「インターネットではチャンネル争いが起こらない」
今回はp_shirokumaさんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。
「インターネットではチャンネル争いが起こらない」
テレビを一人で観るようになったのはいつ頃からだったろうか。
昭和30年代の写真を探すと、町角で大勢の人がテレビを見ている風景を見かける。この頃のテレビは、かなりの確率で“みんなで観る”ものだった。一家に一台テレビが普及した後も、テレビはやはり皆で見るものだった。一家に一台しかないテレビだからこそ、“巨人、大鵬、卵焼き”という言葉や“チャンネル争い”という言葉が存在していたのだろう。
視聴番組を巡るコンフリクトがあった = 皆が自分の見たい番組だけ観ていたわけではないということでもある。大人が子ども向けアニメを観ざるを得ない時もあっただろうし、ニュースや時代劇を子どもが観ることもあっただろう。家族という小さな器のなかとはいえ、テレビは一人で観るものではなく、自分が観たいものを観たいだけ観れるものではなかった。
ところが昭和の終わりになると、ひとつの家庭がテレビやビデオデッキを複数保有する、そんな状況が珍しくなくなった。子ども部屋にテレビやビデオデッキを持ち込める家では、子どもは好きな番組を好きなだけ視聴した。テレビは家族団欒のアイテムでなくなったと同時に、チャンネル争いの舞台でもなくなった。テレビが一台しかない家でも、ビデオデッキの登場によってチャンネル争いの必然性は大きく下がった――家族が誰も観たがらない番組は、録画して後で一人で観たって構わないのである。
「皆で観るテレビ」から「一人で観るテレビ」になった意味はとても大きい。
私達は、皆が観る番組を観なくなった。皆で観ていた頃のテレビは、そのテレビを共有する人間の政治力学や妥協、話し合いによって視聴番組が決まりがちで、紅白歌合戦、東京オリンピック、巨人阪神戦のような番組は、チャンネル争いで有利になった。怪物視聴率が存在した一因はこれだろう。テレビを独りで観る時代と、テレビをみんなで観る時代では、視聴番組の決定プロセスが違っている。皆でテレビを観る時代が終わると、視聴率の傾向も大きく変わり、紅白歌合戦が大晦日の視聴率を丸呑みする風景は過去のものになった。
対して、平成以降は私達は好きな番組を好きなように観ている。父親の観る番組と母親の観る番組が別々になって、子どもは子ども部屋でアニメやドラマを観ている。テレビの台数が増えればチャンネル争いが起こらない。不承不承ニュースや野球中継を観ていた女子学生は、そういうものを視界に入れずに済むようになった。恋愛ドラマなんて観たくないお父さんも好きな番組だけ観るようになった。「好きな番組を観たい」という観点からすれば、福音だったと言える。
そのかわり、私達はテレビで観たくない番組・(今風の言い方をすれば)他のクラスタ・他の世代が観るような番組を目にしなくなった。恋愛ドラマの好きな女子学生は、もはや野球選手や関取の名前を覚えない。思春期の子どもが観たがる番組を親が垣間見る機会も減った。子どもが頭の悪そうなバラエティ番組を観ている際、親が横で「これは面白いけどくだらないぞ」「こんなのばっかり観ていたらバカになるぞ」と小言を言ってくれる機会が無くなった、とも言える。テレビはチャンネル争いというコンフリクトから解放されたかわりに、一家団欒の機能も失った。それだけでなく、「この番組が他のクラスタ・他の世代からはどう見えるのか」をうかがい知る機会をも喪失した。“その番組は胡散臭いだろうか?信用するに値するだろうか?子どもっぽい内容か?古めかしい内容か?”――こういったことを複数名で言葉を交わし合うことなく、すべて自分一人で判断するようになった。その後も、ワンセグの普及などもあってテレビはますます一人で観るメディアとしての性質を強めつつある。
だから、「みんなで観るテレビ」から「一人で観るテレビ」への移行は、マスメディアとしてのテレビの性質を密かに変えてしまった、と言える。
「みんなで観るテレビ」は、番組の是非や評価を一人で判断するのでなく、他人と言葉を交わしながら判断するものだった。“オレたちひょうきん族”を楽しんでいる子どもに、親が「くだらねーw」と突っ込んでくれるようなメディアであり、番組の評価や社会的位置づけについて、複数名の意見が耳に入る状況で番組を観ていた。
ところが「一人で観るテレビ」は、自分一人だけで観ているから、番組の是非や性質については自分一人で判断できる=判断しなければならなくなった。世の大半の人が幼児っぽいと思っている番組でも、自分が高尚だと思い込めば、その番組は留保なく高尚な番組とみなされる。観たくない番組はどんどん観なくなるので、他の世代が何を観ているのかもわからなくなる。観たいものしか観ないテレビは、チャンネル争いが起こるテレビ・同じ番組を(不承不承にせよ)誰かと共有することのあるテレビとは別物だ。
では、一人で観るインターネット、とは?
以上を踏まえてインターネットについて考えてみる。
インターネットではチャンネル争いが起こらない。それはもう、恐ろしいほどチャンネル争いが起こらない。パソコンもタブレットも個人向けの端末であって、複数名がチャンネル争いして使うものではない。なにより、ガラケーやスマートフォンといった端末は造りからして個人向けにつくられている。世の中の殆どの人は、インターネットで観るコンテンツを家族と共有しない。誰もが自分の端末をスタンドアロンに覗き込んで、自分の観たいコンテンツ・followしたいアカウントを眺めている世界。コンフリクトは無いけれども、団欒も無い。「一人インターネット」の普及によって、私達は遠くの誰かと細く繋がるようになったと同時に、隣のソファに座っている人とは繋がりにくくなった。
なにより重要なのは、「おまえ、そんなくだらないインターネット観てるのか」とは誰も突っ込んでくれなくなったことだ。インターネットには、とても勉強になるコンテンツや知的好奇心を刺激してやまないコンテンツもあれば、ゴシップ誌も真っ青の、それはそれは低俗なコンテンツも並んでいる。うぶなネットユーザーを欺してカネを巻き上げてやろうとするような、ネット山師的なコンテンツも混じっているだろう。けれども、そうした無数のコンテンツを眺めている際に、「おまえ、そんなくだらないインターネット観ているのか」とか「おまえ、それはネット山師だよ」と言葉を交わせる相手がいないのだ。ストッパーになってくれるような、多様な価値観を提示してくれるような人間がディスプレイのこちら側にいない。
私達は今、コンテンツの可否をそれぞれスタンドアロンに判断している。それがインターネットの常識になっている。ということは、どれだけ偏った判断を繰り返していても、どれだけ退廃したインターネットをしていても、軌道修正を促してくれる他人が傍にいないということだ。例えば、ニコニコ動画で特定方面に偏った動画ばかりを眺めて、それを常識だと思い込んでも、「おまえ、メチャクチャ偏っているよ」と突っ込んでくれる人は誰もいない。もちろん、そういう偏った動画のなかでは支持の声が大勢を占めていてアンチが叩かれているので、その動画のギャラリーの声だけでは偏りの程度は分からない。そんなわけで、偏った動画ばかり観ている人は、ディスプレイの内側で自分の偏りに気づくチャンスがあまり無い。ニコニコ動画だけでなく、SNSのタイムラインにも当てはまるだろう。事前に強い選好をきかせてしまったネットユースは、自分の偏りに気づきにくい。
「インターネットではチャンネル争いが起こらない」。
これって、結構恐ろしいことじゃないだろうか。
好きなコンテンツを好きなように眺められるメディアは、好きなコンテンツを好きなように眺めてしまうリスクとも背中合わせだ。そのリスクは公共メディアとしてのインターネットの性質をそれなり面倒臭いものにしていると思われ、少なくとも19世紀のヨーロッパのカフェーや昭和時代のテレビが担っていたような、公共メディア機能とは同質ではない。もっと違った何かを期待すべきだろう。そして個々人においては、自分の観ているコンテンツが他の世代や他のクラスタからどのように見えているのか・自分以外にとってどのような意味を持つのか、折にふれて確認したほうが良いと思われる。この、テレビよりも広くて深い情報の海を一人で覗き込んでいると、自分がどのあたりを漂流しているのか見失ってしまいやすい。
執筆:この記事はp_shirokumaさんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年03月11日時点のものです。
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