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横浜初の女子校! 横浜出身の大女優「原節子」を輩出した「横浜高等女学校」 について教えて!

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横浜のココがキニナル!

私立横浜高等女学校は中区の元町にあり、その校舎には女優の原節子が通っていたって本当でしょうか?また山月記を書いた中島敦が教師としていたそうです。詳細知りたいです。(Yokoyokoさんのキニナル)

はまれぽ調査結果
原節子は横浜高女の生徒だったが、中退しているので資料がない。教師だった中島敦は生徒たちの人気者だった。

横浜高等女学校とは

投稿にある私立横浜高等女学校とは、現在横浜市磯子区にある私立横浜学園高等学校の旧名である。かつては女学校だったが、2000(平成12)年より男女共学になった。


横浜学園

誕生は1899(明治32)年。実業家の田沼太右衛門(たぬま・たえもん)が創立した。


田沼太右衛門(『ゆかりの白梅』より)

早くから女子教育の必要性に気づき、その主張を繰り返していた太右衛門は、このとき県議会議長を務めており、県立女学校の設立を議会に提言した。

横浜学園の建学の精神には“女性としての特性を伸ばす” “世間の為、人の為になれ”“慎み深く、真心をもって事にあたれ”などが挙げられるとのこと。

当時、彼の胸中には“いずれ母親となる女子は未来の担い手であり、幼少期から女性の特性を意識し、伸ばすことが重要である。そしてそのためには女性にも学問・教育が必要”、という確固たる理念があったものと想像される。


横浜学園校歌。「女子のまなびや開かれぬ」と女子教育を謳っている
(『ゆかりの白梅』より)

しかし、その頃の日本には「女子に学問は不要である」という風潮があり、太右衛門の主張も時期尚早として否決された。

そこで太右衛門はみずから私立女学校の設立を決断する。費用面が懸念されたが、有力な後援者を得て1899(明治32)年1月26日、県知事より学校設立の認可を得た。

2月1日から生徒を募集したものの、当初は11名しか集まらず、開校式を順延するなどの措置をとらざるを得なかったが、その後の再募集で96名の応募があり、総計107名の生徒が第一期生となった。

(日本人経営者による)横浜初の女子教育機関「横浜女学校」は4月16日、横浜市中区日之出町で開校式を挙行した。

1905(明治38)年、「横浜女学校」は「神奈川県私立横浜高等女学校(以下、横浜高女)」となり、翌1906(明治39)年に横浜市中区元町に移転する。1908(明治41)年には「財団法人私立横浜高等女学校」となり、体制が整った。


明治末期の卒業記念写真(『ゆかりの白梅』より)

1945(昭和20)年の横浜大空襲で校舎が全焼し、1947(昭和22)年に磯子区岡村町に移転する。名称も「横浜学園」と変えた。

2000(平成12)年より共学になり、今日に至る。

汐汲坂の両脇にあった横浜高女

1906(明治39)年から1947(昭和22)年まで、横浜高女は横浜市元町にあった。現在、そこには横浜学園附属元町幼稚園がある。


現在の汐汲坂


元町幼稚園がある

汐汲坂というなだらかな登り坂の両脇にある幼稚園だが、この場所がほぼそのまま当時の横浜高等女学校だった。もとより現在のフェリス女学院よりやや手前から、すべて横浜高女の土地だったという。校舎が汐汲坂をはさむようにして、両脇に並んでいたのである。


かつて汐汲坂の両脇にあった校舎
(『昭和九年三月 第三十三回 卒業記念帖』〈横浜高等女学校〉より)

かつての校舎は、横浜大空襲で焼失した。その後に建てられたのが現在の幼稚園である。
運動場などが手狭になったので、横浜高女は移転を決めたようである。

また戦後、フェリスが米軍に接収されていて、米兵のいる近くに女学校があるのは望ましくないという判断もあったようだ。

しかし、この元町時代(1906-1945)には、横浜高女は教員に各界の逸材を集め、教育機関として充実した陣容を誇ったのである。今回はそんな横浜学園の豊富な人材から、原節子、中島敦に注目したい。

資料が残っていない“永遠の処女”

原節子―“永遠の処女”といわれ、今日では伝説的な存在となっている横浜出身の女優である。


原節子(フリー画像より)

1920(大正9)年、現在の横浜市保土ケ谷区に誕生する。本名・会田昌江(あいだ・まさえ)。私立横浜高等女学校に入学するが2年で中退して映画界に入る。そこには家の経済的な事情があったともいわれている。


すでに伝説化された存在である(フリー画像より)

1935(昭和10)年6月28日付けの横浜貿易新報(現神奈川新聞)には、横浜高女から映画界に入る彼女の記事が掲載されている。“近代的魅惑の美少女”と銘打たれ、ハーフのような美しい外貌を伝える写真が掲載されている。


横浜貿易新報1935(昭和10)年6月28日付け

この記事には彼女の本名が「会田昌江」であること、横浜高女の2年生だったが、学校を中退して日活に入社したことなどが記されており、映画界入りの段階から注目されていたことが窺える。

そんな彼女だが、学園にはどれほどの資料があるだろうか?

「学園は戦時中に空襲を受けて、その際に昔の資料を焼失しました。原節子さんの資料も、それで残っていないのです」

そう説明するのは横浜学園理事長の田沼光明(みつあき)氏。田沼太右衛門から数えて6代目になるという田沼氏は、学園理事長であると同時に中学・高等学校長、そして元町幼稚園園長という文字通り学園の主である。


田沼光明氏

「原さんに関しては、何も資料がありません。中退されているので、卒業アルバムにも写真がないのです」

学園に在籍したことは新聞記事からも確かだが、どのような生徒であったかなどは、空襲、そして80年という歳月により今日のわれわれにはもうわからない。引退したご本人は今年94歳で、マスコミの取材をすべてシャットアウトしている。

「学校にあった資料が焼けてしまい、疎開させていた段ボールから重要な資料が発見されたというケースが多いんです」
田沼氏はいう。
原節子に関する資料は、何も現存しないとのことである。




残念ながら、彼女の資料は残っていない(フリー画像より)

原節子はたしかに、横浜高女に通っていたが、現在の横浜学園に彼女の記録を求めることはできない。戦争という人災、そして歳月という抗いがたい事情を、受け入れるしかないようである。

中島敦も横浜高女の教員だった

「始業時間を何時間か過ぎて、汐汲坂をはま子先生が歩いてこられるでしょう? すると生徒たちは授業中でも窓辺に駆け寄るんです。そして坂を登ってこられる先生に手を振りました。『はま子先生!』って」


渡辺はま子
(『あゝ忘れられぬ胡弓の音』より)

そう回想するのは田沼光明氏の母親で、横浜学園4代目理事長・故田沼智明氏の夫人である田沼清子さん。すでにはまれぽ記事「渡辺はま子ってどんな人だったの?」でご登場いただいている。


田沼清子さん

歌手・渡辺はま子が、1933(昭和8)年から2年間だけ、横浜高女の講師だったことはよく知られている。はま子は生徒たちの憧れの的だった。“はま子先生は今日はどんなお洋服かしら?”と好奇心を燃やして窓辺に殺到する生徒たちに、授業担当の教師は当然ながら、あきれ顔で「席に戻れ!」と注意したであろう。


下段右がはま子。生徒の人気者だった
(『昭和九年三月 第三十三回 卒業記念帖』〈横浜高等女学校〉より)

しかし、一人だけ、坂を登ってくるはま子の様子を生徒と一緒に(おそらく微笑みながら)眺めていた教師がいた。
後の作家、中島敦である。


中島敦(1909~1942)
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)

生徒に注意することもなく、自分も窓からはま子のお出ましを眺めていたという。
「別にはま子先生に好意があるというわけではなくて、こうなったらどうせ授業にならないんだから、自分も見物しようということだったんです」
清子さんが解説する。敦は型にはまった考え方を嫌う人物だったようである。

漢学者の孫に生まれて教師に 若くして人生を閉じる

中島敦は、多くの日本人が高校時代に現代国語の教科書に登場する『山月記』の作者として出会う作家である。


中島敦『李陵 山月記』(文藝春秋)

詩人として名声を得んとしても思いが遂げられず、発狂し虎に身を変える男の物語は、荒唐無稽でありながら、これから人生を歩もうとする若者の心に深い印象を与える。


『山月記』は教科書に採用されている

しかし、それ以上、彼の小説を読み進める人は多くはない。彼の作品は中国に題材をとったものが多く、またその文章も現代人には難解な言葉が頻出し、決して読みやすい作家ではない。

彼を漱石や芥川に匹敵する国民的作家とするのに躊躇を感じるのは、33年という短い生涯ゆえの作品数の少なさもさることながら、その文学のあまりに孤高なたたずまいにあるといえよう。


敦には『弟子』『李陵・司馬遷』などの作品がある

中島敦は1909(明治42)年、現在の東京都新宿区に誕生した。
父の田人(たびと)は教師、祖父の慶太郎は「撫山(ぶざん)」の号を持つ著名な漢学者であった。


中島敦の祖父、中島撫山(画像提供:久喜市立郷土資料館)

幼少期から秀才で、1930(昭和5)年、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部国文科に入学する。1933(昭和8)年、同大卒業、そして大学院に入学する。
同じ年に横浜高女に教員として就職する(大学院は翌年中退)。国語と英語、さらに歴史や地理も担当する。


1年1組のクラス写真 1937(昭和12)年5月(『図説 中島敦の軌跡』より)

教師生活の前半は山岳部を引率したり、職員旅行で登山を楽しんだりしたほか、野球や水泳、ヨット遊びなどもしている。また学校関係の会誌の編集なども担当した。


雑誌部の新年会で1937(昭和12)年1月(『図説 中島敦の軌跡』より)

しかし教師生活後半になると、宿痾(しゅくあ)である喘息の発作が度重なるようになり、学校も彼に副担任を付けるなど負担の軽減を図るが、1939(昭和14)年以降は喘息がさらに悪化し、欠勤も増えていった。


1938(昭和13)年ごろ 校庭で

1941(昭和16)年4月、ついに体調不良のゆえに敦は横浜高女を休職する。父の田人が代理で教壇に立つ条件だったという。結局6月16日に退職届を出し、8年間の教師生活に別れを告げた。

暖かい南の島ならば健康にいいのでは・・・と考えた敦はその後、南洋庁に就職する。当時、日本の統治下にあった南洋群島(西太平洋の赤道以北に散在する諸島群)の児童が使用する日本語教科書編纂が任務だった。

1941(昭和16)年6月28日にパラオに赴き、当地で「南洋庁国語編集書記」の身分を以て働く予定であったが、到着早々彼を待っていたのは喘息に加えデング熱や大腸カタルといった病気であった。

またホームシックにも陥り、頻繁に家族に手紙を書いている。さらに南洋の島々を視察し、島民に対する南洋庁の方針に疑問を抱き、仕事への情熱を失ったともいわれている。


敦の妻・タカ


左から妹・澄子、敦、桓(たけし)、父・田人(『図説 中島敦の軌跡』より)

日本の太平洋戦争開戦を知ったのは、サイパン島であった。

彼はすでに教師時代から小説を書き始め、『中央公論』の「新人発掘原稿募集」に応募している(彼の作品『虎狩』〈とらがり〉は選外佳作になった)。『山月記』は1942(昭和17)年に発表された。


『文学界』に『山月記』が掲載される 1942(昭和17)年2月(『図説 中島敦の軌跡』より)

1942(昭和17)年の年、彼はほかにも『光と風と夢』『牛人』『名人伝』といった多くの作品を雑誌に発表している。
同年9月、南洋庁を辞職して職業作家の道を歩み始めるが、10月中旬から激しい喘息発作に見舞われ、12月4日死去。33年の生涯を閉じた。

明るく、人気者だった敦

今では教師時代の中島敦の素顔を語れる人は多くはない。田沼清子さんは、そんな数少ない一人である。彼女は敦が横浜高女にいた当時、6歳から14歳で彼の授業を受けていたわけではないが、敦を慕ってよくそばをついて回ったという。

「敦先生は、東大でも極めて優秀で、どうか大学に残ってほしいと関係者も思っていたんです。しかし体が弱く、教壇に立てないだろうと懸念された。
当時の理事長だった田沼勝之助(かつのすけ)はそれを承知で、敦先生を受け入れました。勝之助は敦先生のお爺さんである中島撫山先生の弟子だったからです」


田沼勝之助理事長
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)

国語教師を探していた田沼勝之助氏は、おそらく欠勤が多くなろうが、それを承知の上で、中島敦を受け入れたというのである。

敦は朝日新聞の入社試験も受けたが、身体検査で落ちている。体力的に無理と判断されたのではといわれている。当時は就職難の時代で、敦も“最近は履歴書ばかり書いている”と人に宛てた手紙の中でボヤいている。

晴れて横浜高女の教員となった敦は、どのような先生であったか。私たちは『山月記』の作者には、暗く陰鬱(いんうつ)な性格をあてはめたくなるが、実際の敦は明るく、人が寄ってくるタイプだったという。 快活で、生徒の人気も高かった。


横浜高等女学校学友会発行『学苑』に掲載された生徒による中島敦評。
(『図説 中島敦の軌跡』より)

あるとき、生徒がノートに自分で小説を書いて敦に見せた。ところが、話が途中で終わっている。最後に「この続きはまた明日」と書かれていた。
これを読んだ敦は“これはいい、おもしろい!”と大喜びしたという。

またある日突然、学校で生徒全員の持ち物検査が行われた。その際に一人の生徒のカバンから、ブロマイドが出てきた。すると学校は保護者を呼び、厳しく注意した。当時の横浜高女はこういう点が厳しかったのだ。

その様子を見ていた敦は一言「くだらないことをするなあ」とほかの生徒に呟いたそうである。学校側の硬直した対応に、反感を見せたのだった。


1935(昭和10)年、教職員一同と 前列右から2人目が敦
(『図説 中島敦の軌跡』より)

授業中、彼は生徒に教科書以外のさまざまな本を読み聞かせた。漱石や芥川の小説をよく読み、生徒もそれを楽しみにしていた。

生徒に作文をよく書かせ、必ず読んだ感想を書いて返却した。あるとき一人の生徒が他人の書いた文章を、自分が書いたように偽装して提出したところ、「これは君の文章じゃないよ」と怒気を含んで叱りつけた。目撃者によると、それ以外には見たことがないほど迫力があったという。文章に関しては「てにをは」の使い方に厳格で、誤りを許さなかった。

1時間教えただけで生徒の成績を伸ばした“トンさん”

まだ幼かった清子さんは職員室での敦の様子を憶えている。
「当時、横浜高女には野田蘭洞(らんどう)という優秀な書家の先生がいました。敦先生は野田先生と机が近く、非常に仲良しで、いつもニコニコして話をされていました。お話の内容も品があって、これが一流の人たちかと思いました」


下段中央が野田蘭洞。右隣が敦
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)

「野田先生は敦先生に、漢字についてよく質問をなさったのですが、いつも敦先生からはたちどころに答えが返ってきました。敦先生も性格のいい方ですから、『野田先生のあの字の、撥ねるところなんかいいですね』などと誉めたりされました」


野田蘭洞の書

敦は教師としても、非常に優秀だったようである。こんなエピソードがある。
「あるとき、数学の先生が病気で休まれたんです。そんなときは自習になるのが普通ですが、若い女の子たちが黙って勉強するわけがありません。おしゃべりで騒がしくなり、両隣の教室に迷惑をかけることになります」


上・英語の授業 下・化学の授業


上・幾何の授業 下・割烹(調理)の授業


上・裁縫の授業 下・お弁当の時間
(『昭和十一年三月 第三十五回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉より)

「それで職員室にいた敦先生が『ちょっとボク、行ってきます』とその教室に行かれたそうです。そして生徒に数学の教科書を見せてもらい、『どのページをやっているの?』と聞いて、その場でご自分が数学の授業をされたんです」

「驚いたことに、その後学年全体で行われた数学のテストでは、敦先生が1時間だけ授業をされたそのクラスが、一番成績がよかったそうです」


1937(昭和12)年1月 雑誌部の新年会で(『図説 中島敦の軌跡』より)

またこんなことも、清子さんは憶えている。
「テストが終わって、各教師が自分の席で答案の採点をしていたときです。敦先生の机の向かいには、数学の先生がいて、採点をしていました。敦先生も、当然ご自分の受け持ちの答案を採点していました」

「やがて採点が終わった教師が一人去り、二人去り、残ったのは敦先生と数学の先生、そして私の父の田沼要人(かなめ)だけになりました。そのとき、敦先生が数学の先生に口を開いたのです」

「『先生、○年○組の△△△子の答案をもう一度、ごらんになったらいかがでしょうか?』驚いた数学の先生が確認すると、たしかに採点間違いが見つかったというのです。数学の先生も、これには本当に恐縮したということです」

同僚教師に恥をかかさぬよう、敦はできるだけ人が少なくなるのを見計らって声をかけたのである。


同僚たちと 横浜高女で 1938(昭和13)年

「答案を上下反対から見ていたのに、よくわかりましたよね。要人はいっていました。『東大を出たあれだけ頭のいい人が、まわりがいなくなるのを待って注意した。だからねえ、あの脳味噌だけはもらえないけど、あの人格は学びたいな』と」
こんな敦は、親しい同僚教師からは“敦”の音読みで「トンさん」と呼ばれていたそうである。

「尊厳」を持っていた中島敦

こんな敦は生徒の間でも人気者で、特に敦に心酔していた生徒が2人いた。彼女たちは、敦の授業の前になると教卓にバラの花を一輪さした花瓶を置いて敦を待ち、授業が終わると花瓶を撤去したという。
この“バラ伝説”は有名なのだとか。


横浜高女昭和16年卒業生クラス会 1942(昭和17)年7月26日
敦の生前最後の写真(『図説 中島敦の軌跡』より)

清子さんは小学2年生から5年生まで喘息で苦しんだが、女学校に入ると治癒した。敦はそれを見て「清子ちゃん、治って丈夫になってよかったですね」と非常に喜んだという。喘息の辛さを誰よりも知っていた敦にとって、清子さんの喘息克服はわがことのようにうれしかったのだろう。

清子さんは回想する。
「敦先生は、なんでもできる先生でした。中区本郷町のご自宅から学校まで歩いて通勤されたのですが、あるとき、『今日は歩いているときに、頭の中で短歌が300首できた。忘れないように書いておこう』と巻紙に書き写されました」


山手界隈が敦の散歩コース。『かめれおん日記』には外国人墓地が登場する。
現在、同地に彼の記念碑がある


敦の作品に関して、登場人物を敦と同一視する見方には反論する。
「『山月記』に登場する虎になった男は、敦先生が自分自身のことを書いたのだという人がいますが、それは違います。敦先生は尊厳を持っておられた方です」

敦を“近代の文豪”と呼び、今でも絶対的な尊敬をゆるがせにしない清子さん。現在、横浜学園には「中島敦の会」があり、敦の作品研究や人物研究が行われている。


横浜学園にある中島敦の展示コーナー(『ゆかりの白梅』より)


敦の思い出が語り継がれている

中島敦関係のさまざまな写真や資料が展示されている


「中島敦の会」では多くの研究がなされている

取材を終えて

「敦先生が33歳で亡くなったことが無念でなりません」
清子さんはいう。たしかに類まれな才能の夭逝(ようせい)は、日本文学にとって大きな損失であった。芥川や太宰のように自ら死を選んだのではなく、敦は病床で「書きたい、書きたい」と目に涙をためて呻きながら、死の訪れを待つしかなかったのだ。新進作家として注目され、原稿依頼も増えてこれから大輪の花を咲かせようという矢先であった。


若くして亡くなった中島敦(『図説 中島敦の軌跡』より
初出は『昭和十三年三月 第三十七回 卒業記念帳』〈横浜高等女学校〉)


元町幼稚園の中にある敦の文学碑


説明板

『山月記』だけが中島敦ではない──清子さんはいう。そうした意見を待つまでもなく、敦にはみずからの教師生活を投影したような『かめれおん日記』と題する作品もあり、彼が常日頃、孤高狷介(ここうけんかい)な世界にばかりいたわけではないことが窺える。いつも快活で、水泳やビリヤードが得意だったという一面も、今回の取材で知った。

原節子にまつわる資料が皆無、というのは何とも残念だが、空襲のあった横浜ではこうした事態は避けられない。80年という茫々(ぼうぼう)たる歳月もあり、ご理解願いたい。

当時の横浜高女は中島敦や渡辺はま子のほか、野田蘭洞、そして岩田一男(英語の大家)なども擁し、実に逸材の教員が揃っていた。横浜の一つの学校に、ある時代これだけの人材が結集していたことは、それだけでも興味深い。

なにより今回の取材で、これまでいま一つ入り込めなかった中島敦の世界に、深く潜入できたのは大きな収穫だった。

─終わり─

取材協力
横浜学園
http://www.yokogaku.ed.jp/

参考文献
『図説 中島敦の軌跡』(中島敦の会)
『ゆかりの白梅』(横浜学園)
ほか

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