記憶を通じて世界を見る人々〜ベルンハルト・シュリンク短篇集『別れの色彩』

記憶を通じて世界を見る人々〜ベルンハルト・シュリンク短篇集『別れの色彩』

 すべてが記憶の物語である。

『別れの色彩』(新潮クレスト・ブックス)は、ドイツ語圏を代表する現代作家の一人であり、『朗読者』(現・新潮文庫)他の作品でも日本の読者にも人気の高いベルンハルト・シュリンクが、約十年ぶりに発表した短篇集だ。

 巻頭の「人工知能」では、父の過去に遡ろうとする娘と、それを秘めたままにさせようとする男の関係が描かれる。語り手の〈ぼく〉と友人のアンドレアスは数学者である。旧東ドイツにおいては、総合情報科学と情報工学の分野において若いうちから頭角を現した。アンドレアスはベルリンの壁が建設されたあとに西側への逃亡を図り失敗、四年間を刑務所で過ごし、一年間工場で働いた後に研究所に復帰した。天才であった彼を当局も捨ておかなかったのだ。〈ぼく〉は同じ施設で所長を務めたが、東西合併後は職を失った。権力に近い地位にいたと見なされたためだ。しかし独立してITコンサルタントとして成功を収め、現在に至っている。

その〈ぼく〉を亡きアンドレアスの娘・レーナが訪ねてくる。旧東ドイツの国家公安局の書類は保管して残されている。父に関する書類の閲覧を申し込もうと考えるレーナを〈ぼく〉は止める。そこに書かれていることが真実だとは限らない。故人の名誉を棄損したくなければ、思いとどまったほうがいいのではないか、と。

〈ぼく〉が信用ならざる語り手であるということは読者にもすぐわかるだろう。彼はレーナの心理を次のように考える。ねじ曲がった思考である。

――何も成し遂げなかった人々は、せめて犠牲者であろうとする。犠牲者だった人は、悪のもとで苦しんだのだから、自ら悪いことをしたはずはない、という話になるのだ。犠牲者だった人に対しては他の人間が悪人となり、犠牲者自身は無罪に違いないのだ。レーナは人生において、たいしたことを成し遂げていなかった。自分自身が犠牲者になれなければ、せめて犠牲者の娘であろうとしたのだった。

 こうして自己を正当化した〈ぼく〉は愚かな行為をしようとする友人の娘に慈愛の眼差しを注ぎ続ける。その彼の、真の動機は何かということが話の主眼である。彼にとって過去とは心の傷を癒してくれる優しい塗り薬のようなものだ。その厚い被膜の中で、ただ感慨に浸ろうとする姿は哀れである。

 続く「アンナとのピクニック」の語り手〈ぼく〉も年老いた男である。というよりも収録作の主人公は、「ペンダント」を除いてすべて男性の老人なのだ。兄に先立たれた男が、彼が自分にした仕打ちの理不尽さから、その心情を推察するという内容の「ダニエル、マイ・ブラザー」は、松永美穂の訳者あとがきによれば2018年に美術史の専門家だった兄ヴィルヘルムを亡くしたシュリンク自身が投影されているという。シュリンクはベルリンとニューヨークの二ヶ所に居を構えて生活しており、その生活が反映された作品も多い。作家自身の影が濃い作品は多いが、あくまでフィクションとしての独自性を確保できているのはシュリンクの手腕というものだろう。「ダニエル、マイ・ブラザー」には喪失の哀しみが如実だが、一方でそんな感情に浸る主人公を客観的に見る視座も備わっているのである。

 話が逸れた。「アンナとのピクニック」の語り手が、結婚経験がなく現在も一人で暮らしている年老いた男性だった、という話である。彼の元に警察官がやってくるところから物語は始まる。部屋の窓から見える場所で、若い女性が殺害されたのだ。彼女の名前はアンナという。16年前に家族と共にカザフスタンから移住してきたのである。読み進めていくと、幼い頃のアンナを語り手が可愛がっていたことがわかる。そんな女性が殺されたというのに、なぜか彼は警察への協力を拒む。その態度は頑なですらある。なぜか、というのが興味の中心となる。

 この作品が最もミステリー色が強く、警察小説のアンソロジーなどに取られていても違和感がないように思う。次の「姉弟の音楽」はティーンエイジャーの頃に自分の気を惹くようなそぶりをした女性と主人公が再会する話だ。彼女が自己本位に見える行動をとったのはなぜだったのか、ということが最後に判る仕掛けになっている。人の思いには不純物が混じるため、真の姿が見えないこともある。それが時の経過によって結晶化することで、素直に振り返れるようになる。そうした過去の思いが動機の謎として描かれた短篇が本書にはいくつか含まれている。

 血のつながらない関係の我が子がとった意外な行動が描かれる「愛娘」や、倍以上も年齢が離れた恋人の存在が自分にとっていかに意味のあるものかを語り手が突然悟る「記念日」など、過去への遡行を含まない作品もある。それらの作品にも共通しているのは、語り手が中年から老境の人々で、若い世代との接触によって自身を顧みる瞬間があるということだ。語り手は自分の中に蓄積した記憶を通じて世界を見ているのであり、そことは無関係に生きる若者の姿は、驚きとして映るのである。時間と共に生きるしかない人間は、過去に囚われたり、現実に戸惑ったりする。そうした姿を描いた作品集だ。題名に「別れ」の文字があるのは、時間の経過と共に必然的に訪れる局面だからだろう。さまざまな別れが描かれる。中にはいつか訪れるであろう別れに関する物語もある。登場人物たちの心の揺れは、そのまま読んでいる側にも伝わってくるようで、一篇が終わるごとにページをめくる手をとめて、その感触を楽しんだ。

(杉江松恋)

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