画家MAYA MAXX(マヤマックス)さんが330人の集落に移住。北海道の豪雪地域に描いた”巨大クマ”が人々の心のよりどころに。岩見沢市美流渡
北海道有数の豪雪地帯、岩見沢市。その山あいにある330人の集落・美流渡(みると)地区に2020年夏、画家のMAYA MAXX(マヤマックス)さんが移住。MAYAさんはラフォーレ原宿での個展や子ども番組などへの出演を通じて人気を集め、絵本作家としても多くのファンを持つ。これまで都会で活動するイメージが強かったが、一転して過疎地での制作をスタートさせ、まちじゅうに絵を描く活動も展開。「絵を一目見てみたい」と美流渡を訪ねた人は5000人を超えた。同じ美流渡に住み、地域活動の運営を担当する筆者が、移住から2年半のMAYAさんの取り組みについてレポートする。
MAYA MAXXさんの絵本。読者の声により復刊したのが『トンちゃんてそういうネコ』(汐文社)。雑誌で発表した『ぱんだちゃん』(福音館書店)は1月に単行本化された(撮影/久保ヒデキ)
長屋の4世帯を利活用。美流渡にアトリエを開いて
美流渡地区は元炭鉱街。道道38号線のわずか2kmほどのエリアに、炭鉱が活況を呈した時代は1万人がひしめき合って暮らしていた。当時を知る人は、労働者の住宅が所狭しと建てられ「美流渡には緑がなかった」と語る。昭和40年代に炭鉱が閉山すると急激な人口流出がおこり、現在は330人が暮らす。住宅があった場所の多くは自然に返っており、いまでは緑豊かな山里の風景が広がっている。
MAYAさんのアトリエがある地区。民家はまばらで森に囲まれている(撮影/久保ヒデキ)
人口減少がある一方で、1980年代からポツポツと移住者が集まるようになっていた。その中には陶芸家や木工作家、やがては薪窯のパン屋などがあった。移住したほとんどの人が、この地に縁のある友人に土地や空き家を勧められたことがきっかけ。
筆者自身も知人を介して5年前に美流渡の古家を取得。岩見沢市の街中から引越した。
MAYAさんの移住もケースは同じで、実は筆者が「空き家をアトリエとして改修してはどうか?」と声を掛けたことによる。MAYAさんとは取材をきっかけに20年来の友人だった。
この時期、個性的な移住者が多いまちとしてメディアなどでも紹介されることが増え、町会に「空き家はないか?」という問い合わせが入るようになっていた。そこで町会と市が連携し、取り壊し予定となっていた元教員住宅を移住者支援住宅として利活用することとした。住宅は4世帯が入った長屋。一棟すべてを借りれば、十分な広さのアトリエがつくれるのではないかと思った。
元教員住宅。1棟に4世帯が暮らしていた。窓だった部分や扉にMAYAさんは絵を描いた(撮影/久保ヒデキ)
そのときMAYAさんは、10年間の京都での作品発表に区切りをつけ、東京に戻っていた。知人の住宅の一室をアトリエとして借りていたが、大作を何枚も同時に描けるほどの広さはなかった。そんなこともあって美流渡でアトリエをつくったらどうかという筆者の申し出に「それもいいかもね」と軽やかに答えた。以前から、イヌイットなどの北方民族に憧れを抱き、いずれは北に行ってみたいという思いもあった。
MAYA MAXXさん。1993年よりこの名で活動を開始。画家であり絵本も多数手掛ける(撮影/久保ヒデキ)
最初は東京との二拠点を考えていたが、新型コロナウイルスの感染が深刻化。展覧会開催予定なども延期となり、都道府県をまたぐ移動にも制限があったことから、東京を離れ美流渡に完全移住することを決めた。
改修は、長沼でリフォーム工事を手掛ける「yomogiya」に依頼。内壁の塗装はMAYAさんと友人らで行うこととした。アトリエは白いペンキを3層塗った。「絵よりも毎日見るものだから」とムラなく仕上げた(撮影/來嶋路子)
長屋の2世帯分は境の壁の一部を壊してつなぎアトリエとした。1世帯は住居。残りの1世帯は、作品の収蔵庫にしようと考えていたが、内装の仕上がりが美しかったこともあり、現在はギャラリーとして使っている。
アトリエの一角。部屋を仕切っていた壁、トイレ、風呂場などもすべて取り外し、できる限りスペースを広く取った(撮影/久保ヒデキ)
ギャラリーとして使われている空間。アトリエから絵を持ち出しここに展示すると客観的な目で見られるようになる(撮影/久保ヒデキ)
自然に身を置く中で、思っても見ない変化が起こって
真っ白なアトリエで、MAYAさんは制作を開始した。普段から構想をスケッチしたり下描きをしたりは一切しない。そのときの自分を介して出てきたものが画面に現れていく。美流渡で最初に描かれたのは、一面のグリーンで覆われた絵。それは、これまでほとんど使ったことがなかった色。
「緑というのは自然の色ですよね。いままでは理解できない、一番ぼんやりしている色として捉えていました」(MAYAさん)
京都や東京で描いていた絵は、黒や赤などコントラストの強い色を使い、線を多用していた。けれど、環境を変えたことによって、自分でも“思ってもみなかった”色彩による表現が生まれた。
緑は青味が強かったり黄色に傾いたりする曖昧さを持っているため、いままでは捉えどころのない色だったという。また緑を使うのが苦手という意識もあったそうだ(撮影/來嶋路子)
絵画と同じように“思ってもみなかった”活動が広がっていった。それはまちに絵を描く取り組みだ。発端は、MAYAさんのアトリエの近くに4年前に閉校となった旧美流渡小中学校の校舎があったことだ。
小学校と中学校が隣り合って立っており同じ時期に閉校した(撮影/佐々木育弥)
閉校してから校舎の1階には、豪雪で窓が割れないようにと雪除けの板が張られていた。あるときMAYAさんは「あそこに絵を描いたらいいんじゃないか」と語った。雪除けの板は全部で40枚以上。大きいものは一辺が5mにもなった。筆者が市や教育委員会との交渉の窓口となり、2021年8月から「窓板ペインティングプロジェクト」が実施されることとなった。道内各地からサポートしてくれる人々が集まり、約3カ月かけて絵が描かれた。
MAYAさんが輪郭を塗り、その中をサポートしてくれる人たちが塗った(撮影/來嶋路子)
メインとなる窓板は、MAYAさんが一人で描いた。雨の日も風の日も、一人、板に向かう姿は地域の人々の心を打った。そばで校舎の草刈りをする人や、まだ下地のペンキが塗られていない板を見つけ、「ここを白く塗っていいですか?」と声を掛けてくれる人が現れた。
「閉校した校舎を今後どう活用するかは行政が検討すること」と考える住民は多かったが、MAYAさんのアクションによって「自分たちも校舎に対して何かできることがあるのではないか」という意識が芽生えていった。
中学校側の一番大きな窓板はMAYAさんが一人で描いた。「We MIRUTO」という言葉には「仲間がいて私はその中にいる」というメッセージが込められた(撮影/來嶋路子)
閉校して子ども達の声は聞こえなくなってしまったが、絵があることで新しいにぎわいが生まれた(撮影/久保ヒデキ)
ここにも絵を描いてほしい。そんな声が広がって
このプロジェクトから、次の展開が生まれた。美流渡とその周辺地区は過疎化が進み、2021年度で路線バスが廃止となり、代替交通としてコミュニティバスが運行されることとなった。このバスのラッピングデザインをMAYAさんにお願いできないだろうかと、窓板を制作する様子をいつも見ていた町会のみなさんから声が挙がった。MAYAさんはこの依頼に「デザインをするのではなくて、車体に直接描きたい」と応えた。実際に車体を前にするからこそ浮かぶイメージがあるという。「ここには雪を降らせてみよう」や「もっと動物を増やしていこう」とまるでキャンバスと対話をするかのように描いていった。
倉庫で車体のペイントを行った。「バンパーにクマがたくさんいたらかわいいよね!」と正座で描き続けた(撮影/來嶋路子)
路線バスの廃止は、まちに暗いニュースとして流れたが、MAYAさんが絵を描いている姿が新聞に掲載されると、一転して明るい話題となった。路線バスよりも運賃が安くなり、住民のニーズに合わせたルートとなったこともあり、平日の1日の乗降数はこれまでの倍。全国から視察が来るようになった。
また、停留所で止まっていると記念撮影する人も。美流渡に来るのにマイカーでなく「あえてバスで来ました」と語る旅行者に筆者も出会ったことがある。
「乗っているみなさんの気持ちが少しでも明るくなったら」と、車体には赤と青のシカが描かれ、その周りにクマやリスが散りばめられた(撮影/久保ヒデキ)
もう一人、窓板に絵を描く様子をずっと見守っていた人がいた。食品加工メーカー・モリタンの平井章裕社長だった。モリタンは北海道の素材を使った業務用のコロッケなどの調理品や水産加工品などを製造する指折りの大手。志文地区と美流渡地区に加工工場を持っていて、そこを行き来する車中でMAYAさんの絵を知った。そして、加工工場にも看板となる絵を描いてほしいと依頼した。岩見沢市を拠点としながらも、これまで市民と接点が希薄だったことから、地域の画家に絵を描いてもらうことで、新たな交流の糸口ができるのではないかと考えたという。
打ち合わせの席でMAYAさんは「看板では目立たない。あの食品倉庫に大きなクマの顔を描きたい」と語った。
志文には高さ10m、奥行き100 mにもなる食品冷凍庫があった。その壁は白く「あそこに絵があったらいいな」と以前から思っていたのだという。
食品冷凍庫の壁にペイント。高所作業車のアームを少しずつ動かしながら描いていく(撮影/來嶋路子)
こうして「ビッグベアプロジェクト」が始まった。2022年8月、平井社長自らが高所作業車のオペレーションを行い、MAYAさんは下描きせずに目見当でクマを描いていった。制作期間は約5日。顔の直径はおよそ9 mあった。できあがって離れて見たとき、屈託のない表情で斜め上を見つめる顔がそこにはあった。「これはきっと右側からやってきた『希望』の光を見つけた喜びの顔なんじゃないか」とMAYAさんは思った。そして、自分自身が制作しているものはすべて、みなさんへの“贈り物”であったことに気付いたという。
クマはHOPEくんと名付けられた。食品冷凍庫の後ろには北海道グリーンランドの観覧車が見える(撮影/久保ヒデキ)
絵を描くことは自己表現ではなく、贈り物
人は、心を込めた贈り物を受け取ったとき、気分が明るくなり、喜びの感情がわいてくるはずだ。MAYAさんの絵は、そうした気持ちを沸き立たせるもの。まちに絵を描く試みとともに、閉校した校舎を使って、これまで4回の「みんなとMAYA MAXX展」を開催してきた。移住してから身近になったシカ、リス、クマを描いた作品が発表された。会場のアンケートには「絵を見て癒やされました」や「元気が出ました」という声が多数あった。
旧校舎での展覧会は、2021年の秋と2022年春・夏・秋に各2週間開催された(撮影/佐々木育弥)
「絵のコンセプトはどうでもいいんです。私が考えていることや自己表現といったものはそばに置いておいて、とにかくみんなが可愛いと思ってもらえるようなものを描きたい」(MAYAさん)
いま世界はさまざまな危機に直面している。コロナ禍、ウクライナへの軍事侵攻、気候変動。
心が休まるときがない状況にあって、絵と向かい合ういっときはせめて明るさを取り戻してもらいたいとMAYAさんは願っている。
「みんなとMAYA MAXX展」と同時開催で、地域のつくり手の作品を集めた「みる・とーぶ展」も開催。この会場でMAYAさんは手描きのサロペットを販売した。普段、こうしたファッションを身につけない人も、気持ちが明るくなるからと購入した(撮影/來嶋路子)
4回の「みんなとMAYA MAXX」展を校舎で開催し、訪れたのは5000人以上。札幌から高速道路を利用して1時間強。岩見沢駅から車で25分という決してアクセスのよくない地域に、これだけの人が集まった理由は、どこにあるのだろうか。市や教育委員会、地元企業の協力のほか、運営はみな手弁当。企画にも広報にも戦略といったものはなかった。
来場者が日に日に増えていった理由に対して、「絵には人の気持ちが集まってくるんだよね」と、あるときMAYAさんは語った。
確かに、校舎の窓板やモリタンの絵の制作過程をSNSで公開すると、わざわざ札幌から見学に来る人も現れ、イベントのサポートスタッフになってくれるなど、人の輪が大きく広がっていった。
校舎でギャラリートークも開催。どうやって制作をしているのかや日々の暮らしについてが語られた(撮影/來嶋路子)
では、人の気持ちが集まってくる絵とは何かとMAYAさんに聞いてみたところ、こんな答えが返ってきた。
「モリタンのクマや校舎の窓板など公共の場所に描くときには、色数を絞って、輪郭をはっきりととって、絵の具を3度塗りして仕上げます」(MAYAさん)
曖昧な線でたくさんの色を混ぜたような絵だと、雨風に当たっていくうちに薄汚れて見えてしまうのだという。
いつどんなときでも、輝いて見えるような絵にするために、「時間に追われることもあるけれど、やっつけ仕事をしてはいけない。いつでも、いくらでも時間を使えると思って描きたい」と絵筆を動かしているそうだ。
旧校舎の庇にはクマの顔の立体が設置された。半年間かけて仲間と制作。Amiちゃんと名付けられた(撮影/來嶋路子)
描き方は人の気持ちを集めるフックにはなるが、もっと大切なことがあると日々MAYAさんと接していて思う。
それは「これをやったら得か損か」という考えを捨て、自分がやりたいという純粋な気持ちだけを持って、軽やかなステップで前へと進んでいくことだ。
「こんなことやって何になるの?という人もいますが、私は一切そうは思いません。あそこに、かわいいクマがいたら、どんなにいいだろうって。ないよりあったほうがいいよねって思います」(MAYAさん)
展覧会と並行してMAYAさんは、地域の商店の看板やシャッターにも絵を描いていった。これらも注文があったわけではない。すべてはMAYAさんの“贈り物”だった。
カフェに設置された看板。市街から山あいの地域に入っていくと、MAYAさんの絵をところどころで見つけることができる(撮影/來嶋路子)
移住をして自然と人と近くなって
ときどきMAYAさんは「美流渡に移住して本当によかった」と語る。自分のつくるものが“贈り物”であるという心境に達したのは、この地に暮らしてからのこと。都会での生活は「すべてのことが上滑りで、表面的だった」と語る。
大きな変化は自然との向き合い方。自分がこの大地とそして森の木々とつながっているのだということに気付き、それらを見ることが作品にも大きな影響を与えることに気付いたという。「これまで都会で生きていて、自分が自然をよく知らないということが空虚さにつながっていました。いま61歳になって、土と自然にようやく間に合ったという気がしました。私は本当に美しいものは自然だと思います。毎日美しいものを見ることができる環境に身を置くことができてよかった」(MAYAさん)
立ち枯れた植物の種子や葉を集めて制作された立体作品(撮影/久保ヒデキ)
また、人と人との距離が近くなったことも大きい。校舎での展覧会のときMAYAさんは、必ず会場の受付にいて人々を迎えている。これまで多数の美術館で個展をしてきたが、ファンの人たちは固有名詞では存在しなかったという。それが、会場で会話を交わす中で、リアルな存在となった。日々の暮らしの中でも同じ。灯油販売店や設備会社の人たちは、顔馴染みのご近所さん。自分はご近所さんに支えられて、こうして暮らしているということが実感を持って感じられたという。
仲間の存在も大きい。MAYAさんが行うプロジェクトには気心の知れた友人が集う。東京にいたころも、もちろん仲間はいたが、アポイントを入れて会うという、日常とは切り離された状態での付き合いだった。
「絵を描くことはたった一人でやるしかない孤独な時間です。その半面のような、仲間がいてみんなで協力してやる作業は、みんなでみんなのために贈り物をつくるような喜びがあります」(MAYAさん)
Amiちゃんの制作に集まった仲間。スタイロフォーム(住宅などの断熱材として使われるポリスチレン樹脂原料を押出し発泡加工したもの)を重ねて立方体をつくり、そこからクマの顔を削り出した(撮影/來嶋路子)
もちろん移住は、良いことばかりではない。とくに厳冬期には容赦なく雪が降り続け、それは時に災害をもたらす。一昨年は屋根雪の重さに耐えきれず、改修したばかりのアトリエの床が凹んだことも。雪道運転で危ない思いをしたことも数えきれない。しかし、それこそが自然と近くなることなのだとMAYAさんは、日々除雪や運転技術をスキルアップさせている。
そして、今年もすでに「あそこにあれがあったらいいよね!」と、新しいプロジェクトの計画が進行中だ。雪が解けたら、またMAYAさんはまちへと出ていく。一つ、また一つと贈り物が増えていくことで、夜道に街灯がどんどん灯っていくように、まちが明るくなっていく。
アトリエの一部は、コンクリートブロックの壁をあえて見せるつくりに(撮影/久保ヒデキ)
●取材協力
MAYA MAXXさん
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