日常にもやもやしている人は『エンジェルメイカー』を読め!
2014年は、世界を席巻するニック・ハーカウェイ旋風が日本に到着した記念の年である。
そのデビュー作であり、日本初紹介作である『世界が終わってしまったあとの世界で』を手にして以来「ニック・ハーカウェイおもしろい」「ニック・ハーカウェイすごい」「ニック・ハーカウェイ最高!」とニック・ハーカウェイの名前が頭から離れなくなった深刻なニック・ハーカウェイ症候群罹患者も多いと聞く。街ではまるでお天気の話でもするように「ニック・ハーカウェイ読んだ?」とニック・ハーカウェイについて語り合う人々を目にするのである。いや、私には見える。見えるんですよ。
そのニック・ハーカウェイの邦訳第2作がついに出た。『エンジェルメイカー』である。どーん。総ページ数700超。新装なったハヤカワ・ミステリ(いわゆるポケミス)では最も厚い本になった。いや、新☆ハヤカワ・SF・シリーズにはそれ以上に厚いものもあるのだが。これはお買い得だ。なにしろこの作品、通常の3冊分くらいの内容が詰め込まれている。スパイ小説で教養小説で悪漢小説で家族小説で歴史改変小説で、おまけに主人公以上にかっこいいヒロインが活躍する冒険小説でもあるのだ。
主人公のジョシュア・ジョゼフ・スポークことジョーは、古い時計などの修理を請け負う機械職人だ。彼が用途不明の機械の修理を請け負ったことから事件が起きる。その機械はからくり仕立ての本だった。過去の技術で作ったとは信じられないほどの金属加工が施されており、別添えの部品を組み合わせると自動で動き始める。仕事を世話してくれた友人とともにジョーは依頼者に会い、恐るべき「エンジェルメイカー」の秘密の片鱗を聞かされるのである。
その後事態は急速に動き始める。殺人事件が起き、なぜかジョーは官憲から追い回される羽目になる。裏で糸を引いている人物が誰かはジョーにはわからないのだが、読者には見えるように書かれている。イーディー・バニスターという齢80を超した老婦人だ。バスチョンという名のパグ犬を愛玩するだけのお年寄りかと思いきや、彼女にはとんでもない秘密があった。若いころは英国を代表するスーパー・スパイだったのである。ジョーの逃避行と並んで語られるのは、その彼女の若き日のエピソードだ。インドの小藩主国に潜入し、暴君から1人の女性を救出するという手に汗握る冒険譚を読んでいるうちに、話は思わぬところへと向かっていく。そうか、そういうことなのか! と得心してもまだページはまだ300ちょい残っている。まだまだびっくりすることが待っているのですよ、あなた。
いろいろな人に読んでもらいたい小説だが、特にお薦めしたいのは今の生活にもやもやとした不満を抱えている読者だ。主人公のジョーは、まっとうな職人の祖父とギャングスタで街の人気者だった父に共に影響され、自己同一性の分裂という問題を抱えている。その彼が自分の居場所を見定めていくというのがドラマの幹になっているのである。そこにさまざまなサブプロットがくっついていて、特に近代史を別の観点から語りなおす疑似科学小説の部分はイメージ豊かでたまらない魅力がある。トマス・ピンチョンの小説みたいにへんてこな秘密結社は出てくるし、魑魅魍魎のように蠢く怪人物たちが何を考えているのか途中はさっぱりわからなくて竜巻に吸い上げられたような気分になるし。しかもこの人の癖なのか、最後には実に正攻法のクライマックスが準備してある。登場人物全員が一堂に会しての大団円だ。娯楽の基本というものを知ってるね、ハーカウェイ。
細部の魅力についても言及しておきたい。前作『世界が終わってしまったあとの世界で』にも〈逝ってよし爆弾〉をはじめとするさまざまなメカが登場したのだが、本作はその上を行く。特に印象的なのがイーディーがスパイの特訓を受ける超特急の蒸気機関車だ。その中には武道場まで設けられており、新米スパイたちは機関車から降りることなくその中で訓練を続けるのである。もちろん、物語の焦点となる〈エンジェルメイカー〉の正体も唖然とするようなものだし、全編にわたって機械、というかからくり趣味が横溢している。あえて名前を出すが宮崎駿アニメが好きな方ならきっと気に入ってもらえるはずだ。宮崎さんが好きな、気の強い女性も出てくるしね。
ものすごく大部でちょっと躊躇するかもしれないが、ページをめくり始めたら一気読みしてしまうことは間違いなし。装飾や複線になっている部分を取り去ると、実はとてもシンプルな構造なのである。幹の部分がとても太くて頑丈である。だからきっと、印象深い読書体験ができると思う。何年かしたときに振り返って、
「2015年? ああ、その年はニック・ハーカウェイを読んだ年だったね」
なんて言うことになると思うんだ。
(杉江松恋)
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