シャーリイ・ジャクスンの衣鉢を継ぐ十八篇~『穏やかな死者たち』
名編集者として名高いエレン・ダトロウが編んだ、シャーリイ・ジャクスン・トリビュート・アンソロジー。寄稿者に求められたのは、ジャクスンの物語の焼き直しではなく、彼女自身や彼女の人生についての物語でもなく、あくまで「ジャクスン作品のエッセンス」「彼女と同種の感受性の発揮」である。なかなかハードルが高いが、そこはジャクスンをこよなく愛する面々(シャーリイ・ジャクスン賞や世界幻想文学大賞などを受賞している者も多い)だけあって、一筋縄ではいかない作品が集まった。
そのなかでも随一の傑作が、ケリー・リンク「スキンダーのヴェール」。「むかしむかし、四年生の夏になっても卒論を書き終えていない学生がおりました」ではじまる寓話仕立て(この風合いは翻訳を担当した中村融さんのセンスも大きい)だが、ベースとなるのは卒論を書きあぐねているアンディの冴えない日常である。その日常に奇妙なできごとがつぎつぎと交叉していく。
ボストンに住むアンディは旧友のハンナに頼まれ、ヴァーモントにある家の留守番(ハンナの代役)をすることになる。ただそこにいればいいだけの三週間に、できるだけ卒論に集中しよう。留守番のルールはふたつだけ。
ひとつは、家主であるスキンダーの友だちがあらわれたら、無条件に家に入れること。
もうひとつは、スキンダーがあらわれたら、絶対に家に入れないこと。これはスキンダー自身が定めたルールだと、ハンナは言う。
このルールが提示された時点で、読者はへんてこな展開がくるなと身構えるのだが、奇想小説の名手ケリー・リンクはその予想を軽々と飛びこえていく。日常的なことと非日常的なことの区別が曖昧になりながら、それも含めて平然と――むしろぬけぬけというか――日常なのだ。
留守番そのものがはじまる前、アンディがルームメイトのレスターの運転で、レスターの恋人のブロンウェンも乗せて、ボストンからヴァーモントへと向かうエピソードがある。そもそもアンディとレスターはまるで波長が合わず、それなのにレスターがわざわざアンディを送ってくれるというなりゆきもよくわからないのだが、道中でブロンウェンが脈絡もなく語る幽霊についての体験もよくわからない。ただそこにいて、何もしない幽霊だという。幽霊かどうかもわからない。
この幽霊話と、アンディがスキンダーの家で遭遇する一連のできごととのつながりも――そもそもつながりがあるのかないのかも――よくわからない。この浮遊するような感覚のまま、読者を最後まで連れていくのがケリー・リンクの絶妙なところだ。
エリザベス・ハンド「所有者直販物件」は、無人の家の中を見るのが好きなわたしと、同じ趣味の友人ローズの物語。ふたりはキャンプ地道路を散歩し、〈所有者直販物件〉という看板がついた建物を見つける。滲んだマジックで書かれた電話番号は、見覚えのない市外局番だ。来歴不明な空き家を題材として、不穏な気配が徐々に立ちこめていく怪奇小説。
ジェフリー・フォード「柵の出入り口」では、まず、語り手の子ども時代、隣家に住んでいた老女リータの追憶が語られる。夫が亡くなったあとの彼女はトレーニングをはじめ、身体を鍛えあげる。リータのタフネスは凄まじく、不良も強盗もイチコロだ。このあたりの展開は痛快でもあるが、むしろ超常的な事象に世界が痺れるようでもある。語り手は成長するにつれ、リータのことをときおり見る悪夢のなかで思いだすだけになっていたが、カレッジで教えるようになって二十五年がすぎたある日、教室にいきなりリータがあらわれる。昔と同じく、いや、昔以上の若く、危険な身体とエネルギーを備えて。そして思いがけない方向へ、物語が転がりだす。
ジョシュ・マラーマン「晩餐」は、数学が全面的に禁じられたディストピアのありさまを、家族の夕食風景を通じて描く。そこにいるのは両親と兄と語り手のわたしだが、四人家族と口にすることすら(その言葉に四という数が入っているゆえに)許されない。しかし、数学はあらゆるもののなかにある。リチャード・マシスン的なシチュエーションを、ジャクスンの濃厚なフレーバーで仕上げた小品。
全十八篇。巻末に収められた深緑野分「解説」では、”ジャクスンらしさ”が手際良く分析されている。
(牧眞司)
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。