探偵は棚にいる。扉の鍵は本に隠されている。
SF界きっての技巧派として知られるジーン・ウルフが2015年に発表した最新長篇。『書架の探偵』という邦題から、ジョン・ダニングや紀田順一郎のビブリオミステリに登場するような古書通の探偵、あるいは古今東西あらゆる書物に暁通したボルヘスのような存在を思いうかべる。いや、ウルフはこれまで書物や語ることを主題とする作品をいくつも書いているので、探偵といっても実体はなく、テキストが自律的に謎解きをするような超虚構小説かもしれない。
しかし、ウルフはそんな読者の予断をあっさりすり抜けてしまう。『書架の探偵』とは、図書館の本棚に暮らしている生身の探偵なのだ。「そんなバカげた設定ありか?」と思うが、ありなのである。当人──この小説の主人公──の言葉で説明してもらおう。
わたしはこの町、香料樹園(スパイス・グローヴ)にある公共図書館の、四段構造になった書架のうち、上から三段めの棚に住んでいる。この手のスペースにはいちども住んだことのない人のために説明しておくと、われわれが住む書架の棚は家具つきの部屋のようなものだ。ただし、この家具つきの部屋は、壁が四面ではなく、三面しかない。
壁でない一面がある。つまり、譬喩ではなく、物理的に「開架」なのだ。図書館の利用者は、棚を見あげて、閲覧もしくは館外借出したい相手を選ぶ。蔵書ならぬ蔵者である。彼らは、過去の作家の複生体(リクローン)で、生体としては生殖で誕生した人間と同等だ。呼吸をし食事や排泄もする。意識や欲望もある。ただし、人権がない。長いあいだ利用されなかった蔵者は、廃棄処分として燃やされてしまうのだ。すくなくとも年に一回くらいの貸出実績が必要らしい。ちなみに原題はA Borrow Man(借り出された男)だ。
うーん、このあたりSFのロジックとしてはかなりおかしい。そのような図書館システムが成立するのだろうか? コスト的に考えても文化的意義として考えても人道的に考えても無理があるような。しかし、それをシレっと書いてしまうのがジーン・ウルフだ。つまり、サイエンス・フィクションではなく、スペキュラティヴ・ファビュレーション(思弁的寓話)。現代の主流文学ではこのくらいはあたりまえ──といえば威張ってきこえるけど、むしろラノベみたいに鷹揚といったほうが近いかもしれない。
蔵者の憂鬱は、廃棄処分の不安だけではない。もともとが作家なのに、ものを書くことは禁じられているのだ。その理由がよくわからないのだが、生前の著書とごっちゃになるのを図書館が嫌っているのかもしれない。いずれせよこの未来──地球の総人口が十億人にまで減少した二十二世紀──では、新しい作品を読みたがる読者などほとんどいないようだが。
さて、われらが主人公は、探偵小説を書いていたE・A・スミスの複生体である。生前の自分がどんな女を愛し、どんな本を書いたかはわかっている。かつての妻の名前はアラベラ・リー。……この記述から、なるほどE・A・ポーのアリュージョンだなとピンとくるが、巻末の若島正さんの「解説」によれば、それだけではなくE・E・スミスやC・A・スミス、E・R・バロウズの匂いもあるそうだ。ちなみにE・A・スミスのスミスは、SmithではなくSmitheと綴る。末尾にeがつくスミス姓は実在するものの、珍しい部類らしい。主人公の名前にわざわざそんな姓を選ぶのはジーン・ウルフの企みかと、この作者の小説を読みなれたひとは首を捻るところだろう。実際、ほかの作中人物の名前も、どうも思わせぶりなのだ。たとえば、物語の中盤、スミスを館外借出するふたり組の男のうちひとり(見つけうるかぎりのスミス作品をディスクで聴いているという)の名前がペインだが、苦痛のPainではなくPayneと綴るのだという。また、スミスが長距離バスで移動するときにたまたま乗りあわせた男女がおり、その男のほうの名がジョルジュ・フェーヴル(Georges Fevre)というのだが、本人が「最後のsは発音しない」と自己紹介をする。
小説を読むのに、登場人物の名の末尾のeだのsだのにいちいち注目しなければならないのか、と呆れるむきもあるだろう。しかし、そういう細部になにか潜んでいる気がするのが、ジーン・ウルフの小説なのだ。
そういえば、E・A・スミスはこんなこともいう。
わたしは半世紀ぶんの中年男の記憶と若者の精神を持っているわけではない。これは少々事実とちがう。図書館からはそう信じるように教えこまされているが、実態はそれほど単純でもない。そもそも、わたしの分別は何歳くらいのものなのだろう? (略)わたしはコレットが思っているより若い。ずっとずっと若い。
コレットとは、スミスを館外借出した利用者である。いま引用した部分は、けっこう思わせぶりだ。べつのところでは〔(生前)最後の脳スキャン〕という記述があるので、複生体にはオリジナルの記憶が転写されているのだろう。だとしたら、「信じるように教えこまされている」という表現は、しっくりこない。また、「ずっとずっと若い」という強調は、何を示しているのだろう?
そんなふうに疑いはじめれば切りがない。《新しい太陽の書》五部作や『ウィザード/ナイト』はほんとうにキツかったから、羮に懲りて膾を吹くみたいな心持ちだ。
しかし、『書架の探偵』に限っていえば、とりあえず判じものを解くような読みかたはカッコに入れてもかまわない。ストーリーだけ追っても、ちゃんと辻褄が合っている。核心に謎の事件があり、探偵役がそれを解くために捜査をし推理をめぐらせ、その過程で妨害や横槍が入るが、仲間と協力してそれを乗りこえ、意外な真相へたどりつく。そうした一連の流れが、ほぼ線的に語られる。「わざわざ伏せられているエピソード」とか意図的な時系列の混乱や文芸的ミスディレクションみたいなことはほとんどない。もしかするとあるのかもしれないけれど(実際にスミスは「いまあなたに話す気はないし、話したところでなにもならない」などと言うときがある)、そういう詮索はしたいひとだけすればいい。
読者を強く牽引するのは、スミスが探偵役に抜擢される経緯だ。コレットは父親につづいて兄を亡くしているが、その兄が死の直前に彼女に託したのがスミスの著書『火星の殺人』なのだ。ふたつの不審死を解く鍵がこの本に隠されていると考えたコレットは、著者であるスミスに協力を要請する。しかし、スミス自身は『火星の殺人』なんて本を書いた覚えがない。二十二世紀では紙の本など珍しいが、コレットの父コンラッド・コールドブルックは蔵書家だったのだ。コレットが持参した『火星の殺人』の現物を見ると、奥付はスミスのオリジナルが亡くなる十三年前になっている。
調べてみると、『火星の殺人』は流通しているエディションがないらしい(この時代はオンデマンドで供給されるが、どの業者もテキストを所持していない)。ここで、稀覯書ミステリとしての興味がぐっと高まる。
さて、本のなかに秘密を隠すなら、いかなる方法だろう? 読者は、きっと『薔薇の名前』や『ダ・ヴィンチ・コード』(あれは絵画だったが)のような巧緻な仕掛けがあるのだろうと身構えるが、なんとなんとジーン・ウルフはとんでもないうっちゃりを用意している。そうきたか!
詳しくいうと怒られるので、あらましだけにとどめるが、『書架の探偵』が譬喩ではなく実体だったように、『火星の殺人』が開く謎の扉も、譬喩ではなく(新しい人生の扉とか、書籍の表題が記されている扉ではなく)物理的な部屋の扉である。
しかし──と、その扉の前で立ちどまって、私は頭をひねるのだ。この扉のむこうにある領域は、はたして現実なのだろうか? なにしろ、これはジーン・ウルフの小説だもの。もしかすると、そこから先は物語のなかってことも……。
(牧眞司)
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