【翻訳記事】アニメ入門講座:ツンデレキャラについて パート1 (その1)
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(挨拶略)
何故「ツンデレ」ってのは未だにとても普遍的なのだろうか?
私はこれから、作者や監督がこの元型を、アニメだけでなく漫画・ライトノベル・ビジュアルノベル等、メディアにおいてどうして多用するのか、彼らのその理由と判断プロセスを吟味する。願わくば、この講座が「ツンデレキャラ」の広範囲に渡る使用を説明する客観的かつ体系的な理由、及びこれらの理由は一般的に悪いものであるという方向性の分析を提供することにより、プラスαな知識をもう少し知りたがっている読者の皆さんが興味深い見解を手に入れることができるだろう。
この講義では、読者が基本的な叙述技法を把握していること、及び定期的にアニメを見ていることを前提として話を進める。もしもあなたの視聴したことのあるアニメシリーズの数が20を下回り、現在放映されているアニメについていっていなければ、この一連の講義は多分あなた向けではないだろう。ということは「初級講座」がミスリードとなるが、まあいい。(簡易テスト!釘宮理恵、灼眼のシャナがだれ、もしくは何であるかわかるかな?知らないなら、もっとアニメを見るべし!)
さて。始めようか?
ツンデレキャラは書きやすい
アニメ産業とは、本質的には営利団体であることを忘れてはならない。自分は経済分析学者では到底ないが、企業というものは最も抵抗が少なく最もでかい利益が得られる道を歩みたいという理想論を念頭においているということを理解するのに、そうである必要はないだろう。作者やアニメーションスタジオも同様だ。なぜ、既成のテンプレ(より一般的には元型と呼ばれる)が存在するのに、時間と資源を使って独創的なキャラクターを作り出す必要があろうか?この考え方はアニメにだけでなく、映画やゲームから小説や演劇にも適用される。
だが、ツンデレキャラは言うほど書きやすいのだろうか?では、実験として、この場でやってみることにしよう。低身長、黒い長髪、冷淡で青い眼差し、ふちなしメガネを掛け、クラスではぼっち、身体的能力で同級生に憧れられ、読書好きの弱々しい男の子と出会い、自身が恋愛小説を好むことを発見し、自分のイメージの保全と新しい趣味のバランスを取るのに苦労し、恋に落ち、いい感じの内容を以下挿入。ほらね?新しいツンデレ漫画の5章分を30秒で構想できた。
私は、ツンデレなどの繰り返し用いられる元型は、書き手の怠慢と近道探し「だけ」の産物だとは思わない。元型があるということは人がその複製に価値を見出した大原型が存在したということを意味するし、既存の何かをちょっと変えて新しいものとして出すのは別に悪いことじゃない。例えば、最近のバットマンやシャーロックホームズなどのリメイクは、昔のよく知られたキャラクターを新しい角度から処理しているもので、面白い。
アニメ産業の問題点は、「既存のなにかを持ってくる」ってのは十分に押さえているが、「独自の一捻りを加える」ってとこができていないところにある。これの理由としてアニメ産業そのものに内在している創造性の欠如を挙げる人が多く見られるが、私は違うと思う。ツンデレを用いた話は、今でもある程度人気があり、採算が合うものであることは明白だ – そうでなければ、製作会社や作家は単に作るのをやめるであろう。ここで働くのは「壊れてないものをむやみに直そうとするな」という心理である。実際、もし私が陳腐なツンデレアニメを作ることで申し分のない量の金を稼いでいたとしたら、自分の行為は正当であり、自分にとってうまくいかなくなるまで同じやり方を続ければよいと思い込むことは十分理にかなっている。(J.C. Staffよ、もうすぐシャナ3期とゼロ魔4期を出すだろうお前らのことだぞ《訳注:元記事は2011年夏に書かれた》)
最終的には、これは時間の問題である。皆がやっと釘宮理恵の「うるさい!」という叫びを幾度も聞くことに疲れを覚え、製作会社が革新を迫られる、もしくはその元型を完全に放棄させられる、という予測不可能な未来のある時点まで待てばよいのである。正直言えば、これは近い将来に起こりそうではない。だがな、ツンデレがHPの回復しないFPSと同じくらい全時代的なものだと見なされる時はいずれ必ずやって来るであろう。
時には、登場人物にしかめっ面をさせることがツンデレイズムを示唆する最も単純な方法である。それも、ずっと。
ツンデレは確立済みかつ広く知られた元型である
これは上記の主張とほとんど同じだが、違った角度からの取り組みである。監督やプロデューサーにとっての限定要因は金銭的・人的資源(つまり彼らはアニメをできる限り安価に、そして少ない人数を雇って製作しなければならない、ということ)であるのに対し、作家にとっての限定要因はストーリーの長さ、あるいは映像作品である場合、上映時間と話数である。なお、よいストーリーは膨大な要素を含んでいる必要がある。文脈、舞台、展開方法、登場人物、筋、主題に関するもの、それへの伏線などなど、よき作者が考慮する必要のあるものは文字通り山ほどある。そして、アニメの場合の12話そこらという制限、あるいは漫画の1章19ページという制限があると、作者は話の厚みを保ちつつ前記の全ての要素を盛り込まなければならないという強い圧迫感を覚えるのだ。ところが、運のいいことに、視聴者の憶測を頼りに時間を節約してくれるある種の説明技法が存在し、ツンデレなどといった元型とはこの技法の一例なのである。
例を挙げよう。君はA映画のあるシーンを見ている。砂漠の中にある軍隊の訓練キャンプがパンで写し出される。訓練中の部隊にズームイン。黒人の軍曹が命令を怒鳴り散らしていて、兵士達はついていくのに必死になっている様子だ。しかし、 兵の一人はどうもくつろいでいる様子で、軍曹が彼に近づくと、ガンをとばす。遠くに見えるのはたなびくアメリカ国旗。
では、視聴者として、君はこの場面を見て何を考えるだろうか?もし考え抜いた推測をすれば、こんなものになるだろう。映画におけるアメリカ軍の訓練キャンプは、通常、コンクリート、芝生、そしてハイテク機器を用いているため、この話の舞台はアメリカでなく、もしかしたら敵対国家であると認識する。訓練をサボっている人がたぶん主人公で、彼の自信とうぬぼれた性格は後々の人物像の展開で中心的な役目を果たすだろうと考える。さらに、一般的な戦争映画は片方の国を勝者だという描写を慎重に避けるため、旗が誇示されているこの映画は、戦争ではなく軍隊についてのものである – と認識するかもしれない。
視聴者の先入観に基づいた解説は非常に強力な叙述技法である。これは、視聴者が、広く用いられているシナリオやお決まりの事柄の把握を通し、語り手の助けなしで脈略をつかむことができる、という事実に依拠している。また、これは作者が話の筋の拡張にかけ得る時間を大幅に拡張し、いつだって退屈で時間のかかる登場人物とその背景の説明を省くことを可能にする。
我々が登場人物をツンデレであると見なすとき、その登場人物の性質の一部分を想定することができる。(これについては後に詳しく記述する。)皮肉ながら、考えてみれば奇妙な永久機関みたいに、元型とはそれが人気であるがゆえに作者は使いたがるのである。
さて、どっちのシャナがツンバージョンでしょう?ヒント:むっちゃ怒ってそうな方
ツンデレは主人公的な性質だと見当付けやすい
女性の主役は書きにくい。何もかもが文字通り山ほどの男性ホルモンやその他ばっちい液体をにじみ出しているアニメ業界においては、なおさら難しい。現代におけるフェミニスト運動は日本に十分に至らなかったのだろう、悪気はないんだが、アニメにおける女性の描写は、一般的に言って…ひどい。正直、メトロイド:Other M が何らかの参考になるとすれば、ほとんどの日本人の書き手は漫画やアニメにおける良質の主役女性の描き方、あまつさえ良質の主役女性がどのようなものであるかさえ一切知らないのではないかと思う。ああ、わかってる、1995年やらから例を引っ張ってきて意義を唱える人がいるだろうが、私はこれを議論したいわけではない。
要は、平均的なアニメ作者のレパートリーには、「主役女性」ってのがあるべきところにでっかい穴があるため、これを最善の方法で埋めるために最も理にかなった代替を使う。これには、魔法少女と、もちろん、ツンデレが、最もよく使われる。ツンデレキャラを用いているアニメのうち、そのキャラクターが題名役か、少なくとも主人公級の役でない事例は、とても少ない。
ツンデレキャラは他の男性主役および対立役と対等に関わり合うことを可能にする、ある種の男性的なオーラを持っているため、対立に富んだ環境でもかまわない。そして、最も重要な点だが、彼らは―少なくともアニメの女性としてはこのうえないくらいに―自主的な人物である。これらの特徴は全てその登場人物が主役にきれいに収まり、そのような役の人物がおかれるであろうあらゆる状況に対処することを手助けする。したがって、話の上で女性の主役が必要となった書き手はよくこの元型に頼るのである。
主役のツンデレキャラに固有の2つ目の利点は、少々わかりづらいかもしれない。わき筋が恋愛である話のことを持ち出そう。
私がいささか狂ったように聞こえるかもしれないが、実はハーレム物の作者たちに同情する。あんなに苦労して登場人物の背景や性格を描写して、彼らに対する愛着を持つようになっても、最終的にはメインの男とたった一人しかくっ付けることができない。さらに嫌なことに、終わり方が気にくわなくて、自分なりのファンフィクションを書き上げる、一部のファンの度胸と言えば!
実際、特定の女性に優位を与えつつバランスのとれたハーレムロマンスのストーリーを複数展開するのは、非常に難しい。恋愛物とは結局のところ、男性が最終的に誰とくっつくか明らかであれば、とても退屈なものとなる。筆者の観点からすれば、最終的に奴をゲットするとみなしてきた少女キャラが一人いることになる。課題となるのは、「中心人物」っぽさを保ちつつ、全ての少女にとって平等である展開を書く方法を見出すことである。
『インフィニット・ストラトス』はこれに対して正しいアプローチをとった。タイトル・ロールを用いず、一人の少女に他の少女に比べてより強い主人公的特性を与えることにしたのである。理論上では、これは監督が全てのキャラクターに恋愛シークエンスを平等に与えつつ、話の展開が見られる場面を主要女性キャラクターが中心に据えられるように歪めることを可能にし、したがってそのキャラクターにより多くの出演時間、すなわち微細だがはっきりとした「優位」が与えられることになる、という仕組みである。実際のところインフィニット・ストラトスはこのアプローチの行使が非常に下手だったけど、努力は認めるよ。
これがまさに、話の副筋としての恋愛で「中心的」な少女を、同時に主人公キャラにするための元型として、ツンデレがよく選ばれる所以である。ツンデレを用いることによって、そのキャラクターの本筋への干渉・参加を彼女の恋愛的副筋の代わりとすることができ、副筋を飛ばしてストーリーを進行させられるのだ。
『ToLOVEる』やらの例を引っ張り出して「ハーレムエンド等があるじゃないか」って異議を唱える人に対しては、本筋が恋愛/ハーレムな話と、恋愛が副筋として存在している話は違う、とだけ述べておくことにしよう。
本筋に関係ある男女の刹那的相互作用場面だって?いいね。ちなみに、これは最終回の一つ前の回からの場面だけど、主要女性キャラと男性主人公との初めてのロマンチックな一時なんだ。だけど彼女はツンデレだから進展が遅いのはもちろん見逃せるってわけ。
※この記事はGAGAZINEさんよりご寄稿いただいたものです
ウェブサイト: http://gaagle.jp/gagazine/
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