300万人の「血と汗と涙の結晶」半世紀に渡るビッグプロジェクトがついに完結――外環道(千葉区間)開通の裏側に迫る<第3回>
6月2日に開通した、東京外郭環状道路(通称「外環道」)の千葉区間(三郷南IC~高谷JCT)。このプロジェクトに費やされた時間は約50年、総費用は約1兆5000億円にものぼる。この国家的ビッグプロジェクトに関わった人たちに次々と立ちはだかる壁をいかにして乗り越えたのか、知られざる秘話を語っていただく当連載。前回は現代日本の土木技術の粋を結集して実施された難工事の一部を紹介した。最終回となる今回は、このプロジェクトに懸けた思い、情熱、そして“これから”を聞いた。
▲6月2日、開通式典が盛大に開催された
何度も話し合い、「苦情」が「応援」に変わる
工事の難易度は非常に高いものだったが、もう1つ、別の難しい問題があった。それは住民対策。住宅密集地での工事であるがゆえに、工事が始まると、住民たちから多くの苦情が寄せられた。それを真正面から受け止めたのが、実際に現場で働く男たちだ。市川中JV工事を統括している鹿島建設の奥本現所長は、その時の模様をこう証言する。
▲東京外環道自動車道市川中工事 鹿島・大林・鉄建特定建設工事共同企業体外環道市川中JV工事事務所所長の奥本所長。2013年から市川中JV工事を統括している
「そもそも工事現場は閑静な住宅街なので、工事がスタートした当初は住民の方々から、生活環境に影響が出るという苦情がものすごく多く寄せられました。1つの苦情で工事が差し止めになることもありえないことではありません。そうならないように、どうすれば騒音、振動、交通渋滞がなくなるだろうかということを日々考えていました。クレームをいただかないためには、まずは住民の方々とのコミュニケーションが第一だと考え、地元の自治会の方々と何度も話し合ったり、地域の新年会に参加して一緒に餅をついたり、避難訓練のお手伝いをしました。こうすることで次第に理解を得られるようになって、『うるさい』という苦情から『とにかく早くいい道路を作ってください』という励ましの声に変わり、何かと協力してくださるようになったんです」
外環道完成後の車の騒音を極力抑えるために、道路の両側に設けられた遮音壁の工事を担当した施工会社の1つ、工建設の齊田岳史氏は現場の苦労を以下のように語る。
▲工建設工事部主任の齊田氏。国道298号の田尻高谷に遮音壁を設置して、沿線の住民の環境を守る工事に従事。この現場では所長を務める
「遮音壁の一部に、深夜帯しか工事ができない箇所がありました。その中に、金属の金具をハンマーで叩き込まなければならない作業があります。そうするとどうしても金属同士の打撃音が発生して、かなり遠くまで響くので、苦情が出る恐れがありました。そのため、少々値段は高くなるのですが発注者と協議をしてなるべく音が出ない金具を使いました。それでもやはり苦情は来るので、ご理解をいただけるよう、実際にご意見をいただいた住民のお宅を訪問して、お詫びをし、事情を説明していました。苦情対応も仕事のうち。それを怠ったらこの工事は成り立たくなりますから。また、工事を始める前の告知など事あるごとに住民の方とはコミュニケーションを密に取るように心掛けていました。こういうことを何年にも渡ってやっているうちに、住民の方も次第に応援してくださるようになり、おかげさまで工事もやりやすくなったんです」
▲江戸川やJR常磐線の上空を通る、松戸市小山高架橋の遮音壁設置工事の様子。遮音壁の支柱は5600本にも及んだ
このように、工事に携わる人たちは地元住民の心情を何よりも大切にした。例えば開通予定地の市川市菅野には、市の木に指定されている黒松の木が何本も生えていた。工事のためには伐採するしかないが、この黒松は、町の人にとってはシンボルツリー。ただならぬ思い入れを持っていた。そのため、工事前に黒松を根本から抜いて終了後に同じ場所に移植したり、どうしても伐採しなければならない松は、その種子を育ててある程度成長した段階で移植するという措置を取った。移植には1本数百万円もの費用がかかったが、市川の黒松を絶やしたくないという地元住民の思いを尊重したのだった。
日本のため、地域住民のため
計画スタートから約50年。国家的ビッグプロジェクトだけに、これまでたくさんの困難・苦労があった。工事関係者は深刻なトラブルや進捗の遅延のため、自宅に帰れないことも一度や二度ではなかった。断腸の思いで開通時期の延期を決断せざるをえないこともあった。しかし、そんな数々の問題に直面しても心折れることなく、一心不乱に仕事に打ち込む技術者たちの姿があった。そして幾多の困難を乗り越えついに、2018年6月2日、外環道千葉区間は開通を迎えた。現場で汗水流してきた技術者たちは、これまでどのような思いで仕事に挑んできたのだろうか。
「このプロジェクトは、まずトップに発注者の国交省とNEXCO東日本がいて、その下に我々元請け、さらにその下に何百という協力会社(建設施工会社)がいます。それぞれ立場も業務内容も利害関係も少しずつ違うのですが、この外環道千葉区間の開通プロジェクトを無事に成功させるという思いは同じなんです。現場では日々大小様々なトラブルが起こりましたが、そのたびに三者協力して一つひとつ乗り越えてきました。確かに大変ではありましたが、同じ思いの元、一体感、連帯感を感じながら仕事ができたのはよかったと思います。
1人の土木技術者としては、我々が取り組んでいるような、日本のインフラを支える仕事はなくてはならないとても重要なものだと思っています。今回も現代日本の土木技術の粋を集めた工事で、俺たちにしかできない仕事だという自負があり、関われたことをとても誇りに思います。この外環道千葉区間が完成したら多くの人の生活が便利になることは間違いないので、世のため、人のためという使命感で仕事に打ち込んできました」(奥本氏)
「私が現場で働く上で一番大事にしてきたことは、協力会社に仕事をやらせているんじゃなくて、やってもらっているという意識をもつことです。なぜなら実際に穴を掘ったり、コンクリートを打ったり、ダンプで土や資材を運んだりという道路を造るための作業ができるのは協力会社の作業員の方々です。彼らを抜きにしては何一つ完成しません。我々にはできないことをやってのける彼らに敬意をもちつつ、一緒に頑張ってきました」(齊田氏)
キーワードは“感謝”
開通式では、300万人の実質的な頂点に立ち、このビッグプロジェクトを指揮・統括してきた2人の男も特別な思いを抱いていた。
▲高速道路部分を統括したNEXCO東日本の木曽氏
「この現場は2回目だということが、思い入れをより強くしています。同じ現場に戻ってくることはそうそうないんです。だから幸運ですよね。もちろんいい道路を作ろうという思いは同じですが、この現場にアンカーとしてまた戻って来たからにはとにかく安全、無事に道路を完成させたいという思いが一番強かったです。前回でもお話した通り、最初に赴任した2008年当時は地元住民の反対が多くて、何も工事ができない状態でした。市川市の菅野は一番大変な地区だったのですが、それから少しずつ住民の理解を得て、工事を始められて、完成までこぎ着けられたわけなので、感慨深いですよね。地元住民の方々にはもう一度会って感謝したいです。それと、土木でここまでの大規模な国家プロジェクトはなかなかありません。『これ俺が作ったんだぞ、すごいだろ』と家族や友人に自慢できます。それに関われたことの誇りと感謝も大きいですね」(木曽氏)
▲国道部分を統括した国交省の甲斐氏
「私も課長時代は激務が続きましたが、日本のため、地域住民の方のため、この道路を何としても完成させなければならないという使命感があったので、全く苦になりませんでした。そもそも私の苦労は苦労のうちに入らないと思っています。一番苦労したのは、現場で頑張ってくれた作業員の皆さんであり、私の指示で動いてくれた事務所のスタッフですからね。2016年4月に所長としてこの現場に再び着任した当初に職員に伝えたのは、『感謝の気持ちをもって、このプロジェクトを完成させよう』ということ。最初に赴任した10年前のことを知っているからこそ、今、私たちが工事に集中できるのは地権者・地元の方々の協力のおかげ。多くの方々がこの道路事業を応援し、支えてくださいましたし、何十年にも渡って先輩方がタスキを繋いできてくれたからこそ。そういうこと全てに感謝をして開通を迎えなきゃいけないし、逆に地域の方に感謝をされる開通を迎えないと50年やってきた意味がないという思いで、この2年間プロジェクトに打ち込んできました。
原点に立ち返ると、私たちも現場の作業員の皆さんも、誰かに喜んでもらいたいから、公共事業の仕事をしているわけですからね。もちろん、つらいことや苦しいこともたくさんありました。以前、市川在住の方から『生まれてからずっとフェンスで囲まれた広い土地を見て育った』と言われた時はかなりショックでしたね。そんな殺風景なシーンが子どもの頃からの思い出になっているというのはいたたまれませんでした……。それから昨年12月に開通延期を決断せざるをえなかった時も本当につらかった。直接的な原因は京葉ジャンクションの工事が予想以上に困難で、長引いてしまったからです。当初予定していた今年の3月の開通を楽しみに待っている皆さんの期待を裏切ってしまう結果となってしまいましたから、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも現場で頑張ってくれた人たちはものすごい物理的な制限がある中で、限界ギリギリ、いや、限界を超えるまで頑張ってくれていたんです。それだけに、6月までには必ず開通させる、皆さんに喜んでもらう、という気持ちで仕事に打ち込んできました。
公共事業は普通の工事でも10年はかかるので、完成するタイミングで関わっていられるということはものすごい幸せなこと。しかもこのプロジェクトは50年もかかっているわけですから。それだけに、多くの市民の皆さんが開通を祝ってくださった前夜際、そして翌6月2日の開通式典と16時の交通開放が終わった時は、感無量で言葉もなかったですね。その日の夕方、自分の車で開通したばかりの外環を走りましたが、国道に架かっているいくつもの横断歩道橋の上で、たくさんの方々が車の流れを見てらっしゃっていて、中には手を振ってくださっている方もいらっしゃいました。この光景を見た時、もう言葉では言いあらわせない、熱い思いが込み上げてきました。これまであった、いろいろつらいことや苦しいことを含め、これまでやってきたすべての仕事が報われた気がしました。本当に涙が出るほどうれしかったですね」(甲斐氏)
▲開通式典、交通開放には多くの市民が駆けつけ、50年越しの歴史的瞬間に喜びに沸いた。松戸インターチェンジの通り初めにて
6月2日の開通以降、東京や千葉、そして市川・松戸地域の車の流れが大きく変わった。開通1週間後の速報値では、首都高速中央環状線の交通量が4~17%減少し車の流れがスムースになっている。市川湾岸エリアから東北道までの所要時間が28分短縮され、千葉と埼玉、市川・松戸と東京都心がより近く感じられるようになった。市川・松戸市内の道路では、多いところで交通量が3割、大型車が5割減少し、速度が4割向上。利用者からも「毎日の大渋滞が嘘のように消え、日曜の朝みたいに車がいない」「朝の通勤での混雑がなくなったので、ずいぶん早く職場に着くようになった」「周辺の交通事情が劇的に改善され、便利になった」といった喜びの声がたくさん寄せられているという。
「これらの劇的な効果を実感して改めて思うのは、地域住民の皆様、土地を提供してくださった皆様、とてつもない難工事にまさに命懸けで取り組んでくださった作業員の皆様など、多くの関係者の皆様への感謝と敬意です。だからこそ『開通してよかったね』で終わりじゃなくて、その後、地域がこれを機にもっと魅力ある街に変わるために私たちに何ができるか、そこまで含めてやってかないといけないと思っています。例えば、外環の開通をきっかけに今までは渋滞していた街中の道路が空いてくる。そうすると、今まではできませんでしたが、ある1日、その道路を通行止めにして、そこでお祭りとかイベントを開催し、多くの人が集い、楽しむ時間と空間が出現する──こんなことができるかもしれません。これから継続して交通データを集め、分析しながら、地域の皆さんと一緒になって、開通したからできることをあらゆる角度から検討していきたいと思っています」(甲斐氏)
外環道千葉区間の開通により、外環道沿線地域の渋滞緩和、生活道路の安全性向上、広域的な観光交流の促進、都心の交通の円滑化による物流の生産性向上など、さまざまな効果が早くも出始めている。その裏には50年の長きに渡って世のため人のため、熱き使命感をもって、血と汗と涙を流してきたのべ300万人以上の“職人”たちがいるということを、我々は忘れるべきではないだろう。 文・写真:山下久猛 図版:国交省、NEXCO東日本
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