“私”を変えてゆく短編集〜吉川トリコ『流れる星をつかまえに』
連作短編集の1話目となる「ママはダンシング・クイーン」からフルスロットルで気分がブチ上がる。語り手は夫と2人の子ども(高校生の娘と小学生の息子)のいるパート主婦・なつみ。冒頭、朝食の席でいきなりなつみが「ママ、チアリーダーになる!」と宣言しているのに、家族たちは完全スルー。この”個人としての母親”が尊重されない感じ、わかりみが深いと共感を寄せる人も多いに違いない。
会社や学校へ家族たちがばたばたと出かけていった後、シティホテルの清掃の仕事をしているなつみもあわてて家を出た。ナゴヤドームで母の日に行われるイベント、チアダンスの参加チーム募集の告知が載った中日新聞をバッグに突っ込んで。
目立たない地味女子、すなわちアメリカの学園ドラマにおける「ナード」的な存在として、ずっと生きてきたなつみ。「根っからのアメリカ学園映画フリーク」とはいえ、なぜチアリーダーになりたいなどと考えたのか。家族の無理解や娘の幼なじみのママ友への嫉妬などが積もり積もって、チアへの挑戦を「私が私を取り戻すためのチャンス」にしようと奮起した、といったところ。しかし、イベントに出場するためにはメンバーを8人揃え、さらにダンスの指導や振付のできる人材を探さなければならない。なつみの願いは果たして実現するのか…?
2話目の、外国人登録の期限ギリギリの16歳になる直前まで、自分が在日韓国人であると知らされていなかった初未。3話目の、何もかもを手にしているように見える同級生・浩平に思いを寄せる晴斗…と、語り手が入れかわりながら、物語はつながっていく。自分に見えている姿だけがその相手のすべてではないという事実を、改めて思い知らされつつ読み進めた。
すべての可能性を念頭に置いて、他者を理解しようとするなんて無理なことだ。無敵に見えても、何度も挫折を経験しているかもしれない。他国への心ないヘイト発言を耳にして、日本に帰化したことを隠したまま胸を痛めているかもしれない。みんなそれぞれに「ままならない」事情を抱えている。だからせめて、意識的でいなければ。思い込みで判断する危うさや、自分の言葉が知らず知らずのうちに誰かを傷つける凶器となり得ることに。
そして最終話。語り手の葉月は、高校の卒業式でプロムをやりたいと活動を続ける文芸部のリーダー的存在。何よりも心を動かされたのは、彼女たちの実現したいプロムが「だれも置いてけぼりにしない」ものであるところ。「ひとり参加でもOK」「制服や体操着で参加したい人はそれでもぜんぜんかまわない」といったプロム、これだったらガチナードだった私も参加しようと思っただろうか。プロムの開催を求めて連帯しただろうか。
フィクションはフィクションであり、私が陰キャだった過去も変わらない。それでも、小説(あるいはアメリカ学園映画・ドラマなど)には、現在の私を変える力がある。葉月からは自分の信じる道を恐れず突き進むべきであることを、なつみからは人間はいくつになっても新たに始められることを、その他の登場人物からもたくさんのことを教えられた。だから、世の娘(と息子ともちろん夫)たちは、”母(妻)は、母(妻)というだけの存在ではない”ってことをよく覚えておいてよね。Hip, hip, hooray!
(松井ゆかり)
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