寓意のこもった短篇集〜ディーノ・ブッツァーティ『動物奇譚集』
喩えるなら人間を載せそこなったノアの方舟か。
『動物奇譚集』は、イタリアの作家ディーノ・ブッツァーティが1972年に亡くなった後に刊行された短篇集である。ブッツァーティ夫人アルメリーナの発案に基づき、動物をモチーフにして書かれた36の短篇が選ばれ1991年に本国で刊行された。『七人の使者・神を見た犬 他十三篇』(岩波文庫)所収の「なにかが起こった」を読んで以来、その作品に魅了されて翻訳が出れば追いかけて必ず読んでいる。同作は紀田順一郎編のアンソロジー『謎の物語』(ちくまプリマーブックス)にも収録され、リドルストーリーの名作としても知られる。「なにかが起こった」における、どこかで何か間違ったことが起きているという気配を醸し出す語りは、短篇小説における恐怖と不安の技巧の白眉である。社会を眺める諷刺的な視点にも秀でており、しばしば寓話の形でそれを書いた。『動物奇譚集』にも人間は登場するが常に、世界の真実に気づかない存在として描かれる。動物たちから人間は憐みの視線を注がれているのだ。
全36篇、どこから読み始めてもいい。どの作品も珠玉と呼ぶにふさわしい内容と品格を備えている。たとえば「彼らもまた」は、上記の「なにかが起こった」によく似た構造の一篇である。語り手の〈私〉はある日、一匹の狩り蜂を観察していた。その蜂は苦労して捕えたのだろう蜘蛛を、何かのはずみで取り落としてしまった。うろたえてその獲物を捜す昆虫に、もう一匹の蜂が近寄ってくる。「まるで、もう一方の蜂が説得を続けて、苦労して獲物を運んでも無駄だということをわからせたかのように」観察者には見え、二匹はどこかに去って行ってしまう。それだけならなんということもない光景だが、そのあと目にした場面が〈私〉の心に疑念を引き起こす。一匹の蟻が、仲間たちを翻意させ、やはりどこかに逃げ去っていったのである。
一つの現象が雪崩のように大きな動きを引き起こしていく、という構造の物語で、このあとがたいへんなことになる。ありとあらゆる種類の動物たちが、同じように報せを受けて、どこか知らないところへと避難してしまうのである。人間だけを残して。彼らのもとにもたらされたのはどんな情報なのか。いかなる大災厄から逃げようとしているのか。
人間が築いた文明、文化の理不尽を描いたのが「川辺の恐怖」だ。「ズワイ湖からホラ・アバイタ湖へとゆっくりと流れ下る」スクスク川の岸辺で起きた一つの惨劇を描いた短篇である。ある午後、動物たちは「未知の獣が気味の悪い叫び声」を上げるのを聞く。「下卑た調子の、どこか悪意のこもった喜びを表しているような、長い叫び声」である。森の住人のある者は、そこから死の予兆を感じとる。やがてこの凶兆が何を指しているかが判明する。、三人の白人たちがボートに乗ってやってきたのである。彼らはなんら悪意を抱く人々ではなかったが、動物たちは不安に駆られて逃げる。そして残酷な出来事が起きてしまうのだ。感情を徹底的に抑えた筆致でそれは描かれる。あとには小さな痕跡が残り、ふたたび森の生活が始まる。
ナポレオーネと名付けられ、ペオの愛称で呼ばれる犬の視点から物語られるのが「船上の犬の不安」だ。彼は「艦長の特別な計らい」で巡洋艦に載せてもらっている。軍艦がマスコットとして動物を飼うのはよくあることだ。飼い主の〈ご主人様〉だけではなく、乗組員の誰もが彼を可愛がる。ペオにとっては艦は世界のすべてであり、それは慈愛に満ちたものだ。何の不安もなく彼は過ごしている。だが、それが一変する日がやってくる。ペオは腹帯を付けられ、隔壁から突き出したハンドルにつながれる。〈ご主人様〉もまた変貌した。紺色のすてきな制服ではなく、男たちが作業服と呼んでいる上着を着るようになった彼は、ペオにまったく関心を示さなくなってしまったのだ。読者には、この艦がなんらかの非常事態に巻き込まれているのであろうことがわかる。おそらくは戦闘が始まったのだ。しかし、艦の内部以外に世界を知らないペオにはそうした状況がわからない。彼にとっての世界はどんどん悪いものになっていき、かつては享受できた人々の愛も奪われてしまう。不安を掻き立てる水夫たちの会話と、それによってペオが放り込まれた永遠にも感じられる待機の時間を描いて小説は終わる。
「船上の犬の不安」を悪化していく世界、特に戦争の恐怖を描いた寓話として読むことは間違っていないだろう。発表されたのは1941年6月である。すべての作品はこのように、表層に現れた物語的事実だけではなく、その下に秘められた寓意をも合わせて読み取れるように書かれている。幾度も繰り返し読むことが可能な短篇集だ。作品が読者に告げるものは一様ではなく、多彩な感情がそこから生み出される。語り口はユーモアに満ち、だいたいは苦く、時折涙の塩味が混じる。この世のものとは思われないほどに読み味は軽い。もしかすると天使の語る物語なのかもしれない。
(杉江松恋)
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