タモリにとって「言葉」とは何か

タモリにとって「言葉」とは何か


今回は『MATOGROSSO(マトグロッソ)』からご寄稿いただきました。

タモリにとって「言葉」とは何か

『言葉がものすごく邪魔をしている』

黒柳徹子司会の『徹子の部屋』(テレビ朝日)、その毎年最後の回にタモリがゲストとして迎えられるのは、もはや年末の風物詩となっている。12年12月27日の放送でその36回目を数えた番組最多出演者であるタモリだが、初登場時は「森田一義」名義だった。なぜならタモリは当時、まだ一介の素人だったからである。

『徹子の部屋』に招かれるのは実績ある芸能人や文化人、という不文律があると思われるが、当時はまだいい意味でのゆるさがあったのだろうか。

タモリは振り返って笑う。
「あり得ないでしょ? 『徹子の部屋』に普通の面白いおやじが出るって事は、考えられないでしょ」(『徹子の部屋』12年12月27日)

そのきっかけは黒柳徹子がたまたま見ていた『アフタヌーンショー』(NET:現テレビ朝日)という昼の生ワイド番組だった。75年8月30日、同番組で放送された夏休み特集「赤塚不二夫の世界」内の「漫画ができるまで」という企画で、素人だったタモリ=森田一義が、インチキ牧師として登場したのだ。

これがタモリのテレビデビューだった。赤塚不二夫の庇護の下、なんら臆することなくインチキ牧師を演じると、黒柳はそのオモシロさに驚き、赤塚に直接電話をして、すぐに『徹子の部屋』への出演が決まった。

しかし今後も芸能界で仕事をするかどうかはまだ決めておらず、ゆえに芸名も無く、本名の「森田一義」での登場となったのだ。それがタモリ、2回目のテレビ出演だった。

現在では毎年、『いいとも!』年末特大号のオープニングで見ることができるタモリのインチキ牧師。それはもともと、やはり赤塚不二夫らの「今度飲みに行く店には牧師で行け」というリクエストから生まれた即興芸だった。

なぜそれをたやすくやってのけたのか──事はタモリの中学生時代まで遡る。
当時タモリは、毎日のように教会に通っていたのだ。

台風の日でさえも教会を訪れ、牧師の話に耳を傾けていた。「今日ココニ集マッタカタガタコソ信仰深イカタデス」と牧師は語り、タモリに「アナタハ敬虔ナ人デス」と熱心に洗礼を勧めるのだった。

しかしタモリが数年に亘り教会に通っていたのは、信仰心があったからではない。ただ単に、牧師の口調が面白かったのだ。

外国人の、しかも牧師特有の片言の日本語。当時でも日常的にはあまり使われない「アマツサエ」「ナカンズク」などの単語が織り交ぜられた仰々しい口調が、タモリにはとてもおかしかった。

キリストの教えという「思想」や「意味」ではなく、言葉の響きや牧師の口調を味わっていたのだ。こうした体験が、インチキ牧師の下地になったのは間違いないだろう。

さらに遡れば、福岡の地理的条件により容易に受信できた米軍放送や北京放送を、タモリは小学生時代から好んで聴いていた。
言葉の響きだけで意味が無いもの。それをタモリは好んだのだ。

一方で宗教としてのキリスト教の教えに対しては肌に合わなかった。むしろ仏教的な境地に惹かれていた。
「悩んでいるのが最高だと思っているのは、オレ大間違いだと思う」
「人間は生まれながらにして悟っているのかもしれない」(『広告批評』81年6月号)。

浪人生だった時にタモリは、ふと座禅を組もうと思い立った。
正式なやり方はよく分からなかったが、とりあえず部屋の隅であぐらをかき、目をつぶった。

するとすぐに雑念がどんどん頭の中に入ってきて、様々な言葉が浮かんでくる。何時間もそれを続けていると、一種のトランスであろう「変な状態」になっていったという。とにかく目だけはつぶっていようと初めは思っていたが、その意識も薄れていった。

やがて、もうどうでもいいとヤケクソのような心境になり、ふっと目を開けた。タモリの視界に飛び込んできたのは、見慣れた窓の外のねずみもちの木。それがなぜか新鮮に美しく見えて感動したという。

「もしかしたらね、小さい頃はいろんなものがそういうふうに見えてたんだと思うんです。それが、だんだんそう見えなくなってくるのは、やっぱり言葉がいけないんじゃないか。(…)言葉が全ての存在の中に入りこんできて、それをダメにしている。(…)オレの中では言葉がものすごく邪魔している。一種言葉に対するうらみみたいなものが、なんとなくずーっとありました」(同)

その時から「言葉とは余計なもの」だと確信したという。タモリ、19歳の時だった。

『おれは乱しているんじゃなくて、壊してるんだ、日本語を』

本は危ない、とタモリは言う。

「活字に対しての『あやしいぞ?』と思う気持ちは、いつもありましたね」(ほぼ日刊イトイ新聞「タモリ先生の午後2007」)

ある本を読んでいた時、その著者が「異様に盛り上がっている」ことに気付いた。ごく当たり前の意見をやけに仰々しく記し、その勢いで、いかにも非現実的な前提を元に論を進めてしまっているのだ。

「だから、途中から、『バカじゃないか』と思うと同時に、『まちがっているけど、本人は、ものすごく盛りあがっていること』が、おもしろくなっちゃって」
「最初につまづきはあるんだけど、それにもかかわらず、もう、勇んで、勇んで……! 勇み足、勇み足の連続で」(同)

自分の言葉に酔い、その無内容な言葉に言葉を積み重ねていくことで、どんどん論旨が逸脱し矛盾が膨らんでいく。しかし当の本人はそれに気付けない。

「本というモノの悪い面は、そこですよね。本の中だけで、いくらでも盛りあがっちゃうというか……」(同)

「言葉」と「現実」が齟齬をきたすのは、活字や本の世界だけではない。
タモリは「言葉革新党の言いぶん」(『ちょっと手の内拝見』)という語り下ろしの中で、ある言語学者の「日本の歴史が始まって以来、いまが一番言葉が変わっていない」という説を引いている。
タモリはその説自体には同意しつつも、状況に対する危機感を隠さない。

「いまは現実そのものに何の意味もなくなり、言葉だけが意味をもつかのごとく祭りあげられている。だから、言葉は変化しなくなってしまった。これはヤバイ」
「それならむしろ言葉がないほうがいい。なぜなら、おれたちにとって本来大切なのは、言葉よりも現実。この現実に重みをもたせなければだめだ」(同)

タモリは、あらかじめ存在する世界の秩序に言葉が付与されていくというフッサール的な実在論の立場を採り、言葉によって世界が分節されることで初めて認識が生じるとするソシュール的な構造主義の態度を排する。

「言葉に権威や正統性を持たせようとするなら、そんなのはどんどん地に落として踏んづけないと、新しい言葉は生まれてこない」(同)
とするタモリは、言語に対してあくまでラジカルであろうとする。

「おれは乱しているんじゃなくて、壊してるんだ、日本語を」(『今夜は最高!』)

『こんばんは。春はハナモゲラ』

「こんばんは。春はハナモゲラ。いま天然のモレカケサはハレしていまはげしくナレヘコキシタ。我命モノコトの我コユビロはハラモレタ。パラモレカネフケモレサッサ。そしていま日付はヘケモシタ。どうも失礼しました──」

タモリが初めて出演したテレビCMは、ハナモゲラを駆使したものだった(77年・キヤノン110EDデートマチック)。「ハナモゲラ(ハナモゲラ語)」とは、タモリが得意とした「日本語の物真似」である。当時トレードマークだったアイパッチを付け、撮影日が記録される新型のカメラを手に、意味がわかるようでまったくわからない言葉を並べ立てた。

放送作家の高平哲郎が「ぼくにとって、ハナモゲラはそのままタモリということで成立した。その起源がどうであれ、やっぱりハナモゲラはタモリ以外のものではなかった」(『定本ハナモゲラの研究』)と言うように、ある時期までのタモリの代名詞といえば「ハナモゲラ」であった。

その「起源」をあえて問うた時、例えばビートたけしは「インチキ外国語芸」の系譜にハナモゲラを位置付けた。
「あれはタモリさんのオリジナルというよりも、藤村有弘さんなんかが前からやってた線だと思う」(『広告批評』 81年6月号)

また大橋巨泉のテレビCMにおけるアドリブ・フレーズ「みじかびの きゃぷりてとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」(69年・パイロット万年筆エリートS)が起源とされる場合もある。

さらには60年代からの筒井康隆や平井和正、豊田有恒らのSF小説、赤塚不二夫や谷岡ヤスジらのギャグ漫画、さらには紅テントの唐十郎、コント55号などの影響も指摘されている。

さらに掘り下げるなら、キリスト教の一部の教派に見られる「異言」──意味不明の言語を操る能力──まで視野に及んでくるが、それこそ「勇み足」になりかねないのでひとまず置いておこう。

音楽プロデューサーの中原仁は、ハナモゲラの源泉をジャズに見た。

1926年、サッチモことルイ・アームストロング(当時26歳)が「ヒービー・ジービーズ(Heebie Jeebies)」なる曲をレコーディングしていた際に、肝心の歌詞を忘れてしまったという。

そこで咄嗟に言葉にあらぬ言葉を並べたて、アドリブで歌いきってしまった。意味は不明だが、そこがなんとも魅力的で、真に迫っている。ゆえにそれはそのまま採用されたた。「スキャット」の誕生である。

「ジャズの真髄は即興=インプロヴィゼーションにあるが、それは通常、原曲の進行に乗って楽器で表現するものだ。ところがサッチモは、自らの肉声でそれを成しとげた」(『定本ハナモゲラの研究』)

歌詞を忘れた、あるいは歌詞カードを床に落としたなどの説もあり、またいずれも都市伝説で、確信犯でそのように歌ったのだと考える向きも少なくないが、これをもってスキャットの嚆矢【こうし】とすることでは一致している。

アート・ブレイキーらが一世を風靡した60年代を経て、69年に日本に山下洋輔トリオが誕生する。当時のメンバーは山下の他、森山威男、中村誠一。この3人の間で「メチャクチャ言葉」が流行し始める。

そして72年にトリオに参加した坂田明が、73年頃にこの「メチャクチャ言葉」を「ハナムグラ」あるいは「モゲラ語」「ハネモコシ」と名付け、いつしか「ハナモゲラ」と呼ぶようになっていった。

山下洋輔によれば、「ハナモゲラ」の誕生に決定的な役割を果たしたのは、中村誠一だった。

「『実は変なことを考えた』とやや顔を紅潮させ彼(中村)は言った。『生まれてはじめて日本語を聴いた外人にそれがどう聴こえるかを考えたんだ』」(同)

山下はその「日本語の物真似」に触れた時のことを「大きな驚きであり喜びであり、おそらくショックでもあった」と述懐している。

そしてついにタモリが彼らと出会う。福岡にいる時は、ウケるわけがないと自ら思っていたタモリの “個人的な芸” は奇跡的に彼らと共鳴し、熱烈に受け入れられた。
そして「ハナモゲラ」もタモリによって加速度的に進化を遂げ、完成される。

77年に発表されたファーストアルバム『タモリ』には、「演歌 “けねし晴れだぜ花もげら” 」 「ハナモゲラ相撲中継」などの名作が収録された。また同年に開催された「第1回冷し中華祭り」(4月1日、有楽町読売ホール)でのタモリによる「あいさつ」は、後に「当時のハナモゲラ芸の集大成」と評されるほどの完成度を見せた。さらに78年のアルバム『タモリ2』には「ハナモゲラ落語」などが収録されている。

詩人・評論家の奥成達は「思考活動をもはや中止してしまおうとするような思考活動」「フリー方向に自分を向けようとする思考活動」、それこそが「ハナモゲラ思考」であるとした。加えて「ハナモゲラ」とは表現そのものであり、だから常に新しい言葉、新しい形式でなければならないのだ、と。

「ハナモゲラ語は、あるいはハナモゲラ精神というのは、すべての現象を受け入れ、すべての外的な表象を等質に愛さなければならない」そしてそれは「言葉の無用さを知る魂のことではないか」(同)

それはまさに、言葉を壊し言葉と戯れることによって、言葉を意味や権威から解放し、自由な現実の世界と一致させようとしたタモリの精神そのものだ。

『言葉に不信を抱き、言葉を壊そうと思った』

タモリにとって言葉は、子供の頃からの「遊び道具」なのだ。
「いっぱい知っているということは、それだけで遊び道具が多いのと同じこと」(『ことばを磨く18の対話』)

かつてタモリは黒柳徹子らと「中国の4文字表現の遊び」に興じていた。
すべての発言を漢字4文字で表すもので、例えば「痛いところをつきやがったな」は「痛所指摘」、「じゃあな!」は「後日再会」、「気をつけてね」は「交通安全」、芸能人が「よろしくお願いしまーす」というのは「愛玩希望」……というふうに。

当時工作舎で「遊」の編集長を務めていた松岡正剛は、それを聞いて非常に面白がり、「われわれで受けつぐよ」と食い付きを見せた。

タモリと松岡は80年3月3日に長時間の対談を行い、それは『愛の傾向と対策』として書籍にまとめられた(文庫化に際し『コトバ・インターフェイス』と改題)。タモリはこれを「めずらしい対談だった」「忘れられない対談だった」と振り返っている。

「言語というものに復讐戦をしたくなる」という松岡に、タモリは同意する。
「コトバをやっつけようという気はありますね。コトバを使ってね」「コトバっつうと、まず意味でしょ。そのへんからやっつけたかった。意味をなくそうって……」(『愛の傾向と対策』)

松岡正剛との対談はスウィングしまくり思わぬ方向に進んでいく。
開始後3時間を越えても一向に話が尽きる気配がない。次の予定を控えていた松岡は「今日でも、遅ければまた再開してもいい」と名残惜しそうに持ちかける。その予定とは絵本作家レオ・レオーニ(小学校の教科書にも採用された『スイミー』の作者でもある)を迎えるイタリア大使館でのレセプションに出席することだった。

この前日に松岡からタモリのことを聞いたレオーニは、ぜひ会ってみたいと興味を示していた。彼もまたタモリ同様、6ヶ国語のデタラメ外国語を駆使する男だったのだ。それを知ったタモリは「その人、おもしろそうですねェ」と不敵に笑い、急遽、イタリア大使館へ同行することを決めた。

このレセプションはレオ・レオーニの来日と、彼の奇書『平行植物』翻訳出版を記念して行われたもので、レオーニ夫妻、イタリア大使館関係者の他、谷川俊太郎、勝見勝、中原佑介、高橋康也らが列席し、フォーマルエチケットを重視した静かな晩餐会が開かれていた。

そんな晩餐がたけなわな頃、2人の奇人が闖入してきたのだ。そのうちの1人であるタモリは全員が正装の中、サングラスを外すことはなかった。
食事が終わり、広い応接間での歓談になると、いよいよタモリを期待する空気が日本人客の間で昂まってきた。

そこでタモリは多くのイタリア人が見守る中、デタラメなイタリア語によるイタリア映画の一場面を披露。冒頭1分で爆笑を誘い、レオーニたちから大喝采を受けることになる。

そのままタモリはイグアナ、ショウジョウバエなどの形態模写、さらに四か国語マージャン、でたらめ放送などを続けざまに見せつけた。厳かだったその会を狂乱の宴に一変させてしまったのだった。

「バカウケだったね」とレセプションから戻った松岡は興奮を隠せない。
「今日いろんな人のタモリ観をきいたけど、みんなすごく親近感をもっていたねェ。『タモリ偉大なり』という反文化性がハッキリしていた。こうなると文明的課題というか、日本文化とか、そんな問題になってくるね(笑)」(同)

その後もタモリは天皇のモノマネやデタラメ外国語などを使ったイタズラなど数々のエピソードを披露して松岡を「気が狂うほど」笑わせ、遂には「とてもひとりじゃかなわないや」と「降参」させた。対談はイタリア大使館のパーティーを挟み、10時間にも及んだ。

そして「どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きる」と迫る松岡に、タモリはこう語った。

「かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう」「何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている」「コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命に燃えましてね」(同)

だからタモリは言葉を壊すしかないと考えるようになったという。言葉から逃げることはできない。それなら、言葉を面白くして「笑いものにして遊ぶ」しかない、と。タモリは言葉から意味を剥奪し、その価値を揺るがすことで言葉を自由にし、言葉から自由になったのだ。

「言葉に不信を抱き、言葉を壊そうと思った個人的ささやかな体験を人に話したのは初めてだった」(同)とタモリはその対談を振り返っている。

【著者:てれびのスキマ】
(初出:マトグロッソ http://matogrosso.jp)

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執筆: この記事は『MATOGROSSO(マトグロッソ)』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年05月03日時点のものです。

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