沖田総司は結核、近藤勇は胃炎…病人だらけ新選組のカルテ

沖田総司は結核、近藤勇は胃炎…病人だらけ新選組のカルテ

 大ヒット公開中の映画『るろうに剣心』は明治初期を舞台にした作品ですが、幕末に活躍した新選組隊士をモデルにした人物が登場するなど、新選組の人気ぶりは今なお衰えることはないようです。

 また今月2日には、新選組が屯所としていた西本願寺が、副長・土方歳三とのやりとりをまとめた記録を公開したことがニュースになりました。同記録によると、西本願寺に駐屯を始めたのは1865年3月10日からですが、その月の21日には新選組から500両もの借金の申し入れが。さらに同年6月には「畳一畳につき一人が寝る手狭な環境で、炎暑で病人も続出し、幕府の仕事にも支障が出る恐れもあり、隊士からの苦情を抑えきれないので、阿弥陀堂の一角五十畳ほどを借りたい」と宿所の拡大を要求しています。

 土方のたび重なる要求に西本願寺も困り果てていたようで、西本願寺は新しい屯所を建設することを条件に、新選組の立ち退きを求めます。このため新選組は、西本願寺を1867年6月15日に退去し、不動堂村に移転することに……形としては新選組が追い出されたように思えますが、実はもともと西本願寺は、倒幕派の長州藩と縁が深い寺。”鬼副長”と呼ばれた土方のことですから、西本願寺にわざと圧力をかけて倒幕派を牽制し、寺側の全額負担で新しく屯所を建てさせるという作戦を巧妙に仕組んだのかもしれません。

 西本願寺からは厄介者扱いされていた新選組ですが、そんな彼らを支え続けた医師がいたのをご存知でしょうか。

 その人物こそ、本書『胡蝶の夢』の主人公・松本良順。当時としては最先端の医学を身に付けた蘭方医で、奥御医師として将軍家に仕えていましたが、新選組局長・近藤勇の胃炎を診たことをきっかけに新選組との交流を始め、彼らの活動に深く関わっていくことになります。

 まだ新選組が西本願寺にいたころの話ですが、良順が隊士を検診したところ、約200人の隊士のうち、なんと3人に1人が感冒や梅毒をはじめ何かしらの疾患を抱える病人でした。「衛生と滋養」が何よりも大切と考えた良順は病室を分け、病院のように環境を整備することをアドバイスしました。

 男所帯の台所は残飯であふれかえる有様でしたが、それを見た良順が勧めたのが、養豚。残飯をエサに豚を育てて隊士に食べさせれば、栄養補給はもちろん、残飯も処理できるというわけです。肉食が忌まれた当時のこと、最初は気味悪がっていた隊士達も、食べてみると豚の美味しさに開眼し「良順先生の贈り物」と大変喜んだとか。かくして、西本願寺は”屯所”兼”養豚所”と化したのでした。

 さらに衛生のために入浴設備の必要性を説くと、土方はさっそく西本願寺に掛け合って風呂桶を調達、浴場を設置しました。その早さに驚く良順に、土方は涼しい顔で「兵は拙速を尊ぶとはこのことなるべし」と答えたそうです。良順はこの時を振り返り「歳三は鋭敏沈勇、百事を為す雷の如し。近藤に誤謬なきは、歳三ありたればなり」と、土方をベタホメしています。

 新選組が落ち目になった後も、良順は物心両面で彼らを支え続けました。幕府瓦解後は、戊辰戦争の激戦地会津に赴き、会津藩の藩医・南部精一郎と協力して負傷者の治療に当たったのです。一説によると、結核に罹っていた沖田総司を、江戸にかくまったのも良順だと言われています。新政府におもねる幕臣がほとんどだった中、幕府側の人々を見捨てず、1人の医師として振る舞った良順。その漢らしい生きざまには、多くの人が心を揺さぶられることでしょう。

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