週刊ポスト連載でも佐野眞一氏の「コピペ」を大量発見~佐野眞一氏の「パクリ疑惑」に迫る(第4回)

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小学館の「週刊ポスト」で佐野眞一「化城の人」がスタート

2011年末、小学館の「週刊ポスト」(2012年1月1・6日合併号/12月22日発売)で佐野眞一氏の大型新連載「化城(けじょう)の人 池田大作と創価学会の80年」がスタートした。佐野氏が抱える、現在進行形の最も大きな連載である。

「化城の人」第1部では、創価学会の牧口常三郎・初代会長や戸田城聖(じょうせい)・第二代会長の歴史について細かく紹介している。この連載の分析を始めるにあたって、比較的最近出版された、内容が易(やさ)しそうな本を予習テキストに選んでみた。最も手軽そうな、月刊「パンプキン」編集部によるフォトエッセイ集『創価教育の源流 牧口常三郎』(潮(うしお)出版社、2001年11月刊行)を取り寄せた。予習のつもりで読み始めた取材班だが、いきなり剽窃箇所を発見してしまった。

このふたつの書籍をつきあわせて検証してみた。まずはご覧いただきたい。

■剽窃箇所その1

荒浜では雪は横から降る海からの強い風が、横なぐりの雪を生むのだ。雪のない季節は、砂が舞い、一夜にして村の地形を変えた。
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、16ページ)

荒浜では昔から雪は横から降るという。日本海からの強い風が、上から降る雪を横なぐりにさせる雪のない季節は、砂が舞い、一夜にして村の地形を変えた。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年1月13・20日号、146ページ)

■剽窃箇所その2

牧口は、志賀の恩を生涯忘れなかった。後年、志賀が敗血症で死の床についたとき、実現はしなかったものの当時まだ一般的でなかった輸血を医師に申し込むことまでした。
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、29〜30ページ)

牧口は志賀の恩義を生涯忘れず、昭和二(一九二七)年、志賀が死の床についたとき、実現はしなかったが、当時まだ一般的でなかった輸血を医師に申し込むことまでした。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年1月27日号、57ページ)

■剽窃箇所その3

老朽化した校舎の廊下は、歩くとギシギシ鳴った。(略)ノートや鉛筆を満足に持っている子どもは少なく、傘がないため雨がふると学校を休む子どもも多かった。牧口は、学習の環境を整えるために、少なくとも文房具はみんなにいきわたるようにしなければと悩んだ。
そして、文房具の一括購入をすることを考えつく。何軒かの文房具店で値段の交渉をし、子どもたちに安価で文房具をわけた。
牧口は、貧しい子どもたちのために校長としてできることは何かとつねに考え、ときには自分のポケットマネーをさいて子どもたちの教育環境の改善に役立てていったのであった。》
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、36ページ)

《牧口の赴任当時から校舎が老朽化し、廊下を歩くとギシギシ音がした。ノートや鉛筆を満足に持ってくる子どもは少なく、傘がないため雨が降ると学校を休む子どもも多かった。牧口は時に自分のポケットマネーをはたいて子どもたちに文房具を買い与えた。》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年1月27日号、57ページ)

■剽窃箇所その4

《ある日、大正小の校長室に地元の有力者が訪ねてきた。自分の子を特別扱いしてほしいという相談だった。牧口は、言下に断わった。それを根にもった有力者は、当時、東京市政を牛耳っていた高橋義信に牧口の転任を依頼した。
そのうわさを聞きつけた教師や父母たちは、牧口の留任運動に立ち上がった。教師は一丸となって辞表を書き、父母たちは子どもを“同盟休校”させた。東京府議会議長が仲介に入り、騒ぎを収めたものの牧口の転任は動かなかった。
こうして、1919(大正8)年12月、牧口は西町尋常小学校の校長へと転任していくことになった。
この西町小の校区は、牧口の転任のために暗躍した高橋義信の地元だった。
歴代の校長は、必ず高橋に就任のあいさつに行くのがならわしになっていた。権威、権力に媚びることをきらう牧口は、それを拒否した。そのことで、牧口は、在任わずか6か月ほどで西町小も追われ、三笠尋常小学校に移ることになる。
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、38ページ)

《牧口は新設の大正尋常小学校に着任した。ある日、大正小学校の校長室に地元の有力者が訪ねてきた。自分の子を特別扱いしてほしいという相談だった。牧口は言下に断った。
それを根に持った男は、当時、東京市政を牛耳っていた高橋義信という実力者に牧口の転任を依頼した。
この噂を聞きつけた教師や父兄たちは、牧口の留任運動に立ち上がった。教師は一丸となって辞表を書き、父兄は子どもたちを“同盟休校”させた。最後は東京府議会が仲介に入り、騒ぎをおさめようとしたが、牧口の転任はもう動かなかった。
こうして大正八年十二月、牧口は三年間校長を務めた大正尋常小学校を去り、西町尋常小学校に転任する。この西町小の校区は、牧口の転任の裏で暗躍した高橋義信の選挙区だった。
歴代の校長は、必ず高橋に新任の挨拶に行くのがならわしとなっていた。権威に媚びることを嫌う牧口は、これを拒否した。そのことで牧口は着任からわずか六か月で西町小を追われ、細民街の三笠尋常小学校に移るのである。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年1月27日号、58ページ)

■剽窃箇所その5

《西町小で、牧口の留任運動をしていた戸田のことも心配し、牧口は彼の代用教員の任期が終わると、三笠に移れるようにした。(略)
学校へ弁当をもってこれない子どものために、牧口が身銭を切って、豆もちや握り飯などを用務員室に用意していたのも、この学校でのことだ。
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、39ページ)

前任校の西町尋常小学校で牧口の留任運動をした戸田城聖のことも心配して、戸田の代用教員の任期が終わると、三笠小学校に移れるようにした。
学校に弁当を持ってこられない子どものためには、豆もちや握り飯を用務員室にさりげなく置いて、子どもたちが自由に持っていけるようにした。その費用は、牧口が給料の一部を割いてまかなった。》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年2月3日号、56ページ)

■剽窃箇所その6

《1923(大正12)年9月1日の正午前、関東南部をマグニチュード7・9の地震が襲った。(略)白金小のある一帯は、幸いなことにほとんど被害を免れた。
震災から10日ほどたったころ、牧口は、6年生と卒業生たちに被災者救援のボランティアをすることを呼びかけた。
その呼びかけに250人の子どもたちが集まってきた。牧口は、彼らを「小善会」と名づけた。
(『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、44ページ)

大正十二年九月一日の正午前、関東地方南部をマグニチュード7・9の激震が襲った。白金小の校舎は、幸いなことに倒壊を免れた。この関東大震災から十日ほど経った頃、牧口は六年生と卒業生に被災者救援のボランティアをすることを呼びかけた。
その呼びかけに、二百五十人もの子どもたちが集まってきた。牧口は彼らを「小善会」と名づけた。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年2月3日号、61ページ)

■剽窃箇所その7

7月4日、特高警察の厳しい監視下にもかかわらず、牧口は伊豆におもむき、蓮台寺の旅館の一室で座談会を開いていた。(略)
翌5日は、下田で座談会を行い、夜、須崎の知人宅に折伏(しゃくぶく)に向かった。同家で1泊し、翌6日、朝食が終わったころ、下田署の刑事が牧口に面会を求めにやってきた。そして、そのまま下田署に連行されたのだ。
牧口常三郎、72歳。
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、81ページ)

七月四日、牧口は伊豆に赴き蓮台寺の旅館の一室で折伏座談会を開いた。翌五日は下田で座談会を開き、夜は須崎の知人宅の折伏に向かった。同家で一泊し、朝食が終わった頃、下田署の刑事が牧口に面会を求めてきた。そしてそのまま、下田署に連行された。
当時、牧口は七十二歳だった。》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年2月24日号、55ページ)

■剽窃箇所その8

牧口は、警視庁の5階の取調室で、約1か月半に渡り連日の厳しい取り調べを受けた。
取調室は、1坪(3・3平方メートル)ほどの広さで、真ん中に机がふたつ置いてあるだけの部屋だった。窓にはめてある太い鉄の柵が、部屋の雰囲気を威圧的にしていた。》
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、82ページ)

牧口は警視庁五階の取調室で、約一か月半にわたって厳しい取り調べを受けた。そこは二畳ほどのコンクリートの部屋で中央に机が二つ置いてあるだけだった。窓には太い鉄柵がはめられていた。》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年2月24日号、55ページ)

■剽窃箇所その9

予審判事による牧口の取り調べがはじまったのは、起訴から5か月後の1944(昭和19)年の4月に入ってからのことだった。
予審判事の取り調べは、東京刑事裁判所で行われた。東京拘置所からは、バスで移動する。いつも15人ほどの収容者が、手錠をかけられたまま、編笠をかぶせられ、数珠(じゅず)つなぎで護送された。
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、86ページ)

《昭和十九年の四月になると、予審判事による取り調べが始まった。取り調べは東京刑事裁判所で行われ、東京拘置所からはいつも十五人ほどが手錠をかけられたまま数珠つなぎにされ、深編笠をかぶされ、バスに乗せられて護送された。
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年2月24日号、59ページ)

■剽窃箇所その10

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牧口が、自ら病監へ移ることを希望したのは、1944(昭和19)年11月17日のことだった。すでに、死を予想していたのか、足袋(たび)から下着、襦袢(じゅばん)にいたるまで洗濯をしたものを身につけた。
「おぶってさしあげましょうか」
看守が、牧口の体の衰弱を見て声をかけた。牧口は、静かに断わった。
「せめて手でも引いてあげましょうか」
「ひとりで歩けますから、ありがとう……」
2,3度、よろけはしたが、ひとりで病監に歩いてゆき、ベッドに横たわると、ゆっくり目を閉じた。老衰と極度の栄養失調だった。
翌18日午前6時過ぎ、牧口は、眠るようにして73歳の生涯を終えた。》
『創価教育の源流 牧口常三郎』潮出版社、2001年刊行、87ページ)

牧口が自ら病監へ移ることを希望したのは、この手紙を書いてから約一か月後の十一月十七日のことだった。すでに死を予期していたのか、牧口は足袋から下着、襦袢にいたるまで洗濯したてのものを身に着けた。
「おぶってさしあげましょうか」
看守が、衰弱しきった牧口を見かねて声をかけた。この申し出を牧口は、「ありがとう。でもひとりで歩けますから、結構です」と言って、静かに断わった。
「では、手をひきましょうか」と言っても、牧口は首を縦に振らなかった。牧口はよろける足取りで病監に歩いて行った。そして部屋に到着するとそのままベッドに横になった。
牧口はゆっくりと目を閉じ、もう二度と起きあがることはなかった。
(略)昭和十九年十一月十八日午前六時過ぎ。牧口は七十三年の生涯を閉じた。死因は極度の栄養失調と老衰とされた。》
(佐野眞一「化城の人」/「週刊ポスト」2012年2月24日号、59ページ)

タネ本『創価教育の源流 牧口常三郎』(写真下 87ページ)にある20字×15行のブロックから、佐野氏が丸ごとパクッている事実が一目でわかる(写真上が佐野氏の記述)。

猪瀬氏の指摘以外の書籍からの盗用を続々発見

「化城の人」連載回数は現在21回。2012年6月8日号(5月28日発売)をもって第1部が完結している(第2部のスタート時期は特にアナウンスされていない)。佐野氏は1947年生まれだから、「化城の人」は64歳から65歳にかけて執筆した作品ということになる。「週刊ポスト」が「ノンフィクション界の巨人」(連載冒頭のリード文)と組んで放った、大型企画である。

ページ数は1回につき6ページ。週刊誌の特集ページは通常4ページ程度であることから、週刊ポストがかなり力を入れていることが、ページ数からも伺える。

写真を大きく使用している第1回のテキスト量を数えてみると22字×410行=9020文字。400字原稿用紙に換算すると22枚半である。ヨソの仕事と並行しながら、これだけ長い週刊連載を書き続ける仕事はさぞかし骨が折れるだろう。

ガジェット通信特別取材班による短期集中連載第一回では、佐野氏が38歳の頃に引き起こした「盗作騒動」について取り上げた。テーマは、週刊ポスト連載の「化城の人」と同じ、「創価学会と池田大作氏」。前回は、「タネ本」にされた溝口敦氏への詫び状の現物を写真で掲載した。

「化城の人」でも何冊もの「タネ本」から盗作している可能性はゼロではない。とはいえ、「まさかそこまではやってないだろう」と思った。過去の汚点を残すテーマに再び挑むならば、余程の決意と準備を経てきたものであるのだろうと、ガジェット通信特別取材班は思ったからだ。

ところが、猪瀬直樹氏のツイートによると、佐野氏のこの最新連載にもまた、剽窃箇所があるという。

《週刊ポストに連載された佐野眞一「化城の人」は、1971年に新人物往来社から出た「戸田城聖ー創価学会」日隈威徳著よりの剽窃39箇所。量が多すぎてツイッター向きでない、苦笑。》
(2012年10月23日21:37投稿)
https://twitter.com/inosenaoki/status/260721560439103489[リンク]

早速注文した日隅氏の著作の到着を待つ間、予習用に購入した『創価教育の源流 牧口常三郎』(潮出版社、2001年刊行)をパラパラめくり始めた30秒後、佐野氏が「盗作」したとしか表現しようがない一致箇所を見つけてしまった。

猪瀬氏が指摘した『戸田城聖 創価学会』以外にも、驚くべき盗作のタネ本が存在したのだ――。

早速、佐野眞一氏の「週刊ポスト」連載「化城(けじょう)の人 池田大作と創価学会の80年」との付き合わせ作業を続行した。すると、おもしろいように次々と盗作箇所が見つかるではないか。今回は、これまでに発見した一致箇所を以上に列挙した。

特別取材班は佐野氏の連載目当てに週刊ポストを毎週買ってきた

10年以上に及ぶ佐野ファンであり、佐野氏に影響されて文筆の世界、とりわけノンフィクション業界で仕事をしたいと強く希(ねが)ってこの世界に入ったガジェット通信特別取材班は、「化城の人」読みたさに毎週、週刊ポストを買ってきた(もっといえば、その前は連載の「あんぽん」目当てに毎週買っていた)。

ところが、まさか「ノンフィクションの巨人」と呼ばれる人物の、しかも現在進行形の連載で、これほどまでに大規模な盗用・剽窃が行なわれているとは想像もしていなかった。もしも盗用が1カ所だけなら「また悪い癖が出たのか」「ついつい筆がすべったのか」と、理解が及ぶかもしれない。しかし、ざっと見ただけでこれほど簡単に、たちどころに10カ所もの盗用・剽窃が見つかったのだ。

しかも、すでに猪瀬氏がツイッターで指摘した剽窃疑惑も事実だとすれば、少なくとも佐野氏が現在小学館の「週刊ポスト」で連載している「化城の人」には、「合計2冊のタネ本から約50カ所の盗作がある」ということになる。そうなるともはや、「化城の人」は他人の書籍からのパッチワークであり、すでに「書く」というクリエイティブな営為の結晶とは言いがたい。

佐野氏は、ある時期、あるところで「書く」という行為をやめたのかもしれない。だとしたらそれはいつからのことなのか。なぜなのか。特別取材班はさらに佐野氏のテキスト分析を進めることにした。

(ガジェット通信短期集中連載第4回~佐野眞一氏の「パクリ疑惑」に迫る~
2012年10月26日脱稿/連載第5回へ続く)

情報提供をお待ちしています
佐野氏の盗用・剽窃疑惑について、新情報があればぜひご提供くださいませ。
メールの宛先は[email protected]です。(ガジェット通信特別取材班)

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