1995

1995

 ちょうど16年前のことです。

 その頃僕は、横浜にある実家に暮らしていて、春休みなので部屋で夜更かししていました。朝になった頃に、ぐらーんと足下をすくわれるような揺れを感じたのです。その時は、徹夜のせいで眩暈がしたのだろうと思って寝てしまったのですが、起きてからテレビをつけると、高速道路が倒れている光景が映っていました。それが阪神淡路大震災でした。それから僕は、連日、瓦礫となった町で工場や住宅が燃え続ける様子が映し出されるテレビに釘付けになっていました。

 しばらくたったある日、アルバイトに行くために家を出ようとしたら、僕より早く家を出て赤坂方面に向かっていたはずの母親が、何だか腑に落ちない顔をして戻ってきました。地下鉄でテロがあって、なんだか大変なことになっているようだから帰ってきたのだというのです。その後のテレビのニュースで、地下鉄にサリンが撒かれたらしいこと、それがオウム真理教の仕業らしいことが報じられているのを見ました。そこに映された、霞ケ関の駅の周辺にパトカーや救急車が集まっている光景は、つい先日起こった阪神淡路大震災を彷彿とさせるものでした。テレビのニュースやワイドショーは、それからも連日、オウム真理教というチベットの仏教を模倣した新興宗教の姿を映し出していました。

 オウム真理教という宗教団体については、この事件の前には、変な人たちが選挙に出ているんだな、という程度の認識しかありませんでした。その後のさまざまな報道からは、この人たちがやっていることは、チベットの人たちが伝える仏教とは、どこか根本的なところで大きな違いがあると感じられました。彼らはオカルト雑誌に出てくるような、密教の修行によって空中浮遊をしたり透視をしたりといった、超能力や超越的な神秘体験を得ることを期待しているようでした。そこではグルに絶対服従することばかりが要求されていて、自分自身の心を見つめるということが全く疎かにされているようにも見えました。なによりも、おかしな服を着て、富士山の麓のプレハブで集団生活をしている彼らの様子には、僕が映像を通して知っていたチベット人の持っている野性的なたくましさが、全く欠けているように見えたのです。

 それに、いくら「すべての現象は空である」というような仏教の高度な見解に立っていたとしても、いくら権力者が作り出した社会の仕組みに対して批判的な思想を持っていたとしてとも、現実世界において大量無差別殺人のようなことをやっていいはずはありません。なぜなら、仏教というのはニヒリスティックなものの見方をしながらも、現実社会の中で苦しんで生きている人々に対しては深いところから湧き上がる愛情をもった思想だからです。

 僕には、何かに脅えて後ろめたそうにしている、あの青白い顔の連中が、ヨーガ行者としての深い体験を得ているようには到底思えませんでした。追及を逃れようとオウム真理教の人たちが発している言葉を聞くと、空々しい気持ちになったものでした。彼らなどよりも、毎週末のようにナイトクラブや野外レイヴで踊り明かしているようなパーティ・ピープルのほうが、よほどチベット人たちの生き方に近いプリミティブさや愛情を持っているように思えました。

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 そのように、オウム真理教として形を結んでしまった何かに対しての嫌悪を感じる一方で、オウム真理教を批難しているマスコミにも大きな違和感を覚えました。マスコミに登場して発言する人々の多くが、宗教的な行為そのものを否定しているように思えたのです。弱い立場に立っている人々が神や仏にすがったり、人生に疑問を感じた人々が精神的な探求を行うために日常生活を離れるようなことまでをも、真っ向から否定するような言説があちらこちらでみられました。「宗教というものは、もとより反社会性を伴った両義的なものである」という趣旨の発言をした宗教学者が「オウムを擁護している」と糾弾されて大学の職を追われるほどでした。

 また、マスコミに登場するチベット仏教の研究者は、ここぞとばかりに「オウムは、ニンマ派の入門書である『虹の階梯』の影響を受けた。ニンマ派のような、ろくに学問も行わないで密教の体験を重視するような考え方は間違っている。もっと論理学や戒律を重んじなければならない」というようなニンマ派批判を繰り広げていました。そのような言説の多くは、チベットの政権を担ってきた最大宗派であるゲールク派の政治的立場の影響下にあるものでしかありませんでしたし、非常に極端なものの言い方に思えました。そのように、頭で理解したり、外側から行動を規制することだけが仏教なのか?そこからは共同体を作り上げる論理しか生まれてこないのではないだろうか?あのチベット人たちの伝えている宗教の本質はそれだけのものなのか?という大きな疑問も生まれました。

 この1995年の春休みに立て続けに起こった二つの大きな事件を通して、僕はこの文明社会というものが、子供の頃から信じさせられてきたほどには確固なものとしてでき上がっているものではないと思うようになったのです。その当時、参与的な観察を行う手法でニンマ派の思想の研究をしてきた中沢新一先生のもとで、宗教人類学のような学問を学びはじめていたということは、もちろん大きく影響していたと思いますが、僕には、世の中全体がなんだかおかしな方向に向かっているように見えたのです。そして、こういう世間を作り上げているような理屈を完全に信じ込んだまま生きていくことが、自分の目指していく生き方ではないのだろうという認識が、はっきりと心の奥に芽生えたのでした。

 その年の夏休みに、僕はバックパックを背負ってアジア旅行をしました。タイ、マレーシア、シンガポールを鉄道で回ったあと、ネパールに飛んで、陸路でインドに行きました。ネパールのルンビニからインドのビハール地方の仏蹟を巡りながら、『虹の階梯』という本を読みました。旅の終わりには、ネパールのボードナートという大仏塔のある町で、その『虹の階梯』の語り手である、故ケツン・サンポ・リンポチェに初めてお会いすることができました。ケツン先生は、夏休みの旅行中だと言って訪れた中沢先生の教え子の僕をとても穏やかに迎え、あたたかい言葉をかけて下さいました。僕が「この『虹の階梯』を通して、私たち日本人に教えを説いて下さって、ありがとうございます」と述べると、ケツン先生は「いいえ、それは私の教えを訳してくれた中沢先生にお礼を言ってください」とおっしゃったのが一番印象に残っています。仏教を学びヨーガの修行を積んだ方とは、まさにこういう人のことなのだと、深い感銘を受けたのでした。ほんの少しでもいいから、あの先生のような、つつましさやあたたかさを身に付けることができたら、それだけで僕の人生は有意義なものだったと言えるようになるのではないかと思いました。

 このようにして、僕は、本格的にチベットの仏教を学ぼうという決意をしました。そのケツン・サンポ先生を始めとして、その頃のチベット人のラマ達の多くが、チベットの会話や読み書きが習得できるまでは密教については一切教えない、という考えに立っていましたから、僕は、まずはチベット語を勉強しようと心に決めたのです。

ヒマラヤデッドオアアライブ

佐藤剛裕

佐藤剛裕:彼岸寺

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