楠谷佑『案山子の村の殺人』の”改めの美学”に唸る!
改めの美学とでも言うべきか。
同好の士にしか理解してもらえないと思うが、謎解き小説を愛する者には、収まりのよさというか、細部の造作がきちんとしていることを尊ぶ気風がある。楠谷佑『案山子の村の殺人』(東京創元社)はそうした読者にこそお薦めしたい長篇だ。
造作がきちんとしている、というのはつまり、個々の部品が設計図通り作られているだけではなく、嵌め合わせたときにすっと入るように、また手触りまでも考えて、紙やすりをかけ、砥の粉を塗って磨いたような感じになっていることを言う。形がだいたい合っているだけでは駄目なのである。その部品に触って気持ちいいぐらいではなければ。
謎解き小説には余詰めという用語がある。詰将棋から来たもので、作者の意図した以外の、別解のことを言う。それがないかどうか検討するのがつまり、改めだ。これはくどくやりすぎると小説にならなくなる。A地点からB地点まで最短となる線分がすなわち直線ABだが、非ユークリッド幾何学空間ではそれは無限に存在する、とか言いだすと話はまとまらなくなる。そういうことだ。
思考を硬直させず、常に他の見方はないかと頭を巡らせるようにする。それが大事なのである。余詰め探し以外にも、この姿勢が大事なときがある。
『案山子の村の殺人』は、雪で閉ざされた村で起きた殺人事件を描いた長篇だ。話が進んでいき、ある時点で殺人事件が起きる。死体が発見されたのは雪が降り積もった朝で、現場には犯人のものと思われる足跡はつけられていなかった。この作品の探偵役は、大学生の宇月理久と篠倉真舟、いとこ同士の二人である。「足跡なき殺人」について考えようと言い出す理久を真舟は止める。どうやってやったか、というハウダニットは意味がない局面だからだ。真舟は言う。「あのねえ、ミステリ的に面白い解を求めちゃうのが理久の悪い癖だよ。だってさあ、被害者の周りに足跡がなかったことで、犯人はなにか得をしたの?」と。
この指摘によって勇み足をしかけていた理久は引き戻され、より有益な方向に二人の推理は向かっていくことになる。最終的に真相が明かされてからこのページまで戻ってみると、真舟の針路修正は正しかったことがわかるのである。読者の目を横に向けるための小細工ではない。この足跡の問題については、もう少し後で別の登場人物から言及があり、真舟自身が気づいていなかった点に読者の目を向けさせることになる。そのようにして、一つの出来事、手がかりについて、さまざまに角度を変えて光が当てられていく。
これが、改めの美学だ。作者は手を抜かない。執拗ではあるが、くどくはなく、非ユークリッド幾何学に言及するような、無駄な選択肢を読者につきつけはしない。それゆえにとても読みやすい。改めの美学、と言った所以である。
あらすじも書かないうちにかなり先走ってしまった。理久と真舟は、大学生ながらプロのミステリー作家でもある。二人で一つ、楠谷佑という筆名を使って書いているのである。理久が執筆担当、真舟がプロット担当だ。言うまでもなくこれは、アメリカのミステリー作家エラリー・クイーンの本歌取りである。クイーンを名乗った二人、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーもいとこ同士だった。作者と探偵が同名という趣向は先例があり、法月綸太郎がいる。探偵ではなくてワトスン役であれば、有栖川有栖もそうだ。しかし、いとこ同士の二人を主人公にするところまで徹底しているのはやはり珍しい。
この理久と真舟が取り掛かっている次回作が田舎の村を舞台にしたもので、取材の必要が生じる。そこで大学の友人である秀島旅路の実家が営む旅館にやってくるのである。旅館がある宵待村は埼玉県秩父地方の山奥にあり、村中に案山子が立てられているという特徴があった。農具であるだけではなく民俗信仰の対象なのだ。二人が到着早々、案山子に毒が塗られたボウガンの矢が撃ち込まれたり、別の案山子が消失したり、という事件が起きる。愉快犯の暴漢が村を荒らしているのか。また、村では以前に学生が崖から転落して死亡する事故が起きていたことも判明し、なかなか執筆に専念できるような空気にはならない。そんな中でついに、人死にが出てしまうのである。
豪雪が原因で村は孤立した状況になるが、いわゆるクローズド・サークルものとは異なり、容疑者が少数に限定されるようなことはない。宵待村全体、住民や滞在客全員が容疑の対象になるのだ。登場人物は比較的多く、それが前提の謎解きになっている。登場人物が交わす会話や描かれた行動の中に手がかりが忍ばされているのである。出てくる人間が多いのに混乱なく読めるのは、見せ方が整理されているからだろう。たとえば序盤では、誰もが眉をひそめるような嫌われ者が登場する。その人物を中心として他のキャラクターが紹介されていくので、人間関係が頭に入りやすいのである。地方を舞台にした英国探偵小説のような雰囲気がある。
推理は理久と真舟の交わす会話の中で行われていく。二人が取得した情報はすぐ開陳されるので、切り札を隠しておいて読者を驚かせるような箇所はない。クイーンばりに読者への挑戦状も挿入されている。しかも二段階に分けてである。この出し方に芸があり、きちんと解答を考えていた読者には嬉しいご褒美がある。真相を構成する要素は複数あり、そのどれに着目するかで到達する道筋は違うかもしれない。しかし、どれを通っても推理さえ正しければ必ず辿り着けるはずだ、と作者は胸を張るだろう。なぜならば、それだけの改めはやったから。そう言うに違いない。
楠谷佑はどちらかといえばライトノベル寄りのレーベルで執筆してきた作家で、一般向けの作品はまだ少ない。本作で多くのミステリーファンがその名を知ることになるだろう。飛び道具を使わず、手がかり呈示と論理的な推理という基本を忠実に守る。そうした作者がどれほどの知名度を獲得するか、今後が楽しみである。とにかくいい仕事をするのだ、楠谷佑は。この心地よい肌触りは、覚えておいて損がないはずである。
(杉江松恋)
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