『千日の瑠璃』474日目——私は想念だ。(丸山健二小説連載)

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私は想念だ。

あと一年生きられたかどうかもわからないほどよぼよぼしていた相手とはいえ、ともかく人間ひとりを轢殺したことがある女の頭に、とりとめもなく浮かぶ想念だ。あの人身事故の外因は天候にあり、示談もすんなりと成立し、金もすべて払い終え、交通刑務所も出てきたというのに、あれ以来彼女は心中快々として楽しまず、むしろ被害者より悲惨な末路を辿りつつあった。夫をも巻きこんで。

私は昼となく夜となく彼女を責め立て、苦しめる。手を束ねて見ているしかない彼女の夫も、近頃では思案顔が板についてしまい、彼女と共にわるい方向へ傾いてきている。仕事に身を入れなくなり、そのくせ帰りが遅くなって、帰宅したときにはいつも前後不覚に陥るほど酔っている。そんな夫を見ているうちに彼女は少し正気づき、このままでは駄目になってしまうという危機感が頭をもたげた。

きょう彼女は、理由もなしに欠勤した夫にこう言った。「わたしはもう大丈夫だから」と。心配には及ばないことを証明するために、彼女は外出してみせた。それも夜ではなく昼間堂々と、近所の奥さん連中と会釈を交しながら、川向うのスーパーマーケットまで歩いて行った。何事もなければ私と手を切ることができただろう。だが、道路に寝そべってクルマに急ブレーキを掛けさせている青々とした少年が、私に黒々とした力を盛り返させた。私は彼女を追い返し、ふたたび家に閉じこめた。
(1・17・水)

丸山健二×ガジェット通信

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