維新の会政調会長が唐突に提唱した“阪兵併合”に兵庫県で反発が拡大している本当の理由

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兵庫県の地域

4月4日付の神戸新聞によると、14日投開票の兵庫県伊丹・宝塚両市長選において公認候補者を出馬させる予定である日本維新の会で政調会長を務める浅田均大阪府議会議長は伊丹市長選に出馬を予定している元伊丹市議会議員の集会において、維新の会が推進する“大阪都”構想に関連し「大阪だけでなく周辺10市くらいを合併し、尼崎や西宮を越えて神戸まで特別区にしたい」と表明したとされています。この報道に対し、兵庫県内から次々と反発の声が挙がっており『Twitter』ではナチス・ドイツのオーストリア併合(独墺併合)になぞらえる意見まで飛び出しています。8日後に迫った伊丹・宝塚両市長選では、維新の会共同代表の橋下徹大阪市長が持論とする“大阪国際空港廃止”と並ぶ一大争点として“阪兵併合”が浮上するかも知れません。

明治維新で生まれた「日本のユーゴスラビア」

かつて、東ヨーロッパにユーゴスラビアと言う国がありました。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれたこの国は1989年以降に民主化の波で構成国が次々に独立し現在はセルビア、モンテネグロ、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナとなっていますが、日本の都道府県の中でも兵庫県は現在の領域が確定した当初からこのユーゴスラビアと極めてよく似た状況にあります。

明治維新に伴う廃藩置県で例えば山梨県なら甲斐国、高知県なら土佐国がそのまま県になったのに対し、兵庫県は地図を見ていただくとわかるように元々は5つの令制国に分かれていました。1868年から69年にかけて設置された最初期の兵庫県は現在の大阪府北部を含む摂津国の大部分で、大阪府は現在の大阪市中心部のみのごく狭い地域となっていましたが、1871年には川辺郡(伊丹市・川西市・猪名川町全域と尼崎市東部および宝塚市北部)より西を兵庫県(第2次)、東を大阪府と摂津国を東西に分割する府県境がほぼ確定しました。

内務卿であった大久保利通は条約港として開港した神戸港を発展させるために隣接する大県で農業が盛んな飾磨県(播磨国)を兵庫県に編入し、その税収を神戸港の開発に充てる計画を立てていました。この案について但馬・出石藩出身で地理局長を務めていた桜井勉に意見を求めたところ、桜井は大久保に対し播磨に加えて養蚕や畜産が盛んな但馬の全域と丹波の西部も兵庫県に加えその税収も神戸港の開発に充てるべきであると進言し、これに徳島藩の内紛で分裂状態となった名東県から編入された淡路も加わって現在の兵庫県(第3次)が成立します。桜井はこの案を非常に気に入っていたようで、自らの案を「兵庫県は南海から北海に達し天下無類の大県になる。交通も便利で人民至福」と評していました。

そうした明治維新と絡む複雑な経緯によって成立した兵庫県は他の都道府県に比べて「統一された地域性や県民性が無い」ことが特徴であると言われており、特に播磨では「明治維新の頃から神戸には奪われてばかり」と言う県都・神戸に対する反感も少なからず存在しています。一方では、市町村合併においても珍しくない深刻な地域対立のトラウマから「ようやく落ち着いて来た枠組みを政治の都合で壊されたくない」と言う意識が他の都道府県以上に強く、今回の“阪兵併合”に対しても「大阪の一部になる」ことの是非だけでなく「政治の都合」で新たな混乱や対立が引き起こされることへの警戒感が県内のどの地域かを問わず存在するのです。

近くて遠い商都・大坂と城下町・尼崎

兵庫県南東部の阪神間でも特に大阪と地理的・文化的に親和性が高いと言われるのは尼崎市ですが、江戸時代までは幕府直轄の商業都市だった大坂と尼崎藩の城下町であった尼崎は地理的に近いとは言え、それぞれ全く異なる文化を持つ都市でした。明治以降の歩みは対象的ですが、現在は共に福岡市となっている商業都市の博多と城下町の福岡に近い関係だったと言えます。

摂津国が大阪府と兵庫県で東西に分断された理由は諸説ありますが、一説には「明治政府が東京と肩を並べる規模に大阪が肥大化することを恐れて分断した」と言われています。ただ、実際は条約港として開港した神戸を県庁所在地とするための措置と言う側面が強く、同様に開港した横浜は武蔵国、長崎は肥前国の一部をそれぞれ近隣の令制国と合わせて神奈川県と長崎県が成立していることを考えると必ずしも「大阪の弱体化」を積極的に裏付けるとは言い切れません。なお、尼崎市の市外局番が大阪市と同じ「06」なのは尼崎港の周辺に建てられた紡績工場が取引所のある大阪・船場との通信費用を節約するために大阪から電話回線を引いたことに端を発しています。

今回の“併合”案は戦後に廃れた「大大阪主義」への郷愁?

現在の大阪府と兵庫県の領域が確定して以降も兵庫県に属した摂津国の西部、特に川辺郡(現在の伊丹市・川西市・猪名川町全域と尼崎市東部および宝塚市北部)・武庫郡(西宮市全域と尼崎市西部および宝塚市南部)・菟原郡(神戸市灘区・東灘区および芦屋市)の3郡のあたりまでは戦前まで広義の「大阪」ないし「大大阪」(だいおおさか)と呼ばれていました。特に1923年の関東大震災で東京が壊滅的な打撃を受け、同時期に周辺の町村を編入した大阪は東京の人口を上回る最盛期を迎えます。同時に、震災の難を逃れて東京から移住して来た富裕層や文化人は「大大阪」の一部であった西宮や芦屋へ移り住み、神戸から入って来た西洋文化を取り入れて「阪神間モダニズム」と呼ばれる和洋織り交ぜた独自の文化を形成して行きました。戦後に神戸市が周辺の町村を合併して市域を拡大した頃からは「大大阪」の概念はすっかり廃れ、入れ替わりに「阪神間」がこの地域の総称として使われるようになって行きます。

伊丹・宝塚両市長選を目前に控えて唐突に提示された“阪兵併合”は今のところ、明確なビジョンを持った地域戦略などではなく単なる大阪視点の「大大阪」時代への郷愁にしか見えません。そもそも、提唱者である浅田氏はどうして関西の広域を視野に入れた対等合併でなく大阪主導で兵庫県の割譲・併合ありきの案を優先するのか、併合される側が納得する説明は出来るのでしょうか。明治維新が「統一された地域性や県民性が無い」県を誕生させたのと同等かそれ以上の大義名分を提示し、その県が“維新”を称する政党の手で解体されることを是とする県民の積極的な支持と言う条件が揃わない限り、浅田氏の提唱する“阪兵併合”が実現することは有り得ないでしょう。

画像:「あなたが“使える”白地図を」の素材をベースに作成

※この記事はガジェ通ウェブライターの「84oca」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?

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