《泰平ヨン》シリーズ最後の作品
レムが作家活動の初期から書きついでいる《泰平ヨン》シリーズの、本書は最後の作品。1987年に出版された。その翌年には、レムは小説の執筆をやめてしまう(文筆活動は継続)。
シリーズを通し宇宙のさまざまな場所へ行き、途轍もない体験をしてきた泰平ヨンだが、こんかいは月への潜入作戦中に、何者かに脳梁切断(カロトミー)を施されてしまう。外科手術ではなく、遠隔によるものだ。月では進化したロボットたちが超兵器をつぎつぎと開発しており、そのあおりをくったらしい。
カロトミーによって、ヨンの人格はふたつに分裂する。(1)この手記を書いている左脳と、(2)何を考えているかわからない右脳だ。右脳は言葉を使えない(使わない?)ので、同じ身体にいながら互いの意志を確認できない。ときどき、勝手に手脚が動いて思いがけないことをする。
深刻といえば深刻だが、端から見ればコミカルな状況とも言える。諧謔味あふれる作品として出発した《泰平ヨン》シリーズらしいところが随所にある。いっぽうで、ひじょうに哲学的なテーマ、自己同一性の問題も惹起される。
さらに、この作品のテーマがもうひとつある。それは自動進化するシステムだ。世界各国は軍縮協定を結び、地球上での兵器開発をストップさせ、開発拠点をすべて月面へ移転したうえで、自動化していた。勤勉なるロボットは敵に対して自分たちが有利になるよう、自己改造を繰り返して進化していく。しかし、その場合の敵とは何か? 月面上で競合相手となる他勢力のロボット? それとも地球?
疑心暗鬼に駆られた地球は、月がどうなっているかを探るべく、希代の冒険家であるヨンに白羽の矢を立てた。そして、ヨンは月面でカロトミーの憂き目に遭ったのだ。
しかも、カロトミーされてからしばらくの記憶がない。もしかすると右脳は覚えているかもしれないが、左脳の私はそれを知るすべがない。
世界の各陣営からすると、ヨンは軍事的に重要な情報を秘匿している人物であり、彼の身柄をめぐって幾人ものあやしげな人物が暗躍しはじめる。いや、誰が「あやしい」かすらわからない。これは複雑に絡みあった諜報戦なのだ。ヨンは月から情報だけではなく何かを持ち帰っている可能性もあるが、彼自身はまったく覚えていない。
月で起きていることも、地球の状勢も、それどころか自分の意識や記憶さえハッキリしないなか、ヨンは事態を(その一部だけでも)解明しようとあがきつづける。その過程は迫真のミステリ小説のようであり、また複雑系因果の迷路を彷徨っているようでもある。
(牧眞司)
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