『千日の瑠璃』33日目——私は茶柱だ。(丸山健二小説連載)
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私は茶柱だ。
普通ならまず見落としてしまうほど小さな、あしたへ希望をつなぐことなどとてもできない、茶柱だ。私に気づいた世一の母は、まるで宝くじにでも当たったみたいに有頂天になり、家の者に見せた。そして、「そろそろ何かいいことがあっても罰は当たらないわよねえ」と言った。すると世一の姉は、「いいことなんであるわけないでしょ」と吐き棄てるように言い、身支度を始めた。
世一は台所でオオルリに与える餌を練っていた。「これまでだってそうわるいことなんかなかったよ」と世一の父は地方紙の三面記事を読みながら言った。姉は「本気でそう思ってんの」 と言い、「ばっかじゃない」 と言って、自分で詰めた弁当を持って勤めに出て行った。「父さんはおめでたいのよ」と母が言った。丘を駆け上がってくる寒風が、丘を下って行く姉の足音をかき消した。「迷信なんかいちいち気にしていたら生きてゆけんよ」と父は言い、「さて、ぼちぼち出掛けるとするか」 と言って便所へ入った。私に関した話は、そこまでで打ち切りとなった。
母は残ったお茶を私といっしょに飲み干した。私は、粗末な朝食や悲哀のかけらや儚い望みが詰まった胃袋のなかでも、かなり無理をして垂直に立っていた。ほどなく世一がヤカンをひっくり返してしまい、熱湯を指の先にほんの少し浴びただけで、大音声を張りあげた。その拍子に私は横倒しになった。
(11・2・水)
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