お坊さんが読み解く仏教マンガの世界(後編)
マンガが”大好き”なお坊さん、吉村昇洋さん(曹洞宗普門寺副住職・臨床心理士)による仏教マンガ論『おぼうさんが読み解く仏教マンガの世界』後編です。前回は、僧侶である吉村さんのマンガ読書体験から、仏教マンガを”ストーリー”の面から4分類。仏教マンガの持つ影響力、そして「仏教マンガとは何か?」について論じられました。
仏教マンガの4分類
(I)釈尊・祖師方・名僧の伝記、仏教史
(II)仏教説話、仏教思想、仏教教理、仏教哲学、仏教用語
(III)現代の仏教者(及びその環境)の実情・生活
(IV)仏教関連キャラをモチーフにオリジナルストーリーを創作
今回は、さらに年代別の分析から現在の仏教マンガの特徴へと掘り下げていきます(以上編集部注、詳しくは前編をお読みください[LINK])。
年代別 仏教マンガ分析
前回に引き続き、これまで私が目にした仏教マンガを4つに分類し年代別に分けたものを図2、3、4に示した。つまりこれらは、それぞれの分類がその時代にどれだけの割合で存在したかを表したものである。本稿末尾に掲載した、私が個人的に把握している(故に不完全)『仏教マンガ一覧』も参照しながら、読み進めていただきたい。
まず図2を見ると、1989年に鈴木出版が発行したまとまった数の作品群『仏教コミックス』のシリーズが出版され始めたため、80年代までにかなりの数の仏教マンガが作られようとしたことが分かる。分類でいえばIとIIが作品を二分し、お釈迦さまや名僧の伝記と仏教教理を主題にし、読者に伝えようとする流れが見て取れる。
しかし、図3を見ると、分類IIの作品比率がぐっと減少している。これは1997年に有名な高僧を取り上げたシリーズが、これまた鈴木出版から出されたことによるところが大きいが、表向き分類Iの体裁をとりながらも、実は分類IIを裏の主題にしている作品が増え、図1で示すところの分類Iと分類IIの輪が重なった領域に属する作品が多いのが特徴である。
そして、現在の状況を反映しているのが図4に示した状況であり、2000年以前の状況からは明らかに一変している。まず、まとまったシリーズものが作られなくなり、鈴木出版のシリーズのように、劇画出身の作家ではなく、現在の週刊・月刊マンガ雑誌出身の作家たちが仏教を題材に描くようになってきた。それに伴ってか、分類IIIと分類IVの比率が伸びているのである。
まず、分類IVのラインナップを見てみれば、『あまえないでよっ!!』『孔雀王 曲神紀』『お坊サンバ!!』『聖☆おにいさん』『奇怪噺 花咲一休』と、少年誌・青年誌を中心に連載されており、アクション・ギャグ・エロの要素が取り入れられ、一般的にお堅いイメージの世界観や人物像をポップ且つ軽く描くことでギャップを生じさせ、面白い作品に成立させようとする試みがなされている。
これは、みうらじゅん氏の仏像をフィギュアとして捉える感覚に近いものがあり、例えば、広隆寺の弥勒菩薩(ぼさつ)像を”エマニュエル夫人”に、六波羅蜜寺の空也上人立像を”ラッパー”になぞらえるような姿勢のことを指す。程度の差こそあるものの、”教え”や”ありがたみ”はとりあえず置いておいて、キャラのみを抜き出し、マンガの中で動かしていくような作品がこの分類IVに属する。80年代から続く荻野真『孔雀王』シリーズや、90年代の武井宏之『仏ゾーン』は、まさにそういったマンガの代表作と言えるだろう。
現在の仏教マンガの特徴
次に、最も比率を伸ばした分類IIIを見てみると、『ぶっせん』『光の海』『あすかの修行日記』『坊主DAYS』『読経しちゃうぞ!』『尼僧漫画家の般若心経体験』『さんすくみ』『寺ガール』と、現代の僧侶、特に若手僧侶の苦悩をコミカルなタッチで描いているものが目立つようになってきている。中でも異質なのが、水沢めぐみ『寺ガール<』であり、お寺生まれの三人娘のお寺で生活していく中で生じる葛藤を青年期ならではの恋愛感情と絡めて描いている。ドラマツルギーとしては、オーソドックスな少女マンガでありながら、設定の妙で他の少女マンガとうまく差別化がなされ、お寺に生まれ育った者なら思わず「わかる!!」と言ってしまう材料がそろっているのだ。
そう考えると、80年代に岡野玲子が『ファンシィダンス<』で果たしたことは、非常にイノベイティブな仕事であったと言える。『ファンシィダンス』はお寺の跡継ぎとして期待される大学生の主人公が、僧侶になること(世間を離れる)と、恋愛を成就させること(世間にまみれる)の間で葛藤を抱きつつ、人間として成長していく過程を描いた作品であるが、作者が20年以上も時代を先取りしていたこともさることながら、作中でモデルとなっている禅の修行道場の時代の止まった雰囲気と、流れるスピードの速い都会の生活スタイルとのギャップの描写は、見事の一言につきる。 私も含め、モデルとなった永平寺に修行に行く者の何割かは、このマンガを読むか、もしくはこれを原作とした本木雅弘主演の映画を観るかして、修行に臨むのである。そして、修行を終えた後に読み返したときに、自分の体験と主人公の行動を重ねてノスタルジーに浸るのだ。20年以上前の作品ということもあって、今読むと当時流行していた生活スタイルは、さすがに古さが滲み出ているものの、人間の持つ葛藤のリアルさは、現代のそれと全く変わるものではない。2000年以降の仏教マンガが、こういった"悩める仏教者"にスポットをあて、読者が自身の日常的な葛藤とリンクさせて、共感を生む装置として機能しているのならば、それはもう仏教書と言ってもよいだろう。 仏教書で思い出したが、90年代までの分類Iに属する仏教マンガでよく使われた手法に、"ナレーター"の役割をする存在が、ストーリーの途中でいきなり仏教特有の概念の説明をし始めるというものがあった。夏目(2009)はこれを「仏教が優先された説教臭いマンガ」と呼び、言葉と絵の対立において言葉が勝ってしまった結果とする。そして、これによってストーリーが突然断絶し、読者側は読みのテンションが落ちてしまうのだが、何とか仏教教義を正しく伝えたいという作者の強い思いも感じて、複雑な気分になっていた。 確かに、仏教の概念を説明しなければ、仏教教理に詳しくない人にとっては、主人公の行動の意味が分からないので、仕方がないといえば仕方がないのだが、もうちょっとうまく表現する方法はないのかなと心の中で思っていたところ、2000年代に入ってからの僧侶を含めた"現代人の苦悩"に主題を絞った作品が多く登場したことで、ひとつの答えが導き出されたように思う。これは、布教者たる我々僧侶にとっても多くの示唆を与えるもので、仏教のお話をするときに仏教用語を羅列しなくても、説法に成りうることを示している。
さいごに
このように2000年代に入り、分類Iよりも分類IIIが増加傾向を示し、現代の若手の僧侶を題材とした作品が増えているのは、ただ単に仏教ブームに乗っかっているということもあるだろうが、一方でそれだけ悩める読者の存在が反映されているとも言えるのかも知れない。
今回は、自分が定義した枠内に、私の主観で分類していったので、他の方にとっては「違う」と思われる部分があるかもしれないし、最後に掲載した表も全ての仏教マンガを網羅しているとは言えず、不備があることは十分承知している。また、仏教の看板を掲げていなくても、仏教思想が反映されていると推測される作品もあるが、今回はそれについて言及しなかった。そして、あくまでも今回は、概論的に仏教マンガの全体像を傍観し、流れを掴むことが目的だったで、個々のマンガについて深く掘り下げることもしなかった。これらのやり残したことに関しては、今後の課題としたい。
今後、仏教マンガにちょっとでも興味を持って、読んでいただけるきっかけとなれば、仏教を啓蒙する立場の者として幸いである。
【参考文献】
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 2005 NTT出版
中野晴行『マンガ産業論』 2004 筑摩書房
夏目房之介「「仏教マンガ」の面白さ」『大法輪75(11)』 2008 大法輪閣
夏目房之介「続・「仏教マンガ」の面白さ」『大法輪76(10)』 2009 大法輪閣
夏目房之介『マンガ学への挑戦―進化する批評地図』 2004 NTT出版
『ユリイカ 2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開』 2008 青土社
夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法』 1997 日本放送出版協会
『マンガの読み方―わかっているようで、説明できない マンガはなぜ面白いのか』 1995 宝島社
吉村昇洋(よしむらしょうよう)
http://higan.net/apps/mt-cp.cgi?__mode=view&id=3&blog_id=58[LINK]
曹洞宗普門寺副住職・臨床心理士。2005年11月より、虚空山彼岸寺にて『禅僧の台所 〜オトナの精進料理〜』を連載し、”食”を通して日常に活かせる禅仏教を伝える他、カルチャーセンターや各種イベントにて精進料理の講師も務める。また、
僧侶にとって必要な”人の心と向き合う”側面に関心を持ったことから、臨床心理学を専門的に学び、現在、広島県内の病院にて臨床心理士としても活動をしている。
ウェブサイト: http://www.higan.net/
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。