認知症の父と家族の十年間〜中島京子『長いお別れ』

認知症の父と家族の十年間〜中島京子『長いお別れ』

 昔なら「ボケ老人」と呼ばれていた人々を取り巻く状況は、近年大きく変わった。その症状には「認知症」という名称が与えられ、介護保険制度はかなり整備されてきている。何より、認知症とはどういうものなのか広く知られるようになったことの意味は大きい。昔は”近所に嫁の悪口を言いふらす””お金を盗まれたと騒ぎ立てる”といった妄言によって、身内が奇異の目で見られることが今よりはるかに多かったのではないだろうか。とはいえ、介護者の苦労がすべてなくなったわけではない。ネットなどでは、介護や認知症といったものについてのポジティブな言葉を数多く見つけることができる。「明るい介護」「認知症の親と穏やかにつきあう」などなど。介護する側の努力とさまざまな要因がうまく作用したケースももちろんあるだろう。しかし、介護者がどんなに被介護者に愛情を持っていても、地獄を見ることはいくらでもある。

 かつて区立中学の校長や公立図書館の館長を務めた東昇平。妻・曜子とふたり暮らしで、3人の娘は独立し、孫もいる。特筆するようなことは何もない家族だ、昇平が認知症を患っていることを除けば。本書は、昇平の症状が進んでいった10年間の日々を追った連作短編集である。個人的に印象深かったのは、真面目さの中からなんともいえないおかしみが生まれている「入れ歯をめぐる冒険」。曜子は入れ歯をしょっちゅうなくす昇平に困り果てている。イギリスのテレビドラマ「SHERLOCK」にハマっている孫の将太(同志よ!)による謎解きがナイス。最後に明かされる大ネタには思わず吹き出した。

 ドキュメンタリーではないので、介護の方法がそれほど詳細に書かれるわけではない。細やかに描写されるのは、登場人物の心情だ。認知症の人が果たしてどこまで自分および自分を取り巻く状況を把握しているかは、周囲の人間からは非常にわかりにくい。同じ質問をしても、相手が違えば答えが大きく異なることもある。また、昨日は全然答えられなかった質問に、今日は健常者とまったく変わらないような明瞭さで答えられることもある。昇平は己の言い分や何らかの法則に則って行動していることが示唆されるが、問題はそれが周囲に伝わらないことなのだ。それでも、妻や3人の娘さらには孫たちはそんな昇平に、時に業を煮やしながらも実に思いやり深く接している。これが家族という集合体の持つ力なのかとしみじみとした感動が押し寄せる。特に胸を打たれるのが、曜子の夫に対する感情だ。身を焦がすような恋愛感情とも違うし、かといって義務感だけで夫の面倒をみているわけでもない、まさに長年連れ添った夫婦だけがたどり着ける境地(夫と私もこんな老夫婦になれるだろうか?)。

 しかし、現在まさに介護で苦労されている人にはそんな感想を持つ余裕すらないかもしれない。実際去年までの私だったら、もっと否定的にこの本を読んでいたと思う、「こんなきれいごとではすまないのだ」と。私の母は今年の元日に亡くなったが、この5〜6年ほどは認知症患者でもあり、昇平のように徐々に症状は進行していた。私が最もショックだったのは、家族の名前がわからなくなったことやおむつをするようになったこと以上に、母が他人を悪し様に言うようになったことだ。社交的で誰とでもすぐなかよくなれる母を、人見知りの激しかった私はいつもうらやましく思っていた。昔とは人が変わってしまった母に対し、幻聴などのせいもあるとわかっていても、きつい口調で注意したことは一度や二度ではない。実家で同居していた弟に母の世話の大部分を頼っていたような私でさえそうなのだから、もっと重い症状のご家族を休みなしに介護されている方々の疲弊はどれほどのものであろうか。

 それでも今にして思えば、確かに救いもあった。初対面のヘルパーさんにも明るく接する様子や、入院中の病室で急に真顔になり「私はだいじょうぶだから、早く帰って子どもたちのそばにいてあげなさい」という言葉や、無邪気な笑顔など。「長いお別れ」とは、英語で認知症を指す言葉なのだそうだ。現在決定的な治療法が確立されていないこの症状は、行きつ戻りつしているように見えて、しかし快方に向かうことはまずない。少しずつ記憶をなくして、ゆっくりゆっくり遠ざかっていく家族。苦労の連続となる日々の中に、それでもきっと存在する家族としての心の通い合いが、少しでも介護者のみなさんの支えになればと切に願う。

 著者の中島氏は、田山花袋の『蒲団』を下敷きにした『FUTON』(講談社文庫)がデビュー作(野間文芸新人賞候補)。「この現代によくぞ思い出してくれた!」と田山花袋も草葉の陰で感涙にむせんだことだろう。『ちいさいおうち』(文春文庫)などもそうだが、中島さんは”ちょっと昔”風のテイストが得意分野と思われる。昇平もあまり融通の利かなさそうな昔ながらのインテリという感じだし(難読漢字に強いところなど、まさに知識人)。

(松井ゆかり)

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