さを痛感されたんですね。
震災を体験して、「自分が死ぬ前に、大好きな十日町市で何か貢献できないだろうか」という思いが強くなりました。その時、私は38歳。会社ではマネージャー。仕事自体は楽しくて面白かったけれど、十日町市で勤めるのもありかな、とそんな気持ちでいました。でもいざ仕事を探してみると、今までのキャリアをそのまま活かせる会社は見当たりませんでした。
まずは退職することから始まった
―そこから、どのように仕事を見つけたのですか?
この年齢で未経験の仕事の採用は難しいだろうと。どうしようかと思って、十日町市のホームページを見ていたら「地域おこし協力隊」を募集していることを知り「これだ!」と思いました。協力隊を足掛かりにすれば、何か開けそうな気がしたんです。
ところが、報酬の額を見て、ええーっと驚きました。今の会社の半分以下だっだんです。
「これで生活できるの?大丈夫なの?」と、一瞬ひるみました。でも、私にとっては収入を確保できて移住できることの方が大事だったので「この金額で募集をかけているということは、きっと十日町市で生活が送れる金額ということだろう」と前向きにとらえて応募を決意しました。
そして募集の詳細を確認すると、当時は選考結果から着任まで一カ月という短いスケジュールでした。委嘱された場合、どう考えても会社の引き継ぎは一カ月では間に合わない。ここでもすごく迷いましたが、思い切って先に会社に辞表を出すことにしました。
―先に辞表を出したのですか?「地域おこし協力隊」に委嘱されないリスクもありましたよね。
ありました。けど、会社に迷惑をかけたくなかったので、仕事の引き継ぎをしながら「地域おこし協力隊」の応募手続きを同時並行で進めるしかなかったのです。委嘱までのスケジュールを見たときに、とにかく来よう、「地域おこし協力隊」がダメな場合は何かしら十日町市で仕事を探そう、と覚悟を決めました。なので、「地域おこし協力隊」の選考面接の時には「もう会社辞めました。もし協力隊に入れないと暮らしていけません!」と、退職を猛アピールしましたよ(苦笑)。今考えると、なんと無茶なことをやったんだろうと思いますけど、とにかく必死で。何とか滑り込ませてもらって、2011年10月1日に活動を開始しました。
農産物を販売し、年間100万円を売り上げる
―「地域おこし協力隊」の活動はどのようなことから始められましたか。
「地域おこし協力隊」は契約上、最長3年までと期間が決まっています。3年後にはどこかに就職するか、自分で何か事業をおこすか、東京に戻るか、そのどれかの決断することになります。私は十日町市に暮らす覚悟で来たので、就職か起業かの二択。それを3年間で決断できるように、地域おこしの活動を通じて何かを見つけないと、と思っていました。
前職で通信販売の仕事に関わっていたので流通や物販などの仕事を視野に入れて、まず地域の産品、地域の魅力を調べ始めました。自家消費用の大きな畑を持っている人も多く、自分で食べて、隣人にあげて、余ったら畑に捨ててしまうのを見て、もったいないなと思っていました。
そこに、同い年の農家の男性が「この地域ではみんなで一丸となって何かに取り組んだことがないので、そういうことをやりたい。地域の野菜の直売所をやるとかどうだろう?」と話してくれました。
そこで彼を代表に、地域おこし協力隊の先輩も加わって、3人で地域組織を立ち上げて地元の農作物の販売を始めました。2012年のことです。
―早速、地域での事業開始ですね。
その2012年は十日町市では3年に1度の「大地の芸術祭」開催年で、観光客が大勢来る絶好のタイミング。専業農家、兼業農家から自家用で栽培する人まで20名ほどの地域の方に参加していただいて、春の山菜から秋野菜が終わるまで、野菜、山菜、加工のお菓子、地元の漬物などを直売所で売りました。山菜に詳しい山の名人や、加工食品工場など、調べれば人材、施設、ノウハウなど、地元のリソースがたくさんあるんです。
おいしい野菜や山菜などは、東京のマルシェでも販売を開始しました。都会の人にとっては珍しいものばかりで「もっと欲しい」というリクエストが続きました。地元のおじいちゃんに「次はもっとたくさん採ってきてね」と頼むと、みんな張り切って山菜採り、野菜作りに精を出してくれたのです。
販売する品数も徐々に増えてくると、今度は直売所で売れ残るようになってしまいました。どうにかしなくてはと思い、野菜を車に積んで十日町市内の飲食店を回って販売する活動を始めました。地域組織で作る野菜は少量多品種で、大規模農家や農協との競合もなく、特定の野菜や山菜を使う飲食店や、デイケアセンターの給食室に喜ばれました。観光で来るお客さんだけではなく、十日町市の店や施設の方々も喜んで、地元も活気付く。この地産地消の循環は、地域活性化にとても大切で、また新たな事業としてうまくいくのではないかと思っていました。
―わずか1年弱で、手応えを感じたのですね。
ただ、年間の売上をまとめてみると、売上総額は100万円。事業として考えると1年で100万円では厳しい。せめて一桁多く1000万円にしないと。しかし「地域おこし協力隊」の期限である3年後までに売上を10倍に伸ばすのはムリがある、そう思いました。
生産者20人で100万円なら1人数万円換算、しかも1年で。決していい数字ではありません。地域組織の皆さんはどう感じるだろうと不安を感じながら開催した報告会で「売上は100万円でした」と説明したら、「みんなでやったら100万円稼げた。よし、来年もやろう、頑張ろう!」と、おじいちゃん、おばあちゃんたちが盛り上がっていました。その姿をみて、「金額の大小ではなく、目に見えた結果があると、次につながっていくんだな」と思うと同時に、「これは地域活性化のためにもやめてはいけない。続けなくては」という気持ちになりました。
次のシーズンは、取引する飲食店、施設が10か所ほどに増え、「あの山菜をお願いします」「この野菜はないの」と注文があり、それを受けて採りに行ってもらったり、新たに栽培してもらったりと対応していきました。さっきまで畑に植わっていた採れたて野菜を提供するわけですから、とにかく新鮮でおいしい。店からの評判も上々でした。
ある日、山菜取り名人のおじいちゃんに売上金を渡して別れた後、携帯におじいちゃんから着信がありました。金額が少ないって怒られるかな、という考えがよぎりながら電話に出てみると「たくさん入っていて、本当にありがとうね。このお金でばあちゃんと何かおいしいものを食べに行くからねー」って。お礼の電話だったんです。作る人も売る人も、買う人も喜んでくれて、地産地消につながっているという手ごたえとやりがいは年々強くなりました。
協力隊として最後の年となる2013年、いよいよ決断の時が迫ってきました。
後編へ続く(→) インタビュー・文:野原 晄 撮影: studio HATOYA
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