“係り結び”がずれていくスリラー『アリスが語らないことは』

“係り結び”がずれていくスリラー『アリスが語らないことは』

 現在を縛るものは過去であるというごく当たり前の事実。

 それを魅力的なプロットで表現したスリラーがピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』だ。

 この物語の主人公はハリー・アッカーソンというもうすぐ大学を卒業する年齢の青年だ。彼は葬儀のためにメイン州ケネウィックの実家に帰郷している。古書店を経営していた父ビルが、不慮の事故と見られる状況で亡くなったためだ。ハリーの母親は彼が十五歳のときに亡くなっていた。ビルはその後、十五歳下の女性、アリス・モスと再婚した。そのときハリーは大学に入ったばかりで、実家にはあまり帰らなくなった。アリスは自分と十五歳しか年齢が変わらないのだ。継母の身体が描く曲線は、彼をやましい気持ちにさせた。

 そのアリスとハリーは父がいない家にいる。突然の死には妙な点があり、彼は疑念を抱くが、なぜかアリスはそのことについて深く語ろうとしない。以前から感じている落ち着かなさもあり、ハリーは家を出て散策に出かける。父が亡くなった海岸を目指して。

 こんな感じで物語は始まる。ハリーが父の死について抱いた疑惑に形が備わり、その背後にあったものが見え始めるのがだいたい百ページくらいの箇所、全体の四分の一が過ぎたあたりだから起承転結の起と考えることにしよう。あらすじで紹介していいのはたぶんここまでである。承に入ると物語は怪しく動き始める。どんでん返しの連続というわけでもない。喩えるならば、係り結びを巧妙にずらす感じというべきか。

 フォーマットの定まったジャンルの小説には、係り結びのようなものがある。こう来たら、こう受ける。その繰り返しで作品は成り立っている。それがちょっとずれるのだ。リズムで言う、シンコペーションが生まれる感じに近い。予測と半拍違うから、思わぬ緊迫感が漂う。その繰り返しが他にはない小説の雰囲気を作り出していく。

 ハリーが視点人物を務める現在の章と、アリス・モスが主役の過去の章の繰り返しで語られていく小説である。先行きが見えなくて張り詰めた雰囲気なのが現在の章だ。過去の章で感じるのは気怠さ、味気ない日々に倦んだ人の視線のようなものだ。十四歳でアリス・モスはケネウィックに引っ越してきた。アルコール依存症気味の母と距離を取って暮らすアリスは、そこが海岸の町であることをいいことに、毎日水着を着て浜で過ごす。同世代の生徒たちとも親しく交わろうとはしない。ぽつんと一人浜に座っている彼女の姿が浮かび上がってくる。この過去パートは異色のおもしろさだ。アリスにはよくわからない部分が多く、ほとんど一ページごとに発見がある。つまり彼女に魅了されてしまうからである。やがてアリスの生活には大きな変化が起きる。母がジェイク・リクターという銀行員の男性と知り合い、結婚したからだ。三人の生活が始まる。

『アリスが語らないことは』という邦題には二重の含みがある。夫の死を巡ってアリスが取っている態度を指しているように当初は見えるのだが、過去パートが進行すると別のことが気になっている。この、ビーチで孤独に過ごしている少女と、ハリーの美しい継母とが、素直に等号で結びつかないのである。人は成長し、変わる。だから三十代のアリスが少女時代と同じ顔をしているわけがない。しかし、それにしても気になるではないか。過去に何かがあり、その体験が現在のアリスを形作っているはずだ。本書においてはそれが、ビルの死の真相と並ぶ謎なのである。最大の謎と言ってもいい。常に舞台の中心にいながら真情を露わにすることがないアリスこそが物語の核なのだということが次第にわかってくる。

 物語が中盤を過ぎたあたりで、アリスとはこういう人なのではないか、というヒントが与えられる。スワンソンが巧いのは、そのヒントが与えられても疑問は解明されることがなく、むしろ増えていくことだ。多すぎる手がかりは推理者を悩ませる。気まぐれな反応を見せる化合物を相手にしているようなもので、きちんと分析をすればそれは解明可能なのだ。ただし時間がかかる。物語の終盤に来て初めて、こういうことなのかもしれない、と理解が進むようになる。いったんそれが始まると視界は一気に開けていく。怒濤の勢いで物語は収束していくので、最後はページをめくる手が止まらなくなるはずだ。

 ピーター・スワンソンは二〇一四年に『時計仕掛けの恋人』(ヴィレッジブックス)でデビュー、第二作『そしてミランダを殺す』(二〇一五年。創元推理文庫)と『ケイトが恐れるすべて』(二〇一七年。同)が邦訳されるや、わが国でも一躍注目される作家となった。『アリスが語らないことは』の先行きの読めない展開が物語るように、ミステリーの定石を熟知した作家で、自分がマニアであることを示すサインを作中に残す癖があるのが微笑ましい。

 本書の登場人物では、亡くなったビル・アッカーソンがミステリー・マニアであり、その話題が随所に出てくる。あるときハリーは父親に、なぜミステリー小説ばかり読むのか、と聞いたことがあった。ビルの答えは「死体から始まらない本は、どうも信用できないんだよ」であった。この小説はビルが死体になることから始まるから、父は身をもって範を示したわけだ。スワンソンは先行作家の作品名を文章の中に散らす癖がある。たとえば第一章では、開巻早々ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』について言及される。こうした書名はマニアの単なる「この本知っている」自慢ではなく、話の流れについてのほのめかしである可能性もあるので油断ならないのだ。

 吉野仁の解説は痒いところに手が届く見事なもので、その中でも触れられているが、某名作スリラーの書名が本のどこかで出てくる。実は、本書を読みながら私は既視感を覚えていた。話の展開が後半に近づくにつれて、その作品を思わせる感じになっていったからだ。これはあの作品のプロットを換骨奪胎する狙いだったのでは、と思いながら残りの部分を読んでいった。その想像が当たっていたかどうかはご想像にお任せする。係り結び技巧の天才だから、スワンソンはそういうマニアの予想も利用して展開を書いている可能性があるのだ。上手すぎて、小憎らしいったらありゃしない。

(杉江松恋)

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