「たたかいをすてたる民の」──清川妙さんが作詞した幻の『山口県民の歌』
今年は戦後70年。そして来年は日本国憲法公布から70年であるが、新憲法公布を記念して作られた国民歌『われらの日本』(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)と『憲法音頭』(作詞・サトウハチロー、作曲・中山晋平)の存在は今や知る人も稀になっている。
その『われらの日本』と同じく信時潔(1887-1965)が作曲を手掛け、1947年(昭和22年)5月3日に兵庫県議会議事堂で初めて演奏された『兵庫県民歌』(作詞・野口猛)が半世紀にわたって県から制定事実を否定されている問題を何度か取り上げて来たが、兵庫県だけでなく山口県にも戦後史に埋もれた“憲法県民歌”が存在していた。
現在の『山口県民の歌』は2代目でなく3代目だった
山口県の初代県民歌は1940年(昭和15年)に皇紀(神武天皇が初代天皇として即位したとされる紀元前660年を「皇紀元年」とする紀年法)二千六百年を記念して制定された『山口県民歌』で、国文学者の渡辺世祐(1874-1957)が作詞、童謡『ふるさと』や『もみじ』の作詞者として知られる高野辰之(1876-1947)が補作、そして現在の『山口県民の歌』と同じく信時潔が作曲した。1番の歌詞には長州藩祖・毛利元就の言とされる四字熟語から取った「百万一心 結びも固く」の一語があり、かつ同じ信時潔の作曲で9年前の1931年(昭和6年)に選定された『防長青年歌』にも「天行健なり 百万一心」の一節があるため頻繁に混同されている。
しかし、この初代『山口県民歌』は制定経緯もさることながら「翼賛の誉」や「指すは大陸 亜細亜の空に 共存共栄 心に期して」など戦時色の濃い歌詞であることが災いし、同時期に制定された初代『埼玉県民歌』や熊本県の『菊池尽忠の歌』と同様に終戦からほどなくして連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から演奏を禁止されてしまった。
それから17年のブランクを経て、1962年(昭和37年)に県政90周年を記念し現在の県旗・県章および詩人の佐藤春夫(1892-1964)が作詞、初代と同じく信時潔が作曲した現在の『山口県民の歌』が制定されたと思われているが、実はこの「空白の17年」の間に現在のものとは別の『山口県民の歌』が2曲同時に制定されていたのである。
2曲同時に制定された幻の2代目『山口県民の歌』
1950年(昭和25年)、演奏を禁止された初代『山口県民歌』に代わる2代目『県民の歌』制定を公選初代知事の田中龍夫(1910-1998)が提唱し、山口県と県教育委員会の共同事業として歌詞を一般公募した。同年には共に現在も演奏されている『山梨県の歌』と『われらが愛知』が制定されており、特に後者は戦後復興のテーマソングとしての“復興県民歌”と国民体育大会開催を記念した“国体県民歌”の両方の特徴を兼ね備えている点に特徴がある。
審査結果は8月19日付の『防長新聞』と県教育委員会の機関誌『教育広報』9月号で発表されており、選評では「何れも捨てがたい優秀さがある」として2編が同時に入選作となった。1編の入選者は熊毛郡曽根村(現在の平生町)在住の主婦・岩本邦子さんだが特に注目すべきはもう1編の方で、後にエッセイスト・評論家として活躍し昨年11月に93歳で亡くなった清川妙さんの応募作であった。
当時29歳で県立山口高校の教諭だった清川さんは『教育広報』9月号で「歌詞に添えて」と題し、以下のようにコメントしている。
戦争放棄を世界に宣言した日本のその西のはて、永遠に明るい平和郷を築いてゆき度(た)いという切実な夢とあこがれを、三節にはこめてみました。
(出典‥山口県教育庁『教育広報』1950年9月号13ページ)
その3番の歌詞は以下の通りである。
三、たたかいをすてたる民の
いのちもて築かん楽土
夢あれよふるさと山口
あおぐみどりの山脈(やまなみ)のそら
いまか平和の鐘もひびくよ(出典‥山口県教育庁『教育広報』1950年9月号11ページ)
これは現在も演奏されている『新潟県民歌』や逆に県から存在を否定されている『兵庫県民歌』と同じように、紛れもなく“憲法”を正面から掲げた歌詞である。
なお、作曲も2曲同時に一般公募が実施されたが「該当無し」となり、2曲とも防府市出身で審査委員を務めた大村能章(1893-1962)が書き下ろして翌1951年(昭和26年)3月31日付の『防長新聞』で完成が報じられた。しかし、2曲の『県民の歌』が役割分担も明確でないまま同時に制定され、並立したことで若干の混乱も生じたらしく普及は進まなかったとみられる。
2代目『山口県民の歌』はなぜ10年しか存続しなかったのか?
田中はこの2代目『山口県民の歌』制定から2年後の1953年(昭和28年)に同郷の岸信介(1896-1987)から誘われて国政へ転じ、衆議院議員在職中は岸と同様に「押し付け憲法論」を持論として常々「日本は独立国ではない」と周囲に漏らしていた。そのことを考えると田中が知事在職中に「自主憲法制定」を政治信条とする立場からは相容れない歌詞の県民歌を制定したことが不思議に思えるが、前述のように1962年(昭和37年)に田中の2代後に知事となった橋本正之(1912-1976)が「県政90周年記念」として現在の『山口県民の歌』へ代替わりさせたので2曲の2代目『山口県民の歌』は結果的に10年余りしか存続しなかったことになる。
現在の3代目『山口県民の歌』は初めから一般公募を実施せず、作詞・作曲とも依頼で作られた(佐藤春夫と信時潔は前年に初代『山口市の歌』を作詞・作曲しており、その縁で起用された可能性が高い)。県では「資料が無いので詳しい制定経緯は不明」としているが、橋本も田中と同様に「自主憲法制定」を持論としていたことで知られており、本音では出来るだけ早期に県民歌から“憲法”の幻影を消し去りたかったのではないかとも思える。その傍証として2004年(平成16年)12月、サンデー山口の取材に対して県が「それまで県民歌が無かった」と回答しており、もはや「たたかいをすてたる民」ともう1曲の2代目『山口県民の歌』は(対極的な存在とも言える)戦前の初代『山口県民歌』と共に存在自体が“抹消”されたも同然の扱いとなっていたことが挙げられる。
幻の2代目『山口県民の歌』制定から64年が経過した今、制定時の知事を国政に誘った大物政治家を祖父に持つ県選出の首相が推進する安全保障関連法案を巡って“憲法”を巡る論争が過熱している。
若き日に平和への思いを歌詞に込めた清川さんは、現在の政治状況を草葉の陰からどのように見ているのであろうか。
画像‥山口県庁舎(撮影者・khimyu、『やまぐちフリー写真素材集』掲載の画像を使用)
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