失言が許されるひと

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メディア社会備忘録

今回は津田正太郎さんのブログ『メディア社会論備忘録』からご寄稿いただきました。

失言が許されるひと

息子と一緒にお風呂に入りながら考えた。

我々が誰かを嫌いになるとき、たいていはその人物に対する評価軸を我々は一つしか持たない。たとえば、「口が悪い」とか「ケチだ」とかそんな感じだ。ところが、口が悪い思っていたその人物に、実は結構優しい一面があることを発見したりすると、相手に対する評価が大きく変わることが多い。評価軸が二つになることで、その人物に対する好意が増すわけだ。

だから、我々がある人物を“嫌いでいたいとき”“嫌いでなくてはならないとき”、我々はその相手に対して複数の評価軸を適用することを拒否し、ある一面でもってのみその人を判断しようとする。嫌いな側面以外を見ないように一生懸命になったりもする。

もちろん、あらゆる評価軸から見て、その人物が駄目だという評価が下されることもありうるだろう。が、普通にであればそういうケースはまれで、人間、どこかしらにいいところがあるのではないかと思う。

話は変わるが、世の中には“失言”をしても許される政治家がいる。たとえば、小泉元首相とか、いまの東京都知事とかがそれにあたる。逆に、失言によって大きな憤激を買う政治家もいる。松本元復興相などがそれに該当するだろう。

なぜ前者の失言が許されるかを考えると、結局のところ、人びとが彼らに対して複数の評価軸を持っているからなのではないか。都知事のケースで言えば、“暴言吐きの石原さん”と“リーダーシップの石原さん”という二つの評価軸がある。なので、いくら暴言を批判されようとも、前者の“石原さん”の評価に回収されてしまい、後者の石原さんの評価にまでは届かない。

逆に、松本元復興相のケースで言えば、ほとんどの人は松本さんがどんな人なのかを知らなかったのではないか。あるいは、同和問題や資産家という属性だけで判断していたのではないか。そこにきて例の恫喝(どうかつ)映像が流れたことで、我々は恫喝(どうかつ)という観点からしか松本さんを評価しようとしなくなった。社会心理学的に言えば、プライミング効果(先行する刺激が後続する刺激に影響を与えること)ということになろうか。

したがって、世論からの支持/不支持により政治家や内閣の命運が左右される現状では、政治家が生き延びようとするなら、どうにかして複数の評価軸を獲得する必要がある。つまり、失言や失策のダメージを引き受けてくれる“もう一人の自分”が必要なのだ。その“自分”を作り出すためには繊細なメディア・イメージのコントロールが必要になるだろう。

この意味では、タレント出身の政治家は普通の政治家に比べて、やや有利な立場にあると言える。タレント時代に自分が培ってきたイメージと政治家というイメージとをうまく両立させることができれば、多少のスキャンダルがあっても前者のせいにしてしまえるからだ。

話を最初に戻すと、僕の息子には、家でだらだらしているところを奥さんにしかられている父親の姿だけでなく、複数の評価軸で父親を判断してもらいたいと思う。まぁ、僕自身、息子に肯定的に評価してもらえそうなところを何も思いつかないのが困ったところなのだが……。

執筆: この記事は津田正太郎さんのブログ『メディア社会論備忘録』からご寄稿いただきました。

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