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今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その4【音楽編】

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前3回に引き続き、今月末で著作権保護期間が満了する音楽の分野に足跡を残した先人たちを紹介します。

今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その1【文学・前編】
http://getnews.jp/archives/1281242 [リンク]

今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その2【文学・後編】
http://getnews.jp/archives/1282693 [リンク]

今月末で著作権保護期間が満了する先人たち‥2015・その3【美術編】
http://getnews.jp/archives/1286715 [リンク]

今回紹介する人物の作品は、歌詞が無い楽曲もしくは作詞者も著作権の保護期間を満了している歌曲であればカナダのペトルッチ楽譜ライブラリー(http://imslp.org/ [リンク])で来年1月1日から公開が可能になります。

なお、昨年まではサンフランシスコ講和条約における戦時加算の対象とならない海外の作曲家の一部作品についても紹介していましたが、今年は戦時加算の将来的な扱いが不透明なこと、特に欧州連合(EU)との経済連携協定(日欧EPA)でイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシャの5か国に対して遡及適用を要求される可能性があるため紹介を見送ります。

山田耕筰(1886-1965、代表作『かちどきと平和』『からたちの花』『待ちぼうけ』)

1886年(明治19年)、東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる。10歳でキリスト教伝道者の父を亡くし、義兄(姉の夫)のエドワード・ガントレットから音楽の指導を受ける。関西学院を中退後、東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)予科へ入学し1908年(明治41年)に本科を卒業、引き続き研究科でチェロを学んだ。

1910年(明治43年)、三菱財閥総帥の岩崎小弥太男爵から援助を受けてドイツのベルリン音楽学校に留学し、在学中の1912年(大正元年)に日本人として最初の交響曲『かちどきと平和』を作曲する。帰国後の1914年(大正3年)、岩崎が結成した東京フィルハーモニー会管弦楽部の主席指揮者に任命されるが、山田自身に降りかかったスキャンダル報道が岩崎の不興を買って絶縁を通告され、管弦楽部は解散してしまった。

1917年(大正6年)に渡米し、1年半の滞在中にカーネギーホールでコンサートを開催する。帰国後の1921年(大正10年)に文化学院音楽科主任となり、1924年(大正13年)に近衛秀麿と合同で日本交響楽協会を発足させるが経理の不透明さを指摘されたことに端を発して内紛状態に陥り、多額の借金を抱え込んでしまう。1926年(大正15年)、東京を離れ神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現在の茅ヶ崎市)に新居を構える。1927年(昭和2年)に北原白秋の作詞で『からたちの花』を発表して以降、北原や三木露風と組んで『待ちぼうけ』『砂山』『赤とんぼ』『野薔薇』などの現在もなお音楽の教科書に掲載されている歌曲や童謡を多数作曲した。

1936年(昭和11年)、フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授与される。日中戦争が激化する中で1940年(昭和15年)に演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任するが同会は1942年(昭和17年)に政府外郭団体の日本音楽文化協会へ統合され、副会長として「音楽挺身隊」を組織した。同協会の設立目的は戦意高揚のプロパガンダであり、山田自身もこの時期に『翼の凱歌』『米英撃滅の歌』『アッツ島血戦勇士顕彰国民歌』など100曲以上の軍歌を作曲している。日本音楽文化協会の会長となった1944年(昭和19年)には『音楽文化』掲載の「敵米国の音楽観と我等の進撃」と題する論文で敵性文化とされていたジャズを「最も低い音楽」「悪魔の音楽」と罵倒し、アメリカ人は「人間ではなく悪鬼そのものなのである」と締めくくっているが、この時期の排外主義的な文章の多くは2001年(平成13年)に岩波書店から刊行された『山田耕筰全集』への収録が見送られた。戦後は一転して進駐軍の楽団と日本側代表の立場で文化交流に当たったことから、日本音楽文化協会で理事を務めていた音楽評論家の山根銀二から東京新聞で「資格なき仲介者」と題して変節ぶりを非難される。これに対して山田の側も同紙で「山根は理事の立場で積極的に協会の活動に関与していたではないか」と反論し、論争はこれと言った結論をみずに終息した。

1948年(昭和23年)に脳溢血の後遺症で半身不随となるが、校歌や『和歌山県民歌』『鹿児島県民の歌』など戦後復興期を反映した自治体歌を多数作曲する。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会の会長に就任した。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。1965年(昭和40年)12月29日、心筋梗塞のため逝去。79歳没。プライベートでは占星術を趣味としており、1925年(大正14年)には『生れ月の神秘』と題する著作を刊行した。同書は『青空文庫』の作業リストに登録されており、来年1月以降に公開される予定となっている。

信時潔(1887-1965、代表作『海道東征』『沙羅』『海ゆかば』)

1887年(明治20年)、元津山藩士で教会牧師だった吉岡弘毅の三男として大阪市に生まれる。10歳で信時家の養子となり、旧制市岡中学校を経て東京音楽学校に入学。卒業後の1920年(大正9年)から文部省在外研究員に任命され、3年間ヨーロッパへ留学する。帰国後に東京音楽学校教授となり、1954年(昭和29年)に東京藝術大学講師を退くまで多くの作曲家を指導・育成した。その作風はヨーロッパ留学で習得したドイツ古典派の流れを汲むものと位置付けられており、自身は特に尊敬する作曲家としてヨハン・ゼバスティアン・バッハの名を挙げている。

代表作には1936年(昭和11年)発表の歌曲集『沙羅』があるが、それよりも1937年(昭和13年)に社団法人日本放送協会(NHKの前身)のラジオ番組『国民歌謡』で流されてから戦時体制下で頻繁に演奏され“準国歌”とも称された『海ゆかば』並びに1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年記念交声曲『海道東征』が真っ先に挙げられることが、今なお音楽史上における評価を難しくしていることは否めない。戦後は山田耕筰と対照的に戦時体制への協力に対する釈明を一切行わなかったこともあり「軍国主義のプロパガンダの片棒を担いだことに対する悔恨から寡作になった」と言うイメージを長らく抱かれていたが、実際はそのようなことはなく校歌や自治体歌を戦前以上のハイペースで作曲している。しかし、戦後の作品も学校の統廃合や市町村合併によって失われたものが相当数にのぼっており、中には『兵庫県民歌』のように県から制定事実を否定されているものまで存在する。

戦後の代表曲は新憲法施行記念国民歌『われらの日本』とサンフランシスコ講和条約発効記念歌『日本のあさあけ』であるが、現在では『われらの日本』は『海ゆかば』を激賞する右派から「つまらない歌」「凡作」と酷評されており、また『日本のあさあけ』は発表時から斎藤茂吉の手になる歌詞の難解さが国会で問題視されたことが尾を引いて現在ではほとんど存在を知られていない。同様に、余り知られていないが終戦直後の1945年(昭和20年)12月に創刊した岩波書店の論壇誌『世界』は哲学者の谷川徹三(1895-1989)がこの雑誌名を発案し、信時が賛意を示したことから命名されている。

生い立ちや学歴、そして没年が同じで生年が1歳違いであることから山田耕筰とは頻繁に比較対象とされているが、卒業後の進路の違いもあり両者の活動分野が重複することはほとんど無かった。ただし、1942年(昭和17年)に制定された満州国の2代目国歌は山田と信時の合作である。

1965年(昭和40年)8月1日、心筋梗塞のため逝去。77歳没。

上原げんと(1914-1965、代表作『国境の春』『港町十三番地』)

本名は上原治左衛門。1914年(大正3年)、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)に生まれる。22歳の頃から演歌師として全国を行脚していたが、1936年(昭和11年)にキングレコードと契約して岡晴夫『国境の春』の作曲でデビューする。その後も岡晴夫とのコンビで『上海の花売娘』『港シャンソン』などヒットを連発した。

1946年(昭和21年)に日本コロムビアへ移籍し、デビューから間もない時期で売り出し中だった美空ひばりの紅白歌合戦初出場曲『ひばりのマドロスさん』や『港町十三番地』などの曲を主に石本美由起の作詞で提供した。

1965年(昭和40年)8月13日、車で移動中に心筋梗塞のため急逝。50歳没。弟の上原賢六も作曲家として大成しており、青森県黒石市には上原兄弟と明本京静・山田栄一の4名を顕彰する「黒石ゆかりの四大作曲家歌謡顕彰碑」が建てられている。

(その5につづく)

画像‥山田耕筰(1956年撮影)

―― 見たことのないものを見に行こう 『ガジェット通信』
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