明治41年の坂本龍馬

コトリコ

今回はコトリコさんのブログからご寄稿いただきました。

明治41年の坂本龍馬
今回は明治の末の坂本龍馬の評価みたいなのを、ちょっと書いてみます。

・坂本龍馬の講談本
最近の僕は講談速記本の電子書籍を作ったりしています(講談速記本についてはこちらに*1ちょっと書きました)。
*1「コトリコ」2010年08月25日『宴会しながら作る本』
http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20100825/1282715039

今は坂本龍馬がブームで売れそうだし、気軽な気持ちで龍馬の講談本を電子化するかーみたいな感じで、明治41年に書かれた龍馬の講談本を探してきたのでした。ところがこれがひどかった。

・先に書かれた龍馬の小説のパクリ
・パクッた小説を修正した部分が全てクソになる
・龍馬は天狗(てんぐ)のコスプレした奴を殴っただけ、あとは旅行している
・龍馬が異常にネガティブ、アー遺憾でござるが口癖
・全然関係ないのに赤穂浪士の話が2回くらい出てくる
・全く無関係の徳川家康の悪口も出てくる
・勝海舟がアメリカでおにぎりを食って泣く
・西郷隆盛が酢みそを付けて花を食ってエカパーと叫ぶ

こういう感じです。これでは売り物になりませんから、何冊か著作権切れてる龍馬の本を探してきて、このクソ本を作り出した講談師の口調で書き直しながら、違和感ないように埋め込んで、なんとか読める感じに仕上げるみたいな作業をしました。

かなりダルい作業ですが、悪いことばかりではなくて、この作業で明治後半の人が持っていた龍馬のイメージ像みたいなのがわかってきました。

・インターネットで調べてみると
作業の過程で年譜やら人名を、インターネットを使って調べたりしたんですけど、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が書かれるまで、龍馬は無名に近い存在で、過大評価されているみたいな意見を見ることが多かったです。

だけど僕が読んだ感じだと、司馬遼太郎が作った竜馬のイメージと、細かい部分に違いはあれ、明治後半の龍馬のイメージにあんまり差異はないですし、一定の評価は得ていたみたいです。

僕が読んだのは、明治に生きてた一般の人向けの書籍なので、これから書くのは、当時の龍馬を知ってる普通の人が持っていたであろう龍馬のイメージって考えてもらっていいと思います。

・明治龍馬のエピソード
全部を書くと長くなるので、一部を抜粋、こういう感じ。

・近隣の住民をだます新興宗教をブッつぶす
天狗(てんぐ)のコスプレをしたオッサンを殴って新興宗教をブッつぶしています。

・切腹するつもりなのに悠然としいの実を食う
いろいろな議論があって、龍馬の友人たちが切腹することになる。龍馬もつきあって切腹する決心をし、議論の場に訪れるが、平然としていて、悠然としいの実を食ってる。

・自分の好きな場所だけ読む
龍馬は学問をしようと決心するが、子供のころにサボってたので、難しい漢文は読めない。だから適当に読む。友だちからそんなので意味わかるのって質問されて、だいたいわかれば十分だって答えてる。

・なるべく人を殺さないようにしてる
なるべく人を殺さないようにする。切腹も止める。

・講釈の席では釣り銭を受け取らない
講釈の席(演芸所)では釣り銭は受け取らない。しかし身形には構わない。汚い服を着ている。

・基本的に明るい
明るい。よく笑う。友だちを誘って酒を飲んだり遊んだりする。

・その他
工事現場のオッサンとも仲良くなれば偉い人とも仲良くなる。不思議な性格。なんとなく偉い奴だから意見をみんなが聞いた。

この当時は龍馬と実際に会ったことのある人も生存していて、普通のオッサンも感想みたいなの残してるんですけど、概ね好意的、明治維新の千両役者みたいな評価も発見しました。

なにはともあれ、とにかく魅力的な人ではあったみたいですね。

・龍馬は強いと思われてたのか
もう一つ、龍馬は強いと思われてたのかっていう話です。結論を先に書いちゃうと、明治の時点でも龍馬は強いって思われてました。

いやいや龍馬はそんなに強くないっていう論拠のひとつに、龍馬が持ってた北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の目録はなぎなたで剣術は強くないみたいなのがあるんだけど、そもそも講談の世界では千葉周作よりも山村熊蔵のほうが強いです。

山村熊蔵っていうのは三十人力の穴沢流の達人、穴沢流は天下の平和の為に徳川の止流儀、つまり教えちゃ駄目ってことになってる。なんで止流儀になってるかというと、いつ刀を抜いて、いつ刀を仕舞ったのかもわからないうちに、首が飛んでるというおそろしい流儀だからです。この人は1日に12の道場破りしたうえで、ついでに千葉周作をやっつけてる。あと120人の武士を、畳返しで転ばしたりしてるので、人を殺すのも簡単です。講談の世界においては、幕末で一番に強いのはこの人です。

それで龍馬はどうかっていうと、なかなか強い。道場破りしまくって、勝って金もらいながら、旅行しまくったりしています。恐らく田舎の道場では、負けないだろうって思われてたのでしょう。

それじゃ都会ではどうか、近藤勇が主人公の講談では、試合で勇に勝ってる。
ただしその後でキレた近藤勇に、真剣で切られそうになって、逃走したりもしています。これは講談の世界で、勇は真剣勝負では別格っていう扱いだから、仕方ないです。

あと大政奉還ダメになったら海援隊で徳川と戦うだとか、二条城から徳川慶喜が出てきたところでマジ暗殺するみたいな場面も出て来ます。明治の龍馬は、武闘派っていう認識が今より強かったみたいですね。

・真実は重要だけど
僕は思うんですけど、こういう昔の話で重要なのは、真実はどうあれ周囲の人にどう思われていたかということです。人殺しが日常茶飯事の時代に、1対1で人と話をする場合、そいつを自分がどう思っているのかっていうのが、結論に影響を与えないわけがない。

こいつとだったら100回けんかしても100回勝てるわっていう人が相手なら、多少はナメたところが出てくるだろうし、こいつ怒らせたら切りかかってきて殺される可能性あるよなーっていう感じだったら、慎重に話をする。

龍馬が生きてる時代の龍馬像みたいなのがうそだったとしても、他人が豪いとか強いと思い込んでたら、優位に交渉出来るわけで、それはもう真実と変わらないわけです。

そんなわけで今日は、坂本龍馬が山村熊蔵に殺されなくて良かったというお話でした。

・補足
・日露戦争と龍馬
去る明治37年2月の初め、恐れ多くも皇后陛下のまくら元に一人の士が表われて、日露戦争必勝と海軍の守護を誓う。

不思議に思った皇后陛下が御側の人に尋ねてみると、なんとその人物は坂本龍馬だった。

明治4年に、龍馬のおいである高杉太郎に坂本の名を継がせ、14年には靖国神社にまつり、24年の4月には特旨を以って従四位に、この朝恩に報いるため、龍馬が地下から出てきたっていうお話は、かなり有名だったみたいです。

龍馬が主人公の本には必ず出てくるし、今から考えても熱いストーリーだと思う。

ただ不思議なのは、日露戦争を描いた講談本に、この話は出てこない。だからこの話がただのプロパガンダで、大うそっていうのはなんか違和感ありますね。

本当にまくら元に龍馬が立ったってことにしておくのが面白くていいと思う。

・剣術を始めた時期
龍馬が弱いみたいなのの論拠に、剣術を始めたのが14だか15歳の時で、遅すぎるみたいな話もどっかで見ました。

これってちょっと面白い話で、今の英才教育ってなんでも早い時期にやったほうが良いみたいなのがあるけど、昔の剣術はちょっと違っていて、体が固まるまでに修業させるのは悪いっていう考えがありました。それまでは野山を走らせたり、勇壮な遊びをさせておいたほうが、後々強くなるみたいな考え方。

早い時期から修業してる人もいるので、なんともいえないんですけど、親父の方針やら子供の成長具合から、あえて遅い時期から修業させるっていうのは、わりと自然な話だと思います。

執筆: この記事はコトリコさんのブログからご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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