風の名前を聞け。語られた神話としての人生。
異世界ファンタジイにしろ魔法学園小説にしろ、どうしてこうも長いシリーズが好きなのか。せっかく作りあげた設定やキャラクターを大切にしたい(読者の側からすれば「長くひたっていたい」)と思う気持ちはわかるが、それに値する設定やキャラクターがそうあるものではない。量的に拡大すればするほど、ジャンル全体は陳腐化・劣化するだけではないのか—-なんて心配になる。よけいなお世話かもしれないけれど。
もちろん、こうした論は「木を見て森を見ず」の逆で、個々の作品の特質をきちんと確かめているわけではない。正直にいえば『ハリー・ポッター』以降あまりに作品が増えすぎて、どれを読めばいいやらわからなくなっているのだ。本書『風の名前』も、初めて邦訳されたのは2008年だが(白夜書房から三分冊で刊行)、私はそのとき気づかずにスルーしてしまった。こんかいのハヤカワ文庫版は、それを五分冊で再刊する企画だ。聞くところによると第二部の翻訳も進んでいるらしい。そして、今年中には原著第三部も刊行される予定とのこと。
第一巻の解説で大森望さんが指摘されているように、『風の名前』はオースン・スコット・カードやアーシュラ・K・ル・グィンが賛辞を寄せている。どちらもファンタジイとSFの両分野にまたがって力作を発表している実力作家であり、ファンタジイ論や創作論をなしている理論派でもある。このふたりのお墨付きとあれば、『ハリー・ポッター』のエピゴーネンということはないだろう。そう思って手に取った。
一読して印象に残ったことはふたつ。
第一は、主人公クォートを突き動かす衝動だ。旅芸人の子どもとして生まれた彼は、六歳のとき、秘術士アベンシーが風を操るのを目の当たりにする。それは魔法だが、術者の生来的な能力(あるいは訓練で身につけた能力)ではなく、「風の名前」を知ることで機能する。大切なのは知識なのだ。しかし、その知識は、誰もが手に入れられる情報ではなく、到達するための資格がある。そういう意味では素質も問われるし、訓練も必要だといえる。そして、それに気づくかどうかは本人しだいである。
ものごとに真の名前があり、それを知ることで制御ができる。この発想はアーシュラ・K・ル・グィン『ゲド戦記』と共通する。その理を知りたいという好奇心に駆られ、クォートは異例の条件をクリアして秘術校に入学し、ときに学校のハミ出し者として扱われながら、ときに教師やクラスメイトとタフなやりあいをしながら、求める道を進んでいく。その過程で、旅芸人の一座出身ならではの表裏の処世術が大いに役立つところが面白い。
第二は、物語の構成だ。『風の名前』は、成長したクォートが伝説の英雄となったのち、身柄を隠して「道の石亭」という宿屋の主人になっているところからはじまる。名前もコートと偽っている。しかし、その正体を看破した紀伝家にうながされ、クォートは自らの生いたちを語りはじめる。つまり、読者にはまず「伝説の英雄」なる物語が提示され、そののちにクォートの口から「本当の人生」という物語を聞かされるのだ。
紀伝家はあとへ引かなかった。「あなたはただの神話と言う人もいます」 「わたしは確かに神話だよ」とコートが大袈裟な身ぶりをしながらあっさり言う。「自分で自分を創り出す特別な神話だ。わたしについていちばんよくできた嘘は、わたしが自分で語ったものだ」
ちょっとうがった見かたをすれば、ここにパトリック・ロスファスの物語論がひそんでいる。クォート(道の石亭ではコート)が旅芸人出身ということを重ねあわせると、ひとはみな自分を語ることで神話を演じているともいえる。人生はフィクションだ。だからこそ、ものごとの「真の名前」を求めるのかもしれない。
それはともかく、『風の名前』の道の石亭の部分はたんなる枠物語にとどまらず、そこでも現在進行形で物語が進んでいく。メインとなる物語は、クォートが語り起こす自分の生いたち(旅芸人の一座→秘術校→英雄伝説)だが、過去に起きたことが現在(道の石亭)へとめぐってくるのだ。読み進むにつれて、この構成がひとつの張力となって小説全体を支えていることがわかってくる。
(牧眞司)
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