水銀をめぐる骨太で壮絶な小説〜岩井圭也『竜血の山』
私の弟が幼い頃に、体温計を割って大騒ぎになったことがある。私はそのときに水銀というものが危険なのだと知った。割れてこぼれ出した水銀は畳にしみ込むこともなくゆらゆらして、不思議なものに見えた。
体温計に使われているマチ針の頭くらいの量でも危険とされる水銀。その水銀で満たされた湖が存在した。それだけではない、その湖の周辺集落に住んでいるのは、水銀を飲んでも体に何の異常も生じない者たちだという…。北海道工業試験場の鉱山技師である那須野寿一と、人知れぬ集落の住民である少年・榊芦弥(アシヤ)の出会いがすべての始まりだった。
その半年ほど前、道東の辺気沼という町で正体不明の石が発見されていた。持ち込まれたその石を鑑定した寿一は、すぐにそれが辰砂すなわち硫化水銀の塊であることに確信を抱き、現地調査を計画する。地下から湧き出る自然水銀や山道に転がる数え切れないほどの辰砂を見つけた調査班は色めき立つが、寿一はところどころで下草が踏み固められていることに気づく。他の調査班がいることは把握されていないし、馬追いが山に入るのもおかしい…と足跡の正体についての結論が出ないまま議論が一段落した頃、ひとりの少年が寿一たちの前に姿を現す。
誰何の声を振り切り、少年は笹藪の奥へ消えてしまう。その後の調査によって、この山が豊富な水銀鉱床を有している裏付けは取れた。調査の最終日、寿一は少年の捜索に乗り出した。麓の住民たちにも知られていなかった集落の協力があれば、鉱床の開拓が格段に円滑に進むのは間違いない。駄目でもともとという気持ちで始めた捜索だが、集落はほんとうに存在していた。しかしそこで出会った老爺は、水銀鉱床の探査を手伝ってほしいとの交渉に対しても、とりつく島もない態度をとる。寿一たちは、気が変わったら連絡してくれるよう言い残して山を下りた。半月ほど後、駅逓所の管理人経由で、薊多蔓(タツル)という男が面会を希望しているとの手紙が届く。
タツルの息子たちである十草(トクサ)と八葉(ヤツハ)は、アシヤの幼馴染みだった。タツルは寿一に、集落の住民が水銀への耐性があること、自然水銀の湖があることを打ち明ける。自分たちが特異な体質であることを武器に、他の作業員にくらべて倍額の給与という有利な条件での雇用を認めさせることに成功。そして、山での開発が始まった。それによって、人々の運命は大きく変わることに…。
一般家庭において水銀はもはや身近なものという感覚はないだろう(うちの息子たちは。水銀体温計を使ったことがない)。水銀を採っても採っても供給が追いつかなかった時代を経て、輸入自由化や公害問題の発生により需要が激減する様子が、本書においても描かれる。産業が先細りになれば、生活に不安が生じ家族関係にも暗雲が立ちこめるし、水銀の採鉱や精錬にアドバンテージのあった〈水飲み〉たちの優位性も失われる。印象的なのは、追い詰められた人間たちの弱さと、一方で意外なまでの大胆さや瞬発力も同時に持ち合わせていること。人間とは底知れないものだとつくづく思う。
登場人物たちもみな、一癖も二癖もある者ばかり(などというレベルを超えた犯罪者もいるけれど。寿一の一人息子で、北海道帝国大学出のエリートでありながら、水銀の魅力を語り出すと止まらない源一などもナイスキャラ)。主人公であるアシヤからして、自分勝手な面があるうえ異性関係もだらしないという、感心しない男。問題を先送りにするうちにのっぴきならない状況に追い詰められていく彼をしかし、何のためらいもなく糾弾できる読者はどれくらいいるだろうか。
本書は昭和という時代を舞台に、特に軍需物資として貴重だった水銀をめぐる産業史であり、複数の親と子の愛憎を描いた家族小説であり、特異な体質を持つ人々〈水飲み〉の苦悩に迫ったファンタジーであり…とさまざまな側面を見せてくれる作品。骨太で壮絶な小説は、岩井圭也という作家の得意とするところ。好感の持てる人々が登場する心温まる物語を読みたいといった読者の需要には、必ずしも添わないかもしれない。けれど、運命に翻弄されながらも必死で生きようとするアシヤたちの姿に圧倒されることは、誓って得難い読書体験となると申し上げておきたいです。
(松井ゆかり)
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