【日曜版】新たに聞く~日本の新聞の歴史~【第8回 戦争と新聞】

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“出せば売れる”新聞から“読ませて売る”新聞へ――明治20年代には、庶民の読み物であった小新聞、政論を述べることを主軸とする大新聞のいずれとも違う、新しいタイプの新聞が生まれました。これらの新聞は、開国してから急激に進められてきた西欧化を批判し、日本の歴史・文化をもう一度見直そうする“国民主義”を主張して、読者に大きな影響を与えました。

また、初めての対外戦争となった日清戦争は、新聞の部数を伸ばし、経営的な成長をもたらすとともに、メディアとしての新聞の大きな転換点にもなりました。

パーソナルジャーナリズムの時代
明治22年に創刊した陸羯南(くが・かつなん)の『日本』、明治23年に創刊した徳富蘇峰(とくとみ・そほう)の『国民新聞』は、国民主義的新聞の代表的なものです。いずれも、政権を争うための新聞ではなく、独立した立場で国民の側に立ってから政治問題を論じ、社会問題を伝えることを目指しました。両者の違いは、『日本』がナショナリズムを掲揚する国民主義を主張したのに対して、『国民新聞』は平民主義(ブルジョア自由主義)を主張したことにあります。

また、明治25年には黒岩涙香(くろいわ・るいこう)の『万朝報(よろずちょうほう)』、明治26年には秋山定輔の『二六新報』が創刊しました。『万朝報』は、「簡単、明瞭、痛快」をモットーに、権力者のスキャンダルを暴露するセンセーショナルな紙面や連載小説で人気を得ました。現在の新聞の社会面を「三面記事」と呼ぶのは、この新聞が三面に社会記事を取り上げたことに由来すると言われています。

一方の『二六新報』は、当初は独立した政論新聞としてスタートしましたが、経営難によりいったんは休刊。明治33年に復活してからは、財閥批判、娼妓自由廃業支援や労働者懇親会の開催など、社会問題に関するキャンペーンを展開するとともに、記事を面白く読ませるように工夫した紙面の作り方で支持を得ていました。価格を安く押さえ、記事を大衆向けに面白い読み物とした『万朝報』と『二六新報』は人気を二分し、東京都内第一位、二位の発行部数を誇り、激しい販売競争を繰り広げました。

このほかにも、文学新聞として尾崎紅葉、河上肇が筆をふるった『読売新聞』、福沢諭吉のもとに創刊した『時事新報』、池辺吉太郎を主筆とする『東京朝日新聞』など、明治20~30年代には発行にかかわる個人の思想や主義が強く打ち出された新聞が活躍した時代でした。このころの新聞は「黒岩の万朝報」「福沢の時事新報」のように、「誰がその新聞を出しているか」「誰が記事を書いたのか」が新聞の根幹をなしており、また読者からの支持理由ともなったことから、「パーソナルジャーナリズム」とも呼ばれています。

戦争が新聞をマスメディアにする
明治27年に起きた日清戦争は、近代日本における最初の対外戦争となりました。新聞各社は多数の従軍記者を派遣し、『ロイター通信』と契約するなど通信ネットワークを充実させて速報を競い合いました。戦況への社会的関心の高さは各紙の販売数を急増させ、新聞社の経営規模は飛躍的に成長しました。

日清戦争での勝利は帝国主義的な外交戦略への流れを導き、戦後の新聞紙上では「帝国主義は是か非か」を問う論戦が繰り広げられるようになりました。ほとんどの新聞は帝国主義論に同意するなか、日露戦争の開戦に反対したのは幸徳秋水や内村鑑三のいた『万朝報』と、木下尚江がいた『毎日新聞』の2紙だけでした。しかし、やがて世論が好戦ムードに傾くと黒岩は非戦論を撤回、これを不満とした幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦が退社すると、『万朝報』の全盛期にも終止符が打たれ、人気を回復することはできませんでした。

日露戦争では、日清戦争のとき以上に、速報・号外合戦が盛んに行われ部数を拡大していきました。この二つの戦争中に獲得した読者を維持し、また成長した会社を支えるためにも“売れる新聞”を作る必要が生まれ、これを機に新聞は営利主義の時代を迎えました。

商業的メディアとして成長する
より読みやすい紙面にするために、見出しを立てるデザインの工夫がされたのもこの頃です。読者サービスの充実もはかられ、付録や催しの開催、増ページなどが行われ、『時事新報』では創刊25周年記念に新聞史上最多とされる224ページもの増ページを敢行しました。読者の獲得・維持のために、俳優人気投票や美人投票など、紙面企画を行うなどして、娯楽的な要素も盛り込まれました。また、新聞社内においては、経営者と記者が区別されるようになり、営業と編集の職掌分離も進んでいきました。

戦争の是非を問うのはメディアの役割ですが、戦争で部数を伸ばすのもまたメディアです。初めのころは、ただひたすらに新聞という新しいメディアが珍しく、人々はそこに何が書いてあるのかを夢中になって読みました。しかし、読者数に対する発行部数が飽和するにしたがって、「読ませる工夫」をしたり「読まれる情報」を競い合うことになります。

インターネットの始まりのころ、まだ“ホームページ”が少なかったころとよく似ていると思いませんか? ウェブサイトがあれば、ものめずらしくてつい読んでしまったりした人も多かったと思います。あるいは、ブログの始まったころのことでも同じだと思います。新しいメディアは、ただ新しいという理由で読まれる時期があります。しかし、普及が進むにつれて「読ませる工夫」「読ませ続けるしかけ」が必要になります。

明治20年代以降の新聞は、戦争という起爆剤を手にしたことにより、部数を増加させて経営を大きくしていきます。その経営を支えるためには、読者を満足させ、部数を増加させ続けなければいけません。日清戦争、日露戦争は、新聞をマスメディアへと変貌させた最初の事件だったと思います。
 
 

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Kyoko Sugimoto

京都在住の編集・ライター。ガジェット通信では、GoogleとSNS、新製品などを担当していましたが、今は「書店・ブックカフェが選ぶ一冊」京都編を取材執筆中。

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