「共存」するために「共感」よりも大切なこと。森田真生『センス・オブ・ワンダー』インタビュー




先駆的に化学物質による環境汚染を訴え、今に続く環境学の嚆矢ともなった『沈黙の春』の著者であり科学者であるレイチェル・カーソン。そのカーソンが最後に遺した未完の作品であり、多くの人の心を掴んだ『センス・オブ・ワンダー』に待望の新訳が発売。著者は独立研究者・森田真生。本著は新訳とともに、未完の作品の続きとして森田自身が京都での暮らしを書き継ぐ「僕たちの『センス・オブ・ワンダー』」で構成されている。カーソンの没後60年を迎える今、この本はどんなメッセージを伝えてくれるのだろうか。自然と人間の関わり方について著者に伺った。


──『センス・オブ・ワンダー』の原著を読んだ時の率直な感想は?


森田「最初の率直な印象としては、注意深く、冷静な文体で書かれている作品だと感じました。レイチェル・カーソンといえば、環境の危機を告発する『沈黙の春』の著者という印象が強かったので、『センス・オブ・ワンダー』の静かな文体がまずはとても印象的でした」


──読んでいて気付いた、興味深い箇所はありますか?


森田「カーソンはたとえば、自分自身で経験した事実の回想など、断言してしまったほうが自然な場面でも、「I think」とあえて留保をつけているような箇所が複数あって、それが不思議でもあり、面白いとも思いました。カーソンは『沈黙の春』以前に“海の三部作”と呼ばれる作品群を書いていますが、どれもカーソンの文学的な感性と科学的な知識、そして観察力が結合した作品です。そうした作品を読み返していても、科学的な事実についてすごく注意深く、慎重に書いていることがわかります。科学は日進月歩の世界ですから、その時点でわかっていることだけに基づいて断定してしまうとすぐに古びてしまいます。言葉の詩的な完成度をどこまでも追求しながら同時に、わからないことをわからないと留保しておく神経質なまでの慎重さが同居していることが、カーソンの文章のひとつの大きな特徴だと思います」


──『センス・オブ・ワンダー』は上遠恵子さんの訳が日本では長く読まれています。その上で新訳を手掛けるというのはそれなりに心理的ハードルが高かったのでは?


森田「僕は自分が新訳の翻訳者にふさわしいと自信を持っていたわけではないのですが、挑戦してみたいと感じました。というのも、「環境」や「エコロジー」といった主題について考えようとした場合、カーソンのテキストを避けて通ることはできません。ただ、カーソンの『沈黙の春』に代表されるような環境思想は、自然と人間を分けすぎていると僕は思っていました。だからこそ、一度カーソンのテキストをしっかり読み込んだうえで、どこに賛同でき、どこは批判しなければならないのか、自分なりに明らかにしてみたいという気持ちがありました。翻訳というのは、すごく時間をかけてテキストを読み込んでいくことでもありますから、訳者としてテキストと向き合いながら、このテキストの核心といえるものをつかんで、そこの何を受け継ぎ、どこを考え直していく必要があるか、しっかり考えてみたいと思いました」


──『センス・オブ・ワンダー』は未完の作品です。その中から核心をつかむのは難しい作業だったと察します。


森田「逆に、もし『センス・オブ・ワンダー』が完成されていたら、僕はこの本の訳者になれなかったかもしれないと思います。未完であることによって、このテキスト自体は非常に開かれていると感じます。ここから先をさまざまなかたちで展開できる可能性がある。今回出版した本は新訳の後半に「僕たちの『センス・オブ・ワンダー』」という、僕たち家族の京都の物語を書いています。そこでは人間と自然が混ざっているし、人工物も登場する。人間の活動と自然が融合する物語も接続可能であるような、ニュートラルで懐の深い面がこの原著にはあると思います」




──これまで発売されてきた『センス・オブ・ワンダー」は素晴らしい自然の風景写真が挟まっていますが、本著は西村ツチカさんのイラストですね。それも自然以外のものを描くという意識からでしょうか。


森田「まず、ただ自然は美しいという本にはしたくなかった。自然は美しいだけではなくて、恐ろしかったり、不気味だったり、さらに人間の活動と混ざっていたりする。そういった自然を表現するために、ツチカさんのイラストの力を借りる必要がありました。自然が持っている繊細な多様性や両立するはずのないもの、たとえばアメリカのメイン州と京都、70年前と現在、全く一緒にならないはずのものを一つに合わせることができる力がツチカさんの絵にはあると思います」


──原著と向き合い、自身の翻訳作業に手応えを感じた瞬間はありましたか?


森田「翻訳し始めてから2年以上経っていたときです。このテキストの中で僕が一番大事な場面じゃないかと思っているのが、ロジャー君が3歳の時にカーソンの膝の上に座って、海と夜空と月を見ながら「I’m glad we came.」と囁くシーン。この言葉を書き残すことができたことは、カーソン自身にとってもとても大切なことだったのではないかと思うんですが、これをどう訳すかが意外と難しい。英語なので主語のWeがはっきり書いてあるんですけど、そのまま日本語で訳すと、「僕たちはここに来れてよかった」とか、「おばさんと一緒にこれてよかった」になる。でも、3歳の子はそうは言わない。ただ、シンプルに「きてよかった」とすると「I’m glad “ I” came.」と区別できなくなってしまう。ロジャーくんがWeを使ったことはすごく大事で、だからそれを訳さなくてはいけない。あれこれ考えていたとき、ちょうど3歳だった次男の声で「きてよかったね」と聞こえた瞬間があったんです。「ね」にWeの持つ、一緒に感じる共感の意味が込められていると気づいて、この言葉にたどり着いた。こういうプロセスは、時間をかけて言葉の手入れをしているような感覚でした」


──言葉の手入れというと?


森田「僕は京都で、いつも庭の手入れをしています。落ち葉を拾ったり、ちょっと伸びすぎた枝を切ったりすると木漏れ日が差し込んで、こんなとこに花が咲いてたんだみたいな発見をすることがある。今回も、すごくいい訳をしてやろうとか、独自性を出そうというより、一つひとつの言葉を点検しながら手入れをしていたら、あるとき70年前からの光が届いたという感覚でした。70年前の原作からずっとあった「I’m glad we came.」というロジャーの言葉は、これからもきっと未来に届いていくでしょう。一方で、「きてよかったね」という日本語は、自分がこのテキストと向き合い続ける中で初めて見つけることができた言葉です。それが見つかったときに翻訳という営みの面白さをすごく感じましたし、訳者になれてよかったと思いました」


──翻訳をされていたのはコロナ禍ですね。今回の執筆に関して特殊な環境下の影響はありましたか?


森田「影響はあったかもしれません。しかし、それだけではなく様々な要因があったと思います。2019年に庭を愛していた祖父がなくなり、それ以降僕も庭仕事を始めました。それに、子どもたちの年齢の影響もあると思います。いずれにしても、この時期にカーソンのテキストと向き合えたことは、僕にとってありがたいことでした」


──私は人と接触ができないコロナ禍で、散歩をしたり植物を育てるなどして、自然や環境を気にするようになりました。


森田「忙しなくあちこちに移動したりしていると、変化ではなく結果だけに気づくんですよね。いつの間にか花が咲いて、いつの間にか枯れていたと。パンデミックが到来したときは、移動が難しくなって、同じ場所に居続ける時間が多くなりました。その結果、ある種の定点観測というか、同じ場所にいても実は世界は変わっていると気づく。そういう体験をした人は結構多かったのかなと思います」





──コロナ禍によって、環境破壊も緩和されたという話もありました。いかに人間の経済活動が環境へのダメージにつながっているかを考えさせられた出来事でもあります。


森田「インド人の英語作家、アミタヴ・ゴーシュ氏の『The Living Mountain』という作品があります。聖なる山にむやみに立ち入らないという教えをずっと守り続けている人々のもとに、近代的な入植者たちがやってくる。山には素晴らしい実りや貴重な鉱物がたくさん眠っていて、それを手にすることができれば、莫大な富も得られる。聖なる山などという前近代的な発想を捨て、豊かな資源を取りに行こうというんです。交渉は決別したものの、最終的に入植者たちは武力を行使し、一部の原住民たちと山へ登っていきます。しかし、登れば登るほど雪崩れがおきて麓の人々の暮らしは壊されていく。人々の暮らしを守るためにも富が必要だとさらに登っていくものの、雪崩れはひどくなるばかり。全員では登れないということで、やがて原住民は帰され、続いて入植者側の科学者たちも帰されていく。最終的に一部の権力者や軍人だけが、機械を使ってさらに山を登っていくんです。科学者は自分たちの過ちに気づき、山を傷つけたことを後悔し、山を救わなければと言い出す。するとこれを聞いた原住民の老女が呆れて激怒するんです。山を救うなんて子どもを見下すような言い方に対して。圧倒的に偉大な存在である山は人間が守れるようなものではない。人間は山を守ったりとか、傷つけてしまった自分たちがいけないと結論を出すことができるような特権的な存在ではなくて、人間はあくまで自然の一部でしかない。傲慢になるなと。


自然を救う、直すという発想自体が、自然と人間を対立させている思想で、まるで特別な場所に人間だけがいるかのような発想です。人間は、人間よりも偉大な山や自然に生かされている。それはきっと人間にも役割があるからです。山を救う、地球を救うなどと上から目線で考えるのではなく、自分たちがいるそれぞれの場所で、これからやってくるすべての人ちが「きてよかったね」と思えるような場所をつくっていく。そのためになにができるかを考えていきたい」

──自然との関わりで得た気づきは何かありますか?


森田「ヴァージニア・ウルフは、花や植物が人間にとって慰めになるのは「無関心だからだ」と書いています。人が多い街中だと、みんなが自分自身に対して関心を持っている。そして関心を持たれているという意識を持たないといけない。でも、たとえば椿とかはまったく僕に関心がないんです。自然の生態系の素晴らしいところは、お互いに対してほとんど無関心なのに共存していることです。椿が一生懸命に虫を誘おうとして花を開こうとしている足元で、ミミズが這っている。このミミズは椿のことに関心はないし、椿もミミズに関心がない。なのに一緒にいるんです。僕たちは互いのすべてに対して共感しなくても共存はできる。自然はそのことを教えてくれる」


──生まれ持った「センス・オブ・ワンダー」を保ち続けるのは容易なことではありません。この社会のシステムに適応するためには大人としての振る舞いが求められ、そのために感受性を殺していかなければいけないように感じます。世界に対して開きすぎると、むしろ傷つくことの方が多く、大人になって余計に「センス・オブ・ワンダー」を育む難しさを感じます。


森田「おっしゃる通り、大人の方が子どもより世界に対して敏感という面はあると思います。良いことも悪いことも、子ども以上に繊細に感じ取れるようになってくるから、自分をちゃんと守らなければいけない。そのために、閉ざすことも必要になります。自然界でも、たとえばサナギってすごいじゃないですか。中がドロドロになっていてダメージを受けやすいから、いったんほぼ動きを止めていますよね。サナギが1ヶ月のときもあるし、半年のときもあるし、それで越冬することもあるし、人それぞれなんですよ。サナギの時期はとても大事ですよ。生まれ変わったり、自分自身が大きく変わっていくときに、しばし感じない存在になるというのが大事なこともある。感じることが素晴らしい、感じないことが悪いっていうことではないと思います」


──私たちは大人になっても「センス・オブ・ワンダー」を育むことは可能でしょうか。


森田「もちろん可能です。それに、いわゆる「自然」と対峙するだけがそのための方法ではない。最近僕の子どもたちは、どんぐりを拾うのと同じ熱量で、ボルトやバネなど道端に落ちている「ガラクタ」を集めて遊んでますが、そこにも「センス・オブ・ワンダー」はあるし、もちろん数学をしていても「センス・オブ・ワンダー」がある。そもそも万物にある種の無尽蔵性がある。「きてよかったね」と思える場所は、何も森や自然だけではなく、大都会のビルの屋上かもしれないし、インドの山奥の村の近くの牧場かもしれない。それぞれがいる場所をそう感じられるようにするには何ができるか。それを考えるときに「センス・オブ・ワンダー」は、自然と開かれていくのだと思います」


illustration Tsuchika Nishimura(https://www.instagram.com/tsuchikanishimura/
text Daisuke Watanuki(https://www.instagram.com/watanukinow/


森田真生『センス・オブ・ワンダー』
(筑摩書房)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480860965/



森田真生
1985年生まれ。独立研究者。京都を拠点に研究・執筆の傍ら、国内外で様々なトークライブを行っている。著書『数学する身体』で第15回小林秀雄賞受賞、『計算する生命』で第10回河合隼雄学芸賞受賞、ほかに 『偶然の散歩』『僕たちはどう生きるか』『数学の贈り物』絵本『アリになった数学者』などがある。

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