『千日の瑠璃』421日目——私は思いだ。(丸山健二小説連載)
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私は思いだ。
空が明るむ頃、諸事を上司に託して寒々としたまほろ町を立ち去る男、彼のきっぱりとした思いだ。乱倫の振る舞いと房事過多な日々がもたらした切迫の事態はすでに遠のき、厄介な問題のすべてにけりがついていた。つまり、妻子と別れ、女とも手を切り、役場を退職したのだ。そうした一連のごたごたは部外者にも知れ渡り、この田舎町ではもはや白日の下に身を晒すことができなくなった。
時間になっても太陽は現われず、生憎の雨となり、冷雨が私をいくらか湿っぽくさせたが、大したことはなかった。こんなときでも鬘だけは忘れない上司は、女でしくじった部下を役場のクルマに乗せて駅のある町まで送りなから、終始無言だった。そして、小さな旅行鞄に身の回り品だけを詰めこみ、懐に新生活を始めるにはあまりにも心細い金を入れている部下は、私が乱れるのを恐れて、のべつ明朗闊達に喋りまくっていた。
部下は、訊かれもしないのに「大丈夫です」を連発し、ありふれた運命論を持ち出し、なぜか樹幹を傷つけて脂を採った少年時代の思い出話をし、「男っていつも不様ですねえ」と呟き、夜更しや深酒は体に障るからくれぐれも気をつけて、などと言った。それから彼は、まほろ町と赤の他人の町を区切る峠に差しかかると、落着いたら手紙を書く、と言い、言い終らないうちに声をつまらせ、私は雨に濡れた。上司は言った。「手紙は要らんぞ」
(11・25・土)
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