「20代の若造が責任者で大丈夫か」そう思われないため必死で信頼を築き上げ、そして気づいたこと
2013年、立川市に旧市庁舎を活用したまんが施設「立川まんがぱーく」がオープンしました。この施設が生まれたきっかけは市による「立川市旧庁舎施設等活用事業」の公募です。数社が競ったのち、採用されたのは合人社計画研究所グループが提案した「まんが」を軸にした公共サービス。プロジェクトが始まると責任者である福士真人さんが立川市を訪れ、地域の人々や行政との窓口として業務を請け負うようになりました。
現在、施設は6年目を迎えて順調に来館者数を伸ばし、さまざまなイベントを行って地域から親しまれています。福士さんが就任したのは29歳のころ、周りの行政側責任者や市議会議員、協力会社や地域の代表の皆さんは年上ばかり。若い立場でどのように仕事を進め、信頼を得てきたのでしょうか。福士真人(ふくし・まさと)
「立川市旧庁舎施設等活用事業」の公募で選定された企業・株式会社合人社計画研究所に所属。大学時代は建築学科で都市計画を学び、2010年に同社に入社。広島本社で官民が連携した施設管理経験を経て、29歳から「立川まんがぱーく」館長を務める。複合施設「立川市子ども未来センター」「立川市市民会館」の指定管理者統括マネージャーも兼務している。
施設運営の経験を買われ、29歳で館長に
—2013年から「立川まんがぱーく」館長を務められていますが、以前はどんな仕事をされていたのですか。
大学時代は建築学科で都市計画を専攻していました。私が所属する株式会社合人社計画研究所は20年以上前から全国の官民連携の事業、いわゆるPPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)事業やPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)事業に取り組んでいたので、私もその仕事をしたいと思って入社しました。
広島に本社がある企業で、PPP事業の提案部隊は本社にあります。研修もそこからスタートしてさまざまな施設の管理運営を経験しました。たとえば広島では水族館の管理運営担当として地元の担当者や他の協力会社との調整を行ったり、島根では刑務所の総務を体験したり。行政側に提案するのも仕事ですが、日々運営するためには他社を含めたいろんなプレーヤーと協力しなければいけません。複雑な関係や構造があると知ったのが本社にいた頃で、その後立川市への提案作りにも携わりました。
—館長を任されたのは29歳のときだとお聞きしました。
結婚を機に東京へ転勤したあと、半年ほど経って立川の事業の責任者として赴任するよう会社から辞令がありました。立川の公募提案にも関わり、施設運営の経験があり、立川に近いところに住んでいる。そこで私が指名されたようです。
当時弊社が請け負ったのは「立川市子ども未来センター」と「立川市市民会館」の管理運営でした。「立川まんがぱーく」は「立川市子ども未来センター」の施設内にあり、管理運営業務の一環という位置づけです。施設運営は一社だけでできるものではないので、数社が協力しています。弊社はその管理運営の代表企業になったので、当初から「立川まんがぱーく」館長と指定管理者統括マネージャーを務め、今も両業務を兼ねています。
—いろんな方との調整が必要になると思いますが、皆さん年上ではないですか。
そうですね。行政の方、地元の代表の方、協力会社の方、みんな私より年上です。でもこの事業でいえば私は民間事業者側のトップという立場です。皆さん口には出しませんでしたが「市外からポッと来た20代の若造がどうするんだろう」と思われて当然の状況だったと思います。「まんが」を軸にした施設は賛否両論あり、快く思わない方もいらっしゃいます。やはり地域の皆さんにとっては大切な場所なので、どうなるのかという心配はあったと思います。この中で「きちんとできます」と伝えなければいけないプレッシャーは1年目からあり、就任した当初は本当に必死でした。
声をかけられたら積極的に参加する、それが基本
—どんな工夫で乗り越えられたのですか。
まず一つ一つの結果を出す、というのが最低条件だと考えました。どの方にも「こうしてほしい」「こうなってほしい」という要望があります。もちろん全部に応えることはできないのですが、できるものに関しては知恵を絞って会社とも調整しながら実現していきました。
この行動を続けていれば「こう言えば福士さんは動いてくれる」、希望を叶えられなかったとしても「ここまではやる人なのか」と認めてくださる人が増えていく。そうすると味方になってくださる方も徐々に増えるんです。最初は反対だったとしても今は応援していただける。人間関係がスムーズになると、仕事もやりやすくなりました。
—いろんな寄り合いに呼ばれることも増えたのですか。
そうですね。「今回こういう会議があるんだけれど出てみないか」「話だけ聞いてみないか」と誘われたら基本的に参加するようにしています。そのときは仕事につながらなかったとしても、その場で、自分が何者で何をしようとしているのかを話をする。すると、その日の人脈が次につながることがある。話を聞いた方が別の場所で「福士はこんなことをしたいらしい」と誰かに話してくださり、そのおかげで連絡が来るときもあります。
人とつながりながら仕掛けていくと規模としても大きくなり、結局うまくいく。その法則が最初の数年間でよくわかりました。自分一人で頑張ってやるより、地域の方々やスキルを持った方々と一緒にやっていくことに重きをおいたほうがいい。市民の皆さんと作り上げた結果であれば行政も安心します。立川にいるからには、目の前の方々と良い関係を作るために積極的に関わっていこうと考えました。気軽に呼ばれるようになるのが一番です。
—昔は全部一人でやってしまうタイプだったのでしょうか。
そうですね、学生時代は一人で抱えるタイプだったかと思いますが、あまり真面目な学生ではなかったんですよね。余談ですが、私がこの仕事をしていることを大学時代の恩師が知って声をかけてくださったんです。大学で建物のコンバージョンやリノベーションを研究しているんですが「私は建物ができるまでは知っているけれど、建ててからどうなったかは知らない」と。だから「1コマ渡すから福士が講義をしてくれ」というんです。引き受けて、6つか7つ下の後輩たちに2時間半の授業をしたあと、先生から「学生時代からは想像がつかん姿だな」と言われました。働いていく中で変わった部分は大きいのかなと思います。
今重視しているのは「成長し続けていけるか」
—必死なところから抜け出て、楽しさを感じられるようになったのはいつ頃ですか。
1年が過ぎて、地域の方とどんどん仲良くなり、仕事もうまくいき始めて、というのを実感した頃でしょうか。学生時代に勉強していたときは「街」といっても抽象的な対象でした。でも現地に行けば街に住んでいる市民の方、商店街の方、その街を真剣に考えている行政の方がいる。そんな皆さんの期待に応えられたらやっぱりやりがいを感じます。
会社としても現場で得たノウハウや実績は新しい情報なので、そういった面でも貢献できていると思えるようになりました。
—ご自身のキャリアでこれから伸ばしたいところ、足りないと感じているところはありますか。
最も重視しているのは「成長し続けられるか」という点です。慣れたからといって同じことをやっていては成長できないので、いかに自分を新しいことに挑戦させられるかが課題です。
「立川まんがぱーく」は今の私にとって根っこです。この中で行政の施設として見たことのないような仕掛けをしたり、市民の皆さんに喜ばれるものを生み出したり、そのチャレンジはずっと続けていきたいと思っています。
立川まんがぱーく インタビュー・文:丘村 奈央子 撮影:菊池 陽一郎
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