メタフィジカルな神話、テキストの宇宙〜円城塔『ムーンシャイン』
四作品を収録した、円城塔の最新短篇集。著者は「あとがき」で、〔書き手の中には一貫したなにかがあるのであり、この全体の迷走感は迷走感でそれなりのまとまりがある〕と記している。円城塔の中にあるなにかは余人に知るよしもないが、作品として外化された作品には、円城塔ならではのなにかが瞭然とある。それは文体(とくに理屈を綴るときの屈折した文のつらねかた)であり、モチーフ(情報理論や数学や物語論)であり、小説をトポロジカルな空間として構成する手つきである。端的に言えば、作者名を見ずともページを開いたとたん、読者は高確率で円城作品だとわかる。
しかし、あらためて考えると、文章というものは無機的なテキスト(情報)であり、そこに個性を見てしまうというのは、どういうことだろう。これは素朴な、しかし哲学的な疑問である。
この作品集の掉尾をかざる「ローラのオリジナル」には、その疑問がみごとに作品化されている。これは生成AIをめぐる物語だ。
例によって凝った構成で、最初に語りはじめるわたし(「業者」とも表現される)と、そのわたしが引用する内部テキストの語り手であるわたし(いわば「作者」だ)とがあって、いちおう枠物語形式ではあるが、枠内・枠外という段差は物語が進むにつれて崩れていく。
内部テキストの語り手であるわたしは、自らの過去の想い出からイメージを引きだして、ローラという名の生成AIをつくった。その過程にコンピュータを用いた夥しい試作があり、その試作のなかにもローラらしきイメージは鏡の破片が写す像のように宿っている。わたしはローラの公開はおろか、その存在を仄めかすことすらしなかった。しかし、いつのまにか世の中に躍るローラという動画が流通していることを、わたしは発見してしまう。
わたしは躍るローラの正体(それとも来歴というべきか本質というべきか)を求めて、動画に映っていた風景を手がかりに、そこが自分の生まれた街だと特定し、現地へと赴く。そこで偶然見かけたひとりの若者は、ローラの気配を帯びていた。しかし、その気配とはなんだろう? ローラというイメージはいかにしてローラたり得ているのだろう?
「ローラのオリジナル」というタイトルは、ウラジーミル・ナボコフ(円城塔にもまして技巧を凝らした作品で名高い作家である)の未完の遺作と同じだが、本書の「あとがき」で円城塔が明かしているところによれば、関係はないそうだ。ナボコフのローラはLauraであり、円城のほうのローラはLoRAである。LoRAはLow Rank Adaptationの略で、機械学習の技法だ。
こういうふうに、数学や科学の専門用語を修辞的に、物語内容とむすびつくようなかたちで作品にちりばめていくあたり、円城塔の円城塔たるところと思うが、では、その要素が円城塔のオリジナルを決定していると断じてよいかは、あいかわらずわからない。
ほかの三作品については簡単に。
「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」祖父がのこしたノートにあった文字列「■■■■■■■■」は、ひとつひとつの■は字送りをしないで印字した文章だった。■のなかに字が積層されているのだ。語り手が、この「■■■■■■■■」を解読すると、そこには八つの奇譚が記されていた。これも枠物語形式で語られる作品で、例によって枠内と枠外とが内容的に共振するつくりになっている。ひとつひとつの奇譚は、メタフィジカルな寓話であり、歴史のどこかに置き忘れられた神話だ。
表題作「ムーンシャイン」は、飛びぬけた共感覚(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚が多重化している)ゆえ、数字を実感してしまう少女を、ある諜報機関が利用しようとしている。……というプロットは、あくまで作品の一部にすぎず、むしろ、数字の実感という事態そのものの文章化を試みた作品かもしれない。〔モンスター群の表現とモジュラス関数のフーリエ展開の係数の間に奇妙な類似を発見する〕などという一文がさらりと出てきてしまうので、耐性のない読者は目を白黒させるだろう。
「遍歴」は、他人の人生を繰り返し体験する能力(というより定め)を持った人間の物語。そうした生まれ変わりを教義の中心においているのが〈エルゴード教団〉だが、能力を持った人間がかならずしも教団の構成員ではない。通常、生まれ変わっているあいだは、それ以前の他の人生を生きた記憶は消えてしまうが、主人公(のひとり)である山一はこれまでに生きたすべての人生の記憶を持って覚醒してしまう。
エルゴードというネーミングからわかるように(「エルゴード仮説」で検索してみてください)、この作品では、宇宙の統計的普遍性が意識されているのだが、おそらく円城塔にとってそれは隠し味のようなものなのだろう。教団が「kT Log2」をロゴとして採用しているというくすぐり(「マクスウェルの悪魔」で検索してみてください)と同様、あまり真に受けて作品を考察すると、解釈の森へと迷いこんでしまう。まあ、読書においてどこかへ迷いこむのは、むしろ本望という気もするが。
(牧眞司)
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