物語がどんどん成長する『警部ヴィスティング 悪意』
おもしろくなるための芽を見極める勘って大事だと思うのだ。
芽というのは曖昧な書き方だが、物語の成長点のようなものとご理解いただきたい。そこで細胞分裂が活発になるので、枝を剪定するときには絶対切ってはいけない。切らずに残しておけばかならず伸びていくのである。逆に切ってしまうと、その先自然に成長することはなくて、無理につぎはぎしなければならなくなる。どこが物語の成長点か、ということに気づかない書き手というのも世の中にはいるのである。
ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 悪意』(小学館文庫)を読みながら、そんなことを考えていた。ホルストはノルウェー警察に長く奉職していた経歴のある人で、最初は兼業で、後に売れてきてからは専業でミステリー作家となった。ヴィリアム・ヴィスティング警部の登場するシリーズをずっと書き続けていて、八作目の『猟犬』(ハヤカワ・ミステリ)では、北欧圏ミステリーの最高峰と言われるガラスの鍵賞を獲得している。本作はその十四作目にあたる長篇だ。
物語は衝撃的な始まり方をする。ノルウェーのラルヴィク警察はトム・ケルという犯罪者を複数の女性を殺した容疑で逮捕していた。手口は残忍なもので、女性に執拗な性的暴行を加え、生きながらに八つ裂きにするようなやり方で殺害していたのである。すでに二人についてほぼ容疑が確定していたが、ケルは第三の犠牲者がいることをほのめかす。その遺体を棄てた場所を明かす条件として、環境のいい刑務所に身柄を移すように要求していたのである。もし本当に犠牲者がいるのなら遺体を放置しておくわけにはいかない。当局は厳重な警備態勢を敷き、ケルに手枷と足枷を嵌めた上で彼をエフタン半島の森林地帯へと連れ出した。ヴィスティング警部が一行の指揮を執る。
しかし事件が起きてしまう。一瞬の隙をついてケルは駆けだした。彼を追おうとした者を阻むように爆発が起き、多くの警察官たちが負傷してしまう。まんまと行方をくらませたケルを追うと同時に、ヴィスティングは共犯者を捜し始める。収監されていたケルが単独で計画を立てられたはずがない。どこかに必ず協力者、アザー・ワンがいるのだ。ケルと接触を持った者たちの中からそれを見つけ出さなければならない。野に放たれた凶悪犯が再び誰かを傷つける前に。
物語の序盤は非常に直線的だ。逃げるケルに追うヴィスティング。その興味でぐいぐい引っ張っている間に、ホルストは物語の枝を小説に生やし始める。アザー・ワンを巡る関心がその第一である。ケル逃亡の責任を明らかにしようとして警察の内部調査課も動き始める。ここでヴィスティングを目の敵にするタリュエ・ノールブーという警察官は、『猟犬』でも彼を罪に問おうとした、宿敵のような男だ。それが再登場するので、以前の作品を読んでいると、おっと思う。ヴィスティングという主人公は生き方が下手なのか、よくまずい立場に嵌まりこむのである。
もう一つ枝の要素があって、それにはヴィスティングの娘であるリーネが活躍する。リーネはフリー・ジャーナリストだ。このシリーズには警察官である父と、ジャーナリストである娘双方の視点から一つの事件が描写され、立体的に見えてくるという特徴がある。今回のリーネはケル護送にも同行して記録映像を撮影していた。それを警察に渡す代わりに取材で先行しようとするのである。この父娘の関係も使って、ホルストは物語を転がし続ける。ごろごろごろ。追跡パートが動き続けるのは当然だが、共犯者捜しの方も次から次に情報が出てくるので少しも停滞する箇所がない。見事なほどである。
警察小説としては比較的一本調子に見える。だが中盤あたりで変調してくる。ホルストが準備した物語の芽が育つからだ。こんなことがわかった、実はこうだった、という要素が真っすぐ伸びていくはずだった幹の向きを少しずつ変えていく。ホルスト作品の醍醐味は後半にある。寄り道があまりなく、中心線が真っすぐなプロットで書かれているのに、後半になると予想外の可能性が浮上してきて物語がひっくり返る瞬間が訪れるのである。いかにもどんでん返しがありそうなプロットにはあまり驚かない読者も、ホルスト作品では多少びっくりするはずだ。真っすぐに見える杉の大木が途中で曲がるようなものなんだもの。この作品でもそういう瞬間がやってくる。Aかと思っていたらB。ああ、好きだなあ、ホルスト。こういう警察小説が私は好きなんだな、としみじみ思う。アザー・ワンは誰かという興味が最後まで尽きない点もいい。そうだよ、ミステリーの基本はやっぱりフーダニットだよ。
派手な要素はあまりないが、しっかりした物語が好きな人には絶対お薦めだし、犯人捜し小説を求めている人にもやはり読んでもらいたい。ヴィスティングという渋い初老警官の魅力だけで押し通すような作品ではないのである。一昨年話題になった『カタリーナ・コード』を読んだとき、どうしてこんな地味な警察小説が自分は好きなのか、と不思議に感じたが、ようやく言語化できるようになった。気持ちよく謎が成長する小説だからなんだな。こういう作品をもっと読みたい。
(杉江松恋)
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