ジョン・ル・カレの遺作『シルバービュー荘にて』を味わう

ジョン・ル・カレの遺作『シルバービュー荘にて』を味わう

 さようなら。もう会えない。

 巨匠ジョン・ル・カレの遺作『シルバービュー荘にて』は素晴らしい小説だった。これでお別れという事実を噛みしめながら、ゆっくりと読んだ。味わうべき小説だ。

 小説の始まりは、過去のどんなル・カレ作品にも負けないくらい魅力的である。激しい雨の降るロンドン、ウェスト・エンドを一人の女性が歩いていく。「ウールのスカーフを引き上げて頭に巻き、ぶかぶかのアノラックを着た若い女」は「片方だけミトンをはめた手を眼の上にかざしながら」「もう一方の手でビニールカバーのついたベビーカーを押してい」る。ベビーカーの中には二歳の息子サムが乗っている。彼女の名前はリリーで、母に命じられてスチュアート・プロクターに手紙を届けにきたのだ。プロクターは紳士的に振る舞うが、リリーは終始不機嫌で、サムの保育園に関するあまり実りのない会話を交わして、プロクターの元から立ち去った。

 イースト・アングリアの小さな町に舞台は移る。物語の主人公である三十三歳のジュリアン・ローンズリーは、金融街でやり手のトレーダーとして鳴らしていたが、二ヶ月前にすべてをなげうってこの町にやってきた。この町で書店主として第二の人生を送るつもりなのだ。その〈ローンズリーズ・ベター・ブックス〉にぼさぼさの白髪の、六十絡みの男性がやってくる。エドワード・エイヴォンと名乗った男性は、ジュリアンの父とはパブリック・スクールで親友同士の間柄だった。エドワードはジュリアンに、店に「あらゆる時代を通じてもっとも意欲的な精神の持ち主のために、しっかり選んだ本の神殿」の棚を作ろうと持ちかける。名付けて〈文学の共和国〉だ。それは一考に値する提案だった。エドワードは閉店後の〈ローンズリーズ・ベター・ブックス〉に足しげく通ってくる。父の親友は、ジュリアンにとってもかけがえのない存在になる。

 二つの話が並行して語られていく。スチュアート・プロクターは部(サービス)、すなわち国の諜報機関の国内保安責任者であることがすぐに明かされる。やはりこれはスパイ小説なのだ。だが、イースト・アングリアの町で進行していることにプロクターの任務がどうかかわってくるかは物語の中盤までわからない。ジュリアンの落ち着いた人柄と、少々奇矯なところがあるが愛すべきエドワードのそれに読者は魅了されるはずだ。親子ほどに年の離れた二人の友情物語が前半部を牽引していく。エドワードには謎めいた部分がある。それがどういう種類の秘密なのかがわかり始めるのは118ページあたりからだ。

 物語がどこに行こうとしているのかまだ見えない段階で、この小説の最も輝かしい瞬間が到来する。何年も経ったときにふと、あのページをもう一度読みたいと思い返すような場面だ。ある女性がジュリアンに伝言を持って店にてやってくる。どんな女性だった、と聞き返した彼と店番の青年はこんな会話を交わす。

「歳は?」
「あなたぐらいかな。昨日の夜、『ドクトル・ジバゴ』を観ました?」
「いや、観なかった」
「あのララと同じようなスカーフを頭に巻いてました。本物そっくりに。すごくびっくりした」

 本作はル・カレの遺作だが、執筆自体は死の直前ではなく、原稿が引き出しに仕舞われたままになっていたらしい。自分にもしものことがあったら補筆を頼む、と言われた息子のニック・コーンウェルが、だいたいの執筆時期と、父がなぜ作品を生前に公刊しなかったかの推測を書いている。公刊できないような不出来な作品ではなかったということだ。原稿に託されたル・カレの矜持を思うと、胸が熱くなる思いがする。ぜひ本文を読み終えられてからこのあとがきにも目を通していただきたい。ちなみにニック・コーンウェルとは、『エンジェルメイカー』のニック・ハーカウェイのことである。

 後半部の展開については丸々書かずに残しておこうと思う。過ぎ去った日々への挽歌であり、その中に苦い悔恨が混じる。諜報部のあるベテランはプロクターに言う。「われわれは人類の歴史の進路を変えるようなことはあまりしなかったのだ」と。それがすべてを言い表しているように思える。

 小説の幕引きは穏やかだが、単純なハッピーエンドではない。その中にほの明るい曙光が感じられるのは、エドワードからジュリアンの新しい世代へ受け渡されたものがあるからだろう。〈文学の共和国〉が体現するような、歴史の正統とでも言うべき精神である。エドワードの以下の言葉は、私には作者自身のもののように思えた。ル・カレが読者に別れを告げている。

「私はもう過去の人間です、ジュリアン。害はない。いつか機会があったら、私のことを好きなだけ論じられるようになります。そのことをあなたに伝えたかった。いかなる犠牲を払っても裏切ってはいけない人たちというのがいる。私はそのひとりではありません。あなたには何も要求しない。私はあなたの父上が好きだった。さあ、握手しましょう。では。駐車場に戻ったら、型どおりの別れの挨拶だけです」

(杉江松恋)

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