幕末の天才棋士をめぐる21の証言〜谷津矢車『宗歩の角行』

幕末の天才棋士をめぐる21の証言〜谷津矢車『宗歩の角行』

 刊行されてから少々時間がたってしまっているのだけれども、観る将(自分では将棋を指せないけれど、棋士の方々の対局を観戦したりするのは好きなファン)としては当コーナーでも積極的に将棋小説をご紹介したい。天野宗歩という江戸時代の末期に活躍した天才棋士、将棋に詳しい方々にとっては周知の存在なのかと思うが、私はかろうじて名前を知っているという状態だった(知っているといっても、先々週読んだ北村薫先生の『中野のお父さんの快刀乱麻』で初めて見たばかりの名前だったのだが)。ただ、本書を読むには宗歩を知らなくても、というか将棋にさほどの関心すらなくても問題はない気がする。その場にいないある人物の人となりについて、周囲の人々の証言から浮かび上がらせるという趣向によってぐいぐい読者を引っぱっていく作品になっているからだ。

 最初の章は、語り手と謎の人物が話をしている場面から始まる。誰かが亡くなり、その者の家の片づけという厄介事を済ませてくれた謎の人物に対して、語り手が感謝の意を表している様子。亡くなったのは天野宗歩という将棋指しで、語り手となっているのは将棋三家の筆頭・大橋家の総領であった大橋宗桂であることは早々に明らかになる。

 当時の宗桂は、翳りをみせ始めていた将棋家の勢いを復活させるべく、将棋の強い指し手を囲い込もうとしていた。「連戦連勝の五歳児が菊坂にいる」との噂を聞き及び、掃き溜めのような長屋街を訪れた宗桂が出会ったのが天野宗歩(幼名は留次郎)。ぼろぼろの着物で垢まみれ、しかし目はらんらんと輝きを放つ留次郎。初めての対局において留次郎が指したのは「汚い将棋」であった、と宗桂は思い返す。定跡や陣形といったものとは無縁の野放図な将棋に、不気味さを感じるとともに一方で感心もした宗桂は、その日のうちに留次郎を弟子にすると決めた。その後の留次郎はめきめきと力をつけて頭角を現したが、一方で大橋家の家名を汚しかねない振る舞いを続ける彼に対し、宗桂は次第に幻滅を感じるように。「旅先で死んだと聞いて、心底ほっとした」とまで語った。

 次の章では、宗桂の弟子になるまで留次郎が暮らしていた菊坂に現在も住む建具職人が、宗桂と留次郎の初対局の様子を回想。その次の章では、将棋三家の一角を成す伊藤家六代目の伊藤宗看が、自らの留次郎との最初で最後の対局を語る…といった具合に、物語は進んでいく。21の章からなる本書の語り手は、すべて異なる人々。つまり、21人のいわゆる関係者が天野宗歩について語っているのだ。同じ場面や発言について複数の人物が言及している箇所も多々あるが、人によって受けとめ方は違ってくるものだと改めて思い知らされる。宗歩に対して好意的な者もいれば全否定な者もいるが、彼の将棋指しとしての実力に関してはほぼ全員が認めるところだったといって差し支えないだろう。

 デビュー以来快進撃を続ける藤井聡太五冠をはじめ、いま現在活躍されている将棋棋士で天野宗歩ほどの型破りな人材はなかなかいないと思う。いや、別にそれでまったくかまわない(勝負師や芸術家なら”飲む・打つ・買う”タイプでもしかたないといったことも、個人的にはみじんも思わないし)。しかしながら、フィクションの主役であれば、多少のドラマが求められるというのもまた事実。そういう意味では、宗歩は小説映えする強めのキャラクターであるといえよう。

 本書にはミステリー的な側面もあり、”宗歩が奇妙な行動をとった真意はどこにあったのか”や”20人にも及ぶ人々に話を聞いて回っていたのはいったい誰だったのか”といった点にフォーカスして読むのも一興であろう。もちろん、いまとなっては天野宗歩の心の内についてのほんとうのところは誰にもわからない。それでもこれらの謎が明らかになったとき、天野宗歩という人間の孤独が胸に迫ってくる。その才能ゆえに他者と隔てられることになった天才棋士は、常識や処世術といったものからかけ離れたところでしか生きられなかったのだなと。

 そして『宗歩の角行』は、そうした謎解き的な要素や史実とは異なっているかもしれない部分を引っくるめて歴史小説である。200年ほど前に生きていて、棋譜も多く残した天野宗歩。残された資料から作家は物語を創り上げ、読者はその作品を読む。書き手にせよ読み手にせよ、実在した歴史上の人物の胸の内に思いを馳せることは、歴史小説ならではの楽しみのひとつであるに違いない。

(松井ゆかり)

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