「人生の大半を占めるのは仕事だ」という前提に異議を唱える
今回は電脳くらげさんのブログ『脱社畜ブログ』からご寄稿いただきました。
「人生の大半を占めるのは仕事だ」という前提に異議を唱える
昨日、「仕事で自己実現をしなければならない、というまやかし」と題した記事を書いて、仕事と自己実現が必ずセットで語られる風潮を批判した。この記事には結構な反響があり、中には否定的な意見もいくつか見られた。
「仕事で自己実現をしなければならない、というまやかし」 2012年11月18日 『脱社畜ブログ』
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2012/11/18/194944
今日はその反対意見の中で、僕がもっとも気になったものについて書きたいと思う。それは、「人生の大半を占めるのは仕事なのだから、やはり仕事で自己実現をするのが一番よい」という意見だ。
この意見については、僕はそもそも前提の置き方に疑問を感じている。この意見が前提としている、「人生の大半を占めるのは仕事だ」というのは、どうしても動かしがたい、絶対に受け入れなければならないような事実なんだろうか。
確かに、現代日本の典型的雇用感に則って、週に5日間、基本的に毎日残業をして、時には休日出勤も行い、大学卒業から定年までの40年間サラリーマンをし続けるというのであれば、「人生の大半を占めるのは仕事」と言われても仕方がない。
でも、本当にみんなが週に5日間も働かないと社会は維持できないんだろうか。社会の構成員全員が週に5日間働かないと社会が回らないから、労働日数が週に5日間と設定されているとは僕には到底思えない。仕事を生むための仕事のようなしょうもない仕事も世の中には多いし、仕事に就きたくても就けないという人もいっぱいいる。本当かどうか知らないが、社内ニートが急増中だというゴシップもある。大企業やお役所の仕事には非効率が目立ち、「働いているふり」や「労働ごっこ」で給料をもらっている人は、かなりの数いる。結局、みんなが5日間無理に働かなくても、十分社会は維持されると僕は思う。
このブログでは何度か書いているが、僕はこれだけ科学技術が進歩した現代に見合うのは、週休三日ではないかと思っている。もっというと、週休三日も過渡期に過ぎず、技術の進歩に従って人はどんどん休みを増やしていけばよいと思っている(最終的には、週に二日間だけ働くぐらいがちょうどいいんじゃないか)。便利になった分で生活水準を上げるのではなく、自由な時間を増やしていくのだ。そうすれば、仕事の人生に占める割合は今よりもずっと小さくなり、仕事は単なる必要悪ということになって、無理に自己実現を考えなくてもよくなるはずだ(もちろん、仕事が好きな人まで仕事を必要悪と捉える必要はない。そういう人は、余った時間でもっと仕事をすればいい)。
とは言っても、社会の構造を変えるのはそんなに簡単ではない。僕が専制君主や独裁者にでもなれば明日にでも週休三日制を導入したいところだが、現実的には解決しなければならない問題も多い。ただ、週休二日制だってあとで導入されたものなのだから、絶対に週休三日制に移行するのが不可能だとは思わない。一番の障壁となるのは、日本人特有の足の引っ張り合い精神と、勤労は美徳、という価値観だろう。社会全体が、みんなで怠けよう、楽をしようという方向に動けば十分に可能だと思っている。
人生の大半を占めるのが仕事だという事実が過去のものとなった「ポスト勤労時代」が到来することを願ってやまない。
執筆: この記事は電脳くらげさんのブログ『脱社畜ブログ』からご寄稿いただきました。
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