領土問題は終わらない
この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。
領土問題は終わらない
韓国大統領の竹島上陸と尖閣への香港の活動家の上陸で、メディアが騒然としている。
私のところにも続けて三社から取材と寄稿依頼が来た。
寄稿依頼は文藝春秋で、この問題について400~800字のコメントを、というものだった。
そのような短い字数で外交問題について正確な分析や見通しが語られるはずがないのでお断りした。
日米安保条約について、あるいは北方領土問題について400字以内で意見を述べることが「できる」というふうに文藝春秋の編集者が信じているとしたら、彼らは「あまりにテレビを見過ぎてきた」と言うほかない。
400字というのは読み上げるとちょうど1分である。ワイドショーのコメンテイターが独占的に使用することのできるぎりぎりの時間である。ということは、「あなたの領土問題についての意見を2分以内で述べて下さい」という申し出をしてきたということである。
街頭インタビューの場合なんかは「10秒以内でおねがいします」くらいの指示が出ているのだろうから、2分というのはまたずいぶん気前よく時間を与えてくれたものだ。
これにOKの返事をした「有識者」たちはたぶん「テレビ慣れ」しているのだろう。
だが、「2分あれば領土問題について、それなりの知見が語れる」とほんとうに信じているとしたら、メディアの知的不調は想像以上に深刻である。
そのこと自体が、このような外交上のトラブルに対応しきれていない「日本システムの不調」の徴候のひとつであるように私には思われる。
メディアに「問題を解決してくれ」とか「ソリューションを示してくれ」とか私は頼んでいるわけではない。
せめて「問題を報道する」ことに限定してはくれまいか。
メディアが「問題そのもの」になってどうする。
『GQ』と毎日新聞の取材にはそれぞれ20分ほど話した。
とりあえず、「中華思想には国境という概念がない」ということと「領土問題には目に見えている以外に多くのステイクホルダーがいる」ということだけには言及できた。
華夷秩序的コスモロジーには「国境」という概念がないということは『日本辺境論』でも述べた。
私の創見ではない。津田左右吉がそう言ったのを引用しただけである。
「中国人が考えている中国」のイメージに、私たち日本人は簡単には想像が及ばない。
中国人の「ここからここまでが中国」という宇宙論的な世界把握は2000年前にはもう輪郭が完成していた。「国民国家」とか「国際法」とかいう概念ができる1500年も前の話である。
だから、それが国際法に規定している国民国家の境界線の概念と一致しないと文句をつけても始まらない。
勘違いしてほしくないが、私は「中国人の言い分が正しい」と言っているわけではない。
彼らに「国境」という概念(があるとすれば)それは私たちの国境概念とはずいぶん違うものではないかと言っているのである。
日清戦争のとき明治政府の外交の重鎮であった陸奥宗光は近代の国際法の規定する国民国家や国境の概念と清朝のそれは「氷炭相容れざる」ほど違っていたと『蹇蹇録』に記している。
陸奥はそれを知った上で、この概念の違いを利用して領土問題でアドバンテージをとる方法を工夫した(そしてそれに成功した)。
陸奥のすすめた帝国主義的領土拡張政策に私は同意しないが、彼が他国人の外交戦略を分析するときに当今の政治家よりはるかにリアリストであったことは認めざるを得ない。
国境付近の帰属のはっきりしない土地については、それが「あいまい」であることを中国人はあまり苦にしない(台湾やかつての琉球に対しての態度からもそれは知れる)。
彼らがナーバスになるのは、「ここから先は中国ではない」という言い方をされて切り立てられたときである。
華夷秩序では、中華皇帝から同心円的に拡がる「王化の光」は拡がるについて光量を失い、フェイドアウトする。だんだん中華の光が及ばない地域になってゆく。だが、「ここから先は暗闇」というデジタルな境界線があるわけではない。それを認めることは華夷秩序コスモロジーになじまない。
繰り返し言うが、私は「そういう考え方に理がある」と言っているのではない。
そうではなくて、明治の政治家は中国人が「そういう考え方」をするということを知っており、それを「勘定に入れる」ことができたが、現代日本では、政治家もメディアも、「自分とは違う考え方をする人間」の思考を理解しようとしないことを指摘しているだけである。
「強く出ないと相手になめられるから、弱腰になるな」というような中学生的交渉術を声高に言い立てる人間は「相手は自分と同じだ」と思っているからそう言うのである。
自分だったら「弱腰の相手」にはどれほど無法な要求でもするつもりでいるからそう言うのである。
だが、「自分が相手の立場だったらこうするだろう」という鏡像的想像だけで外交はできない。
国家のセルフイメージも、国家戦略も、それぞれの国ごとに違うからである。
実際にはその「違い」のうちに外交的な「妥協」の余地が存在する。
当事国の一方にとって「大きな損失」と思われるものが、他方においては「それほどでもない」ということがあり、一方にとって「大きな利得」と思われるものが、他方においては「それほどでもない」ということがある。
周恩来は1973年の日中共同声明において、日本に「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」という文言を呑ませたが、戦時賠償請求は放棄した。
周恩来は賠償金を受け取るよりも一行の謝罪の言葉を公文書に記させることの方が国益増大に資するという判断をした。
「言葉」を「金」より重く見たのである。
これは「誰でもそうする」という政治判断ではない。
鄧小平は78年に有名な「棚上げ論」を語った。
複雑な係争案件については、正しい唯一の解決を可及的すみやかに達成しようとすることがつねに両国の国益に資するものではないという鄧小平談話にはいろいろ批判もあるが、それが「誰でも言いそうなこと」ではないということは揺るがない。例えば、国内における政治基盤が脆い政治家にはそんなことは口が裂けても言えない。
外交の「手がかり」はこの「誰でもするわけではないこと」にある。
というか、「そこ」にしかない。
日本が「失っても惜しくないもの」と中国が「失っても惜しくないもの」が「同じではない」のはどういう場合か、それを探り当てるのが外交の骨法である。
ふつうに考えられているように、外交とは両国の「利害の一致点」を探すことにあるのではない。
「利害がずれるところ」を探すのである。
だが、この「手がかり」の探求と分析に知的資源を投じている人は、メディアを徴する限り、今の日本にはほとんどいないように思われる。
しかし、そういう人がいないと領土問題は永遠に解決しない。外務省の一隅か、議事堂の一隅に、黙ってそういう仕事をしている人がいると私は信じたいと思う。
もうひとつメディアがまったく報じないのは、「領土問題の他のステイクホルダー」のことである。
領土問題は二国間問題ではない。
前にも書いたことだが、例えば北方領土問題は「南方領土問題」とセットになっている。
ソ連は1960年に「日米安保条約が締結されて日本国内に米軍が常駐するなら、北方領土は返還できない」と言ってきた。
その主張の筋目は今も変わっていない。
だが、メディアや政治家はこの問題がまるで日ロ二カ国「だけ」の係争案件であるかのように語っている。アメリカが動かないと「話にならない」話をまるでアメリカに関係のない話であるかのように進めている。それなら問題が解決しないのは当たり前である。
当のアメリカは北方領土問題の解決を望んでいない。
それが米軍の日本常駐の終結と「沖縄返還」とセットのものだからだ。
領土問題が解決すれば、日本は敗戦時から外国軍に不当占拠されている北方領土と「南方領土」の両方を獲得することになる。
全国民が歓呼の声で迎えてよいはずのこのソリューションが採択されないのは、アメリカがそれを望んでいないからである。
あるいは「アメリカはそれを望んでいない」と日本の政治家や官僚やメディアが「忖度」しているからである。
竹島はまた違う問題である。
さいわい、この問題は今以上こじれることはない。
「こういう厭な感じ」がいつまでもエンドレスで続くだけである。
あるいはもっと重大な衝突が起きるかもしれないが、軍事的衝突にまでは決してゆかない。
それは私が保証する。
というのは、もし竹島で日韓両軍が交戦状態に入ったら、当然日本政府はアメリカに対して、日米安保条約に基づいて出動を要請するからである。
安保条第五条にはこう書いてある。
「両国の日本における、(日米)いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動することを宣言している。」
領土内への他国の軍隊の侵入は誰がどう言いつくろっても日本の「平和及び安全を危うくする」事態である。
こういうときに発動しないなら、いったい安保条約はどういうときに発動するのか。
他国の軍隊が自国領に侵入したときに、米軍が動かなければ、日本国民の過半は「日米安全保障条約は空文だった」という認識に至るだろう。
それはもう誰にも止められない。
そのような空文のために戦後数十年間膨大な予算を投じ、軍事的属国としての屈辱に耐えてきたということを思い出した日本人は激怒して、日米安保条約の即時廃棄を選択するだろう。
竹島への韓国軍上陸の瞬間に、アメリカは東アジアにおける最も「使い勝手のよい」属国をひとつ、永遠に失うことになる。
それに米韓相互防衛条約というものがあることを忘れてはいけない。
これは「戦時」における作戦統制権は米軍にあると定めている。
だから韓国軍の竹島上陸という「作戦」は在韓米軍司令部の指揮下に実施された軍事作戦なのである。つまり、「韓国軍の竹島上陸」はすでに日米安保条約をアメリカが一方的に破棄した場合にしか実現しないのである。
その場合、日本政府にはもはやアメリカと韓国に対して同時に宣戦を布告するというオプションしか残されていない(その前に憲法改正が必要だが)。
しかし、軍事的に孤立無援となった日本が米韓軍と同時に戦うというこのシナリオをまじめに検討している人は自衛隊内部にさえいないと思う(なにしろ北海道以外のすべての日本国内の米軍基地で戦闘が始まるのである)。
そんなことは誰も望んでいない。
日本人もアメリカ人も韓国人も、誰も望んでいない。とくにアメリカが望んでいない。
小さな島ひとつの所有をめぐっての日韓の意地の張り合いのせいで、アメリカの19世紀からの150年にわたる西太平洋戦略が灰燼に帰してしまうのである。
そんな情けないことをアメリカが許すはずがない。
あらゆる手立てをつくして竹島における戦闘行為の発生を抑止するはずである。
だから、安心してよい、というのもひどい言い方だが、ほんとうなのだから仕方がない。
このことからわかるように、外交についての経験則のひとつは「ステイクホルダーの数が多ければ多いほど、問題解決も破局もいずれも実現する確率が減る」ということである。
日本はあらゆる外交関係において「アメリカというステイクホルダー」を絡めている。
だから、日本がフリーハンドであれば達成できたはずの問題はさっぱり解決しないが、その代わり破局的事態の到来は防がれてもいるのである。
今さら言うほどの話でもないが、たまには思い出した方がよいと思うので、かくは贅言を弄したのである。
執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。
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