『ブラック・スワン』とは志村けんの物語である
今回はプチ鹿島さんのブログ『プチ鹿島のブログ「俺のバカ」』からご寄稿いただきました。
『ブラック・スワン』とは志村けんの物語である
『ブラック・スワン』はすごい映画だ。バレエが題材で数々の賞を受賞と聞いて、てっきりお上品な芸術映画かと思ったがまったく違った。むしろ下世話でパワフル。
監督は意図的に『ブラック・スワン』を、自らの前作『レスラー』の姉妹編にしたのだという。
「レスリング(プロレス)を最低のアート形式と呼ぶ人もいますし、バレエを最高のアート形式と言う人もいますが、このふたつには基本的に同じものがあります。レスラーとしてのミッキー・ロークは、バレリーナのナタリー・ポートマンと非常によく似た経験をしました」
(ダーレン・アロノフスキー監督)
この言葉どおりだった。この映画は“魅せるとはなにか”であり、それにとりつかれて必死にもがく人の話であった。
物語はこうだ。
ナタリー・ポートマン演じるニナは、ダンサーだった母親にストイックに育てられバレエに人生をささげていた。劇団はベテランのエースに代わり、若手から新エースを選ぶと発表する。
オーディションの末、ニナは念願かなって『白鳥の湖』のプリマに抜擢(ばってき)される。しかしこの役は純真な白鳥の女王だけでなく、邪悪で官能的な黒鳥も演じなければならない。優等生のニナにとってはハードルが高い。そんなニナの前に黒鳥役が似合う奔放な新人ダンサー、リリーが出現する。リリーはニナの代役をつかむ。精神的に追い詰められるニナ……。
演出家は「抑えるな、自分を解き放て」とニナを叱咤するが、彼女は壁にぶち当たる。本当にニナは黒鳥になれるのか?
“新しい自分”を獲得しようとする、表現者の苦悩と脱皮、その過程が最大のみどころだ(プロレスファンに説明するなら「白タイツでテクニシャンでそこそこスターだった蝶野が、いかに自己変革を起こし、ヒールで華のある黒タイツの大スター蝶野になったか」と置き換えてもよい)。
そして、映画を観ながら私はハッとしたのだ。“白鳥”&“新エース”。このキーワードは、“志村けんの物語”そのものではないかと(敬称略)。
私がドリフを見始めたころ、志村けんが『東村山音頭』で大ブレークしていた。「東村山4丁目」「3丁目」ときて最後は「1丁目」の歌になる。最後の1丁目がハチャメチャなのだ。
志村けんは『白鳥の湖』のバレリーナに変身し、「いっちょめ、いっちょめ、ワーオ!」と叫ぶ。そのくだらなさが爆発的人気となった。私は幼かったので、実は志村けんはこれで“やっと”レギュラーを不動のものにしたと後年知ることとなる。
それまでは荒井注というエースがいて、彼の脱退後に若手だった志村けんがレギュラーになった。当初はパッとしなかったらしい。いかに殻を破るか、自分を解き放てるか。志村けんの苦悩の日々が続いたことは想像に難くない。そしてある日、リーダーの長介にチャンスをもらう。志村は渾身(こんしん)の白鳥を舞った。あのアナーキーな『東村山音頭』には、志村のすべてがたたきつけられていたのだ。
彼はその官能的な白鳥で多くの子どもを魅了し、虜にした。遂にハジけた彼は一気に新エースに。そう、志村は真の白鳥となったのだ。
『ブラック・スワン』と見事に対になっているではないか! ナタリー・ポートマンは志村けんだ! 元ネタはドリフだった!
ちなみにこの映画は、新エースに追われる側、つまり去りゆく旧エースも描いている。ドリフでいうなら荒井注サイドだ。ニナが活躍してるのを見て、「なんだバカヤロー」(荒井注のギャグ)と言ってるに近い場面もあった。
結局私が何を言いたいかというと、「すべての表現者は“ブラック・スワン”を観よ」である。
執筆: この記事はプチ鹿島さんのブログ『プチ鹿島のブログ「俺のバカ」』からご寄稿いただきました。
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